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納税者は二度死ぬ  作者: 紀友
第三章 死者の値段

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第二十三話 それぞれのかたち


 応接室の扉を閉めて、ソファーに腰を下ろし、カップを置き、ローテーブルに乗せたノートパソコンと対峙する。


 私の着席を待って、モニターの中のエヴァが口を開いた。


「資料ですが、こちらでも確認しました」


 ノートパソコン画面には、オフィスを背にしたエヴァ。そして、国税庁と東京国税局の名を載せたPDFが、画面狭しと並んでいる。


 表題は、相続税課税関係の確認。


 いかにも行政文書らしい、硬く婉曲な表現。10年前の自分なら、何度も首をかしげながら格闘していたことだろう。


 弁護士資格を取って、はや5年。まだまだ新米だと認識しているが、それでもこの手の書類は何度も相手をしてきたし、今となっては何が言いたいかもわかるようになった。


 死亡時住所を日本とする前提に、国内財産に限らない確認。


 提出を求める資料の区分に、見覚えがある。モナコのホテルでエヴァに見せられた、あの底の見えない資料フォルダ。


 あの時は画面の中で、階層に階層を重ねて繋がっていた、ヴァルガスの財産。いまは日本の行政文書の項目は、そこへ手を伸ばしている。


「……全世界、ですね」


 エヴァが、乾いたため息とともに言った。


 私はその意味することを理解し、大きく頷いた。


「米国――アメリカの状況はどうなっていますか?」


「それが、よくわからない、というのがリアルなところです」


 エヴァの声に、珍しく怒りが感じて取れた。


 あの時を、ヴァルガスの死の際の映像を見た時を除いて、彼女が感情を露わにすることはほとんど見たことが無い。ヴァルガスの奔放さに呆れるときも、どこかフォーマットに則ったジェスチャーだった。


「死後処理のプランは、当然ありました」


 エヴァが続ける。


「ボス本人は、そういう話を好みませんでしたが、資産家と呼ばれる人たちは例外なく、自身の死後を考えます。ボスが無関心だったので、法務が固めたものにはなりますが」


 それはそうだろう。資産家でなくても、生前から相続を意識する人は多い。


 日本で言えば、まず生前贈与。暦年課税では年間110万円の基礎控除があり、定期性を薄くし、長期間にわたって行う事で相続人に薄く長く資産を移すことができる。ただ、国も手を打ち、晩年になって慌てて財産を配っても、その分は相続財産として課税対象になる。


 次に、生命保険。死亡保険金には法定相続人1人につき、500万円の非課税枠。法定相続人が10人いれば5000万円だから、地味に大きい。


 ここまでが一般の人が取りうる手立てだが、資産家になってくると、もう少し選択肢が広がる。


 現金の不動産化がそれだ。不動産の評価額は一般的な売買価格ではなく、路線価などを基準に算定されるため、現金で持っている場合に比べて二割程度、賃貸物件として組み立てれば三割、条件によっては四割近くまで課税上の評価額を圧縮できる。

 

 もちろん、ヴァルガス規模になると、このどれもが焼け石に水レベルだろう。


 思考に潜っていると、かすかな振動に意識を取り戻した。


 カップの中の水面が、わずかに波打っている。


 そういえば、上階に原状復帰工事が入るので、しばらくはうるさくなる。そんなことを、節子さんづてに聞いたことを思い出した。


「アメリカで遺産税を処理する前提で、死後の資産管理計画は組まれていました。基本方針は単純です。企業群を維持するために動かしてはいけない資産と、相続人に渡す資産を分ける。納税のために支配構造を崩さない。財団の活動も、必要最小限の範囲で止めない。そういう設計です」


ヴァルガスの資産の大半を占めるのが、自身が支配する企業の株式だ。その評価額に対して発生する莫大な税を、分割で納める。果たしてどこまで可能なのだろう。


「アメリカの行政とは、どこまで話がついていたんですか?」


「IRSとは合意済みでした。少なくとも、アメリカで死亡し、アメリカの遺産税として処理する限りにおいては」


 IRS。Internal Revenue Service――アメリカの連邦税を扱う税務当局だ。


 日本で言えば、国税庁に近い存在だ。そのIRSと合意済みというなら、少なくともアメリカ側でのプランは、ただの希望的観測ではない。


 エヴァが続けた。


「事業持分にかかる税は、長期の分割納付。主要会社の持分は市場に出さない。担保は、支配構造に影響しにくい資産から出す。議決権は一時管理の枠に入れる。財団の支出は、研究、医療、教育の予算に限って継続する。そこまでは文書化されています」


「文書化、ですか」


「はい。ボスは現政権中枢にも大きな貸しがありましたから、財務省側との調整は、通常よりはるかに早く進みました」


 「しかし」と、エヴァが苦笑を浮かべた。


「日本は遺産税が高いですね」


 遺産税。日本での呼称は相続税。


 先進国の中には、相続税そのものを持たない国もある。オーストラリアやニュージーランド、スウェーデンなど。相続税のあるOECD諸国の中でも、日本の相続税率55%は最も高い。


「段階税率なので、六億円を超えれば、ではあるんですが……」


 言って、私はノートパソコンの中の電卓を立ち上げ、計算する。


 150兆円×55%−7,200万円=82兆4,999億2,800万円


 実効税率は54.999952%。つまりほぼ55%だ。


「――腹が立ちますね」


 思わず自分の口を手でふさいだ。


 ただの感情の吐露。プロとしてあるまじき行為。


「すみません……」


 WEBカメラの前で、エヴァが柔らかい笑みを浮かべた。


「いえ、頼もしい言葉です」


 彼女は、すぐに顔を戻す。


「ボスが亡くなってから、ずっと色々な処理をしています。葬儀、警察、財団、相続人、会社、政府、報道と。――でも、日本のこれは処理できません。これを通したら、ボスが築いてきたものが、壊れてしまう」


 悲痛な表情。


 喉の奥まで、慰めの言葉が込み上げた。それをこらえた。


 違う。今必要なのは、慰めの言葉じゃない。


「打てる手を、順番に切ります」


 必要なのは、次の手だ。


「まず、日本側への初期回答を行います。取り急ぎ、生活実態に関する資料を出します」


「危険ではないですか? それを出してしまえば、死亡時住所の材料になります」


「出さなくても、材料はすでにあります。まずは、手続きとして応じる構えを見せます」


 私はモニターに別の資料を出した。


「国外財産の一括開示は遅らせます。その間に、アメリカから日本に対して、遺産税の権利はアメリカにあると、圧力をかけることはできませんか?」


「でも、アメリカ側は課税権が日本有利と見ているふしがあります」


「それでもやってください。多少は時間が稼げます」


 考えろ、何かあるはずだ。


「時間を稼ぎつつ、アメリカでの課税根拠を積んでください」


「わかりました。税収だけではなく、事業継続と雇用を前に出してみます」


「お願いします」


 問題は、他にもある。


「相続人側の、意志の統一は図れそうですか?」


 エヴァははっきりと首を振った。


「ボスは親族が多く、取りまとめが厳しい状態です。生前から抱えている、親族間での訴訟も残っている状態です」


「現金化を急ぐ人もいる、ということですね」


 エヴァが頷く。内側に時間稼ぎを良しとしない人がいる。日本の課税根拠を認めて支払い、早く相続額を確定しろと迫ってくるはずだ。


「その人たちは、相続分でどの程度ですか?」


「法定相続分ベースで、三%前後です。主張を最大限に見れば、四%近くまで」


 3、いや、4だ。ここは保守的に動くしかない。


 全世界財産150兆円の4%なら、6兆円。日本の相続税を前提にすれば、手元に残るのはその45%。


 ――2兆7000億円。


「買いましょう。正確には企業群に手を出す権利のみですが、日本の課税を前提に早期処理を求めるなら、税引後の手取り相当を先に渡す。その代わり、主要会社の持分売却、議決権への介入、手続きへの異議を和解で封じます」


「ですが、原資は?」


 エヴァが尋ねた。


「故人名義の資産は使えません。法人側を動かします。今回の混乱で直接不利益を受ける会社に、自社防衛として資金を作らせる。非中核資産の売却と、担保提供です――できますか?」


「確認します」


 そう言うと、エヴァの手がカメラのフレームを横切り、軽快なキータッチの音をマイクが拾った。


「私の方で、働きかけが可能な企業がいくつかあります。可能な限り会社の権利を守りつつ、担保に入れることのできる資産を考えると……試算が出ました」


 エヴァの顔が明るい色を帯びて、手元から上がった。


「二兆三千億円までは、作れます」


 足りない。


「あと、四千億円……」


 ヴァルガスの資産から見れば、さほどではない額だ。それでも、おいそれと用立てできる額ではない。


「残りは、私が保有している関連会社の株を売却します。IPO前ですが、買い手はいます」


 新規株式公開。ヴァルガスの未上場企業の株式であれば、確かに欲する人は多い。でも――。


「エヴァさん個人のものですよね? 今売れば、相当買い叩かれます。上場後なら得られたはずの価値も、大きく失うことになりますよ?」


「構いません」


 エヴァの薄い笑みは、吹っ切れたような、それでいて何かを思い描いているような、とらえどころのないものだった。


「ボスの残したものを、守れるなら」



     ◇     ◇     ◇





 応接室を出て、自分の席に戻った。


「どうでしたか?」


 初期回答、米国からの牽制、相続人の切り離し、法人の資金、エヴァの株。


 他に打てる手は、何かないか。


 どれも必要な手だけど、すべて周辺の火消しにしかならない。


 根本的な解決に、繋がらない。


 これまでの状況を考えれば、国税庁と東京国税局の手は、必ず全世界財産へ伸びる。それを崩さない限り、どれほど時間を稼いでも、最後には同じ場所へ戻ってくる。


 死亡時住所。


 生活の本拠。


 法律の言葉は、ときどき残酷なくらい短い。


 その短い言葉の中に、故人の生きてきた積み重ねが、全部押し込められ、大きく切り取られる。


 打てる手は、――ある。


 そこまで考えて、背中に冷たいものが走った。


 できるのか。


 私に。


 こちらにあるのは、ノートパソコンと、数人分の手と、まだ形になっていない仮説だけだ。


「先生、大丈夫ですか?」


 あかりの手が肩に、声が耳に触れた。


 振り向くと、心配そうな顔で私を見ている。少し離れた席で、節子さんも手を止めている。


「大丈夫、ありがとう」


 声を出すと、思考の輪郭が少し戻った。


 だけじゃない。


 頼れる助手と、母のような節子さんの手。数人分でも、重さが違う。このノートパソコンだって、減価償却があと数年残っている高価なものだ。


 笑みがこぼれた。


 不思議そうにするあかりが、なんだか可愛い。


 それに――


 私は、書棚の父の遺影を見た。


 真面目そうな顔。実際は、撮られ慣れていない写真を嫌々、なんとかそれっぽい表情を頑張って作って撮られた1枚。事務所のホームページに載せるように、私が撮った。


 一人じゃない。


 やることは決まった。


「あかり、ヴァルガス氏の日本滞在に関する資料を時系列で整理して。入出国、宿泊先、医療機関、面会記録、通信、支払い、移動手段。全部。ただし、漫然と並べないこと。日本にいた事実を確認するためではなく、日本にいた理由を見ます。滞在が一時的なものだったのか、どこに戻る予定だったのか、日本以外の拠点をどう維持していたのか。その材料を探します」


「はい」


 一気に早口で出し切った言葉を、あかりは短く、しっかりと受け止めてくれた。


「節子さんは、国税庁と東京国税局から来た文書を全部、日付順に整理してください。差出人、宛先、回答期限、求められている資料、こちらが出したもの、まだ出していないもの。封筒、メール、PDFの取得日時も含めて、原本性がわかる形で保存をお願いします」


「あらあら。でも、さすがに人手の補充は必要ですよ?」


 節子さんにはかなわない。困ったことに、全部理解している。


「もちろん必要な専門家は手配します。ですが、メインは私たちです」


 あかりは私の指示を小声で反復して、自分の中で咀嚼している。


 やることは多い。


 委任状。本人確認。利益相反の確認。


 期限も洗う必要がある。国税側への回答期限、こちらから確認を求める期限、アメリカ側から資料を受け取る期限、翻訳にかかる日数、専門家に意見を求める日数。


 また、笑みが込み上げた。


 いつ以来だろう、こういうのは。


 いや、いつからかは、わかってる。父の事務所を継いだ、あの日からだ。


「あ……先生、これって」


 咀嚼が終わったのか、あかりが目を丸くしてこちらを見ている。


 あかりには見せたことが無い私。これから、見せてあげる。


「うん、裁判をするわ」


 私の半身を取り戻すために。奪われかけている、ヴァルガスの残したものを守るために。


 それを望む、エヴァのために。


 言葉は、気負わずに、当然のように、形になった。


「国と戦うわよ」



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