第二十二話 紙にできない話
官邸の小会議室には、一冊にまとめられた資料があった。
表紙の右下には、小さく版数が入っている。最初の会議で出た八十二兆円という数字は、もうそこにはない。
資料の表題は、会議のたびに弱くなっていった。
『相続税課税可能性に関する初期整理』
『課税対象財産の範囲』
『日米課税権の調整』
最初の表題には、まだ取れるかもしれないという熱があった。次の版では、どこまで対象にできるかという話になった。その次になると、こちらだけでは決められないという意味が、表題の中に入り込んでいる。
いま机の上に置かれている最新版の表題は、こうだ。
『徴収可能性の検討』
取る、という言葉は、最後まで戻ってこない。
会議机についているのは、永井総理、小宮山幹事長、国税庁の塚本部長、そして私だけだ。
財務省主税局の九条審議官の席は、空いている。総理直轄の検討メンバーの一人だが、今日はまだ来ていない。
永井総理は、その空席を一度見ただけで、資料の中ほどにある比較表を開いた。官房スタッフが貼った付箋の位置まで、もう把握しているような手つきだった。
国内財産については、まだ日本側で押さえられる余地がある。死亡時住所についても、本人申請の永住許可、K町での生活実態、日本国内での死亡という三点は変わらない。
そこまでは、何度確認しても同じだ。
だが、全世界財産へ踏み込むたび、表の右端にある国名の欄ですべてが止まる。
永井総理は、その欄に置いた指を動かさなかった。
「結局、ここなのね」
総理の指先の下で、紙面がわずかにしわを浮かべた。
『米国』
誰も、すぐには答えなかった。
答えは資料に出ている。だからこそ、誰も先に口にしたがらなかった。口にすれば、最初の会議で一度膨らんだ八十二兆円という数字が、さらに遠のく。
塚本部長の喉の奥が鳴った。
その一拍を、永井総理は待った。待ってやった、という方が近いかもしれない。
「はい。各省庁で整理を進めましたが、最大の障壁は、やはり米国です」
永井総理は、資料から顔を上げなかった。
「ここまで検討して、その結論なわけ?」
「永住許可、K町での生活実態、日本国内での死亡という三点では、日本が強いのは確かです。ただ、全世界財産の評価と徴収に進む段階で、米国がかなりの強硬姿勢を示しており」
塚本部長が、比較表の左側を指した。
「米国籍と米国遺産税の課税権を盾に、真っ向から対立している状態です」
永井総理は、そこで少しだけ顎を上げた。
「そんなことは初めからわかっていたことじゃない」
「……はい」
その返事で、みなが資料に目を落とした。
最初の会議の時は、八十二兆円という数字が出た瞬間、財源、補正、国債、整理基金という言葉が、各省庁の顔に先に出ていた。
今日は顔ぶれからして違う。
熱気に浮足立って、取った後のことを口にする者はいない。
小宮山幹事長が、表の右端を見ながら言った。
「米国は、日本より法的に有利というわけでもない」
「はい」
永井総理は、そこで初めて資料から目を離した。
「つまり、どちらも引けない」
塚本部長が頷いた。
「ヴァルガス氏は、アメリカを含む三か国の国籍を保有していました。アメリカ以外の二か国については、永住許可、K町での生活実態、日本国内での死亡という三点から見て、主たる障害にはなりにくいと見ています」
「アメリカは違う、と」
永井総理が、先に言った。
「米国籍を有していた以上、米国側は米国市民の全世界遺産として、米国遺産税を主張する。また、主要事業や相続人の多くが米国に接続していることも付け加える」
永井総理は、説明の途中で遮らなかった。
それが、かえって怖い。
この人は、分からない時に怒るのではない。分かっていて気に入らない時ほど、相手に最後まで言わせる。
「――以上が米国側の返答です。現時点では、全世界財産を前提とした満額の評価・徴収は、相当困難と考えます」
「困難」
永井総理は、その語を嫌そうに繰り返した。
嫌われる言葉は、会議室の中ですぐに分かる。
「では、前回の八十二兆円は何だったの」
誰もすぐには答えなかった。
最初に口を開いたのは、小宮山だ。
「政治的に言えば、最大値です」
永井総理は、小宮山を見た。
「政治的に?」
「はい。日本が法令に基づいて主張し得る最大値です。実際の徴収額が変わることは往々としてあります」
「減るのは見栄えが悪いのよ」
「ええ。ですから、米国と事前にすり合わせを行い、確定した金額を最大値として事前に公表すればいいわけです」
永井総理は、そこで黙った。
彼女は小宮山の言い方を嫌うことがある。だが、こういう時だけは、役に立つと思っている顔をする。
塚本部長が、次の別紙を開いた。
「米国側からは、現時点では非公式照会に留まっています。ただ、照会の量と速度を見る限り、向こうも落としどころを探っているように見えます」
「その落としどころで、日本はいくら取れるの」
塚本部長は、一度だけ資料に目を落とした。
「諸々を織り込むと、実収は三十兆円前後まで圧縮される可能性があります」
「八十二兆円が、三十兆円」
永井総理は、しばらく資料を見ていた。
「半分以下じゃない」
「はい」
小宮山幹事長が、紙面の米国の文字を爪の先で軽く叩いた。
「日本側の三点は強い。永住許可、生活実態、国内死亡。米国も無視はできない」
ふむ、と小宮山は腕を組んで思慮深いそぶりを見せた。
「どこまで増やせそうですか?」
「――そこです!」
小宮山の問いに、この会議中はじめて、塚本部長が明るい顔を見せた。
「米国ははじめから、落としどころを探っています」
「まだ切り崩す余地はある、と」
塚本部長は、今度は慎重にうなずいた。
「米国が引くというより、日本の課税手続を正面から潰しに来ないところまで調整する、ということになります」
調整。
その言葉が出て、ようやく話が私の仕事になった。
課税対象や遺産税の計算は、塚本部長や九条審議官の領分だ。だが、外務省にどの線で当て、財務省と国税庁の説明をどこまで揃え、総理にどの紙を上げるかとなれば、結局は官房へ戻ってくる。
私は、メモの端に『日米調整』と書いた。
書きたくはないが、書かないわけにもいかない。
「では、それで進めなさい。外務省、財務省、法務省それぞれに指示を出して」
「わかりました」
この会議で、私の最初で最後の発言になるだろう。
総理の怒りの矛先にならずに済んだ――そう思った時だった。
入口側の扉が開き、官房スタッフの一人が、扉の前で姿勢を正した。
「失礼します。九条審議官がお見えです」
眉を寄せた永井総理をよそに、九条が入ってきた。
いつものように、歩き方に急ぎはない。遅れて来たことへの言い訳をする様子もない。
手には、一台のタブレットだけを持っている。
官房スタッフが椅子を引こうとするのを、九条は手で制して、立ったまま会議机の端に着いた。
「遅くなりました」
「もう終わるところよ」
永井総理は、露骨に不満を含ませて言った。
九条は答えずに室内を見回した。
永井総理、小宮山幹事長、塚本部長、そして私。
「このまま、続けてよろしいでしょうか」
何を――そう永井総理が口にしかけたところで、九条が次の言葉を続けた。
「本件と切り離せません」
永井総理は、九条の手元を見た。
「配布資料は」
「ありません」
短い返事だ。
官房スタッフのペンが止まった。
永井総理は、九条をしばらく見ていた。
「記録に残せないということ?」
「少なくとも、今この場の議事録には残すべきではありません」
塚本部長が、わずかに身じろぎした。
私は、小宮山幹事長の顔を窺ったが、表情からは何も読み取れない。
永井総理は、官房スタッフに顔を向けた。
「外して」
官房スタッフは頭を下げて出ていった。
「最低限の人数でお願いします」
「これが最低限じゃないの」
永井総理の声が、少し低くなった。
九条は、机の上にタブレットを置きながら言った。
「最低限がよろしいかと」
永井総理は、九条を見ていた。
小宮山幹事長は口を挟まない。
「隣で待機しております」
そう言って、塚本部長は資料を閉じた。誰も引き止めない。
私も、それに続いて席を立とうとした。
「あなたは残って」
永井総理の声で、動きが止まった。
「……承知しました」
私は椅子に戻った。
官房スタッフと塚本部長が出ていく。扉が閉まるまで、九条は机の上のタブレットを開かなかった。
残ったのは、永井総理、小宮山幹事長、九条審議官、そして私だった。
「与党と官邸だけ……これでいいわね」
「はい」
短く答えた九条が、折りたたまれたタブレットを開き、机の上に立てる。
走ってでも、その場から離れるべきだった。
副長官の席を空けることになっても、そうするべきだった。




