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納税者は二度死ぬ  作者: 紀友
第三章 死者の値段

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第二十一話 見えない相手


 ヴァルガスの死亡が確認されてから、数日が過ぎていた。


事務所の机の上には、まだ書類らしい書類はない。あるのは、電話メモとメールの印刷、私が作り始めた分類表、あかりが拾った照会元の一覧だけだ。


これから来るであろう書類と手続きを前に、事務所は受け入れ準備をしている段階にある。


 死亡後の手続きは始まっている。けれど、何か一つの案件として形になっているわけではない。誰が何を聞いてきたのか。どの照会に答えてよく、どれを保留すべきなのか。まずはそれを分けないと、次に進めない。


 ここ数日の作業の大半を占めている分類用フォルダが、ノートPCの画面に並んでいた。


<行政>

<警察>

<邸宅側>

<エヴァ(米国)>

<相続人>

<財団・信託>

<関連企業>

<報道>

<権限不明>


 最後の名前を「その他」にしなかったのは、そこに何でも落ちるのが分かっていたからだ。今必要なのは、分からないものを分からないまま残すことだった。相手が本物かどうか。どの立場で接触してきているのか。


 現時点で判断が付かないものは、記録だけ残しておかなければいけない。


「先生、海外からの照会メールがまた来ました」


 あかりが言った。


「エヴァさん経由?」


「違います。米国の法律事務所名は入っていますけど、エヴァさんのチームリストに名前はありません」


 あかりは慣れた手つきでキーボードを叩き、結果を読み上げた。


「実際に存在する法律事務所ですね。所属している弁護士のバーナンバーを見ると、登録がかなり古い……大ベテランですね。しかも、ここの所属弁護士、何人も『元・連邦検事』の肩書きを持ってます」


 続けて「めんどくさそう」と小さく付け足した。


「委任関係の資料は」


「添付なしです」


「受領確認だけして権限不明に放り込んでおいて」


「はーい。元連邦検事、却下でーす」


 あかりは慣れた手つきで処理を始める。


 正規の連絡であれば、エヴァか、その指揮下にあるチームから来る。こちらへ直接届く海外照会の多くは、本線に入れなかった誰かが、別の入口を探しているものだ。相続人の代理人を名乗る者、財団との関係を示す者、過去の取引を理由に情報を求める者。名刺や事務所名が本物でも、それだけで答えていい相手にはならない。


 今の私たちの仕事は、答えることではなく、通してはいけないものを止め、記録すること。


 節子さんは、代表番号を受けている。


「恐れ入りますが、個別の案件についてはお答えできません。ご照会は書面でお願いいたします。はい、宛先は弊所代表メールで結構です。ただし、回答をお約束するものではございません」


 同じ説明を、朝から何度も聞いている。資料を読む以前に、入ってくる連絡を仕分けるだけで時間が削られていた。


 他にも、報道からの電話もあれば、所属を曖昧にしたまま、ヴァルガス氏の日本での生活実態について確認したい、と言ってくる相手もいる。行政機関の担当部署名を名乗る照会もある。そこには、死亡後の手続きとして自然なものと、そう言い切るには少し範囲が広いものが混じっている。


 私は、エヴァに送るメールの下書きを開いた。


 『本人死亡後の国内窓口について、現時点で麻生総合法律事務所が対応してよい範囲を再確認したいと考えています』


 日本国内の行政照会、死亡届、住民登録、在留関係、税務上の初期整理について、どの主体の依頼として動くのかを明確にしたい。既存の顧問契約と委任状の写しを前提に、死亡後の指示権者と連絡経路を書面で確認したい。


 文章にすると、当たり前のことばかりだった。


 亡くなった人の代理人であり続けることはできない。けれど、亡くなった人の手続きは、誰かが始めなければならない。そこを曖昧にしたまま動くと、あとで全部が崩れる。


 送信前にもう一度読み返していると、私の直通が鳴った。


 表示には、高田先生の名前が出ている。


『代表にかけたんだけど、ずっと保留になってたので、こっちにかけたけど、大丈夫?』


 声はいつも通り大きかったが、普段のような笑いは混じっていない。


「はい、お願いします」


 高田先生からの電話は、在留カードと住民登録の件だった。


『在留カードと住民登録の件。死亡届は邸宅側から出す形でいいと思うんだけど、届出人と添付書類の確認がまだ残ってるんだよ』


 私はメモに、在留カード、住民登録、死亡届、と書いた。


『今回だと、たぶん死体検案書になると思う。原本、どこにあるか分かる?』


「すみません、まだうちでも確認できていません」


『だよね……。死亡届に付けるなら原本が動くから、出す前に写しを取れるか確認しておきたい。あとで税務や在留関係で必要になるし』


「至急、所在を確認してみます」


 いまの段階で、死体検案書が出ていないというのは考えにくい。


 検案書自体はすでに出ていて、どこかで止まっている。そう考えるのが自然だ。


 エヴァは日本にいない。邸宅には警察、邸宅スタッフ、私設警護、海外側の関係者が出入りしている。検案した側から誰かへ渡されたとしても、その誰かが、私の知っている相手とは限らない。


 私が邸宅側の連絡先一覧を開きかけたところで、高田先生の話は続いた。


『行政から、いくつか照会が来たよ』


 私は手を止めた。


『相続税という言葉は、まだ出てきてない』


 死亡時の住所。生活の本拠。永住許可の経緯。国内滞在の実態。住民登録。届出人。原資料。


 「相続税」の三文字がないことが、かえって不気味に感じる。


 ヴァルガスは永住許可を得て、K町に生活拠点を置き、日本で亡くなっている。日本が何も確認しない方が、むしろおかしい。


 問題は、誰もまだその言葉を表に出していないことだった。


『慎重になってるんだろうねぇ』


 高田先生は、いつもの調子に近い声で言った。


『言っておくけど、相続税の計算に入ったら、うちだけじゃ無理だからね』


 どこまでが日本の相続税の対象になるのかは、まだ分からない。


 国内財産だけで済むのか。国外財産まで見るのか。信託、財団、持株会社、未公開株式、各国に分かれた相続人。そこまで考えたところで、私はメモ帳の上のペン先を止めた。


 全世界財産、という言葉が一瞬よぎった。


 私はそれを否定して、メモには書かなかった。


『無理だからね! ふりじゃないからね!!』


 節子さんのいつも通りの電話応対も、あかりの軽口も、高田先生のこの調子も、今の事務所には必要だ。誰も状況を軽く見ているわけではない。ただ、全員が真顔だけになったら、気が重くなる連絡と確認を一日中さばくことはできない。


 ありがたいと思った。


『――麻生先生、聞いてる?!』




     ◇     ◇     ◇




 最近、誰かに見られている気がする。


 買い物袋を持つ手を替え、住宅街の道を歩いた。角の手前に停まっていた車には、見覚えがない。通りの向こうから来る自転車、犬を連れた老人、いつもと同じ光景が、いつもと違うものに見える。


 そう思うようになったのがいつからなのか、私にははっきりしない。


 夫が亡くなって、もう一年以上が過ぎている。その間、役所の窓口でも、職場でも、近所でも、人の目を意識しない日はなかった。


 それでも最近は、少し違っていた。


 嫌なことが続いているせいで、気持ちが落ち着かない。


 先週の連休前に、息子が自転車で転んで、左足を折った。


 車にぶつかったわけではない。路肩に停まっていた車が急に動き、それに驚いてハンドルを切り損ねた。転び方が悪く、骨折になった。


 車は、そのまま行ってしまったらしい。


 警察には、接触していなくても届けは出しておいた方がいいと言われた。学校にも話した。近所の人たちも、しばらくは心配してくれた。


 車も、運転していた人も、まだ見つかっていない。


「あら、高橋さん」


 道の端で立ち話をしていた女性が、こちらを見た。


 二軒隣の奥さんだった。お子さんはすでに独立され、今は旦那さんと二人暮らしだ。隣にいるのは、向かいの棟の奥さんで、回覧板の順番がうちの前に来る。


 どちらも夫の葬儀に来てくれた人たちだ。近所付き合いとしては長いが、立ち話以上の距離ではない。


 私は、軽く会釈した。


「お買い物?」


 私は、買い物袋を少し持ち上げ、もう一度会釈をして歩き出した。


 挨拶は、それで足りる。足を止めてしまうと、次の言葉が来る。次の言葉が来れば、こちらも何かを返さなければならない。今は、そんな気分ではない。


 数歩進んだところで、背後の声が少し低くなった。


「……最近、とくに暗いわよね」


「ご主人が亡くなった時より暗くない?」


「ほら、あの頃は、いい人がいたらしいから」


「都内のホテルで見たって、自治会の――」


 角を曲がったところで、先は聞こえなくなった。


 私に聞かせる声量だった。私たちは知っていますよ、と言う代わりに。


 葬式の時もそうだった。職場や親せきの人たちがいるところで、自殺らしいと話していた。


 何を知っているというのだろう。


(何も知らないくせに)


 そう思うと、少し可笑しい。気にすることはない。言わせておけばいい。


 でも、と、「いい人」のことを思い出す。


 最近、連絡がない。私が暗いのは、確かにそのせいかもしれない。


 家の前まで来ると、買い物袋の持ち手が指に食い込む。玄関前の小さな段差に足を乗せ、袋を片手にまとめて鍵を探す。


 ――っ!!


 鍵を手にした瞬間、室内から音がした。


 ドン、と、何かが倒れたような音だった。


 私は鍵を差し込み、回し、慌ててドアを開いた。


「……なにしてるの」


 玄関ホールで、息子がしりもちをついている。片方の松葉杖が床に転がっている。ギプスを巻いた足は、変な方向にはなっていない。


「なにしてるの」


 私は、もう一度言った。


「窓からお母さん見えたから」


 買い物袋を床に置き、息子の脇に手を入れた。息子は壁に手をつき、片足に体重をかけて立ち上がった。


「おなか減っちゃって」


「まだ晩御飯の時間じゃないわよ……」


 私は松葉杖を拾って渡した。


 息子はそれを受け取り、リビングの方へ戻った。私は買い物袋を持ち直し、その後を追った。


 リビングの窓から夕日が差し込んでいる。隣家の建物の隙間を抜け、細い光の帯を作っている。


 その帯が、一瞬だけ揺らいだ。


 私は買い物袋を持ったまま、片手でカーテンを閉め、外からの光を遮った。


「どうしたの?」


「もう寒くなるから」


 よほどお腹が減っているのか、台所に向かう私の後ろを、息子がぴったりと着いてくる。


 キッチンカウンターに荷物を置き、冷蔵庫に入れるものから取り出す。


「あ……」


 パックの角がへこみ、卵が一つ割れている。


 さっき、慌てて玄関を開けたときにぶつけたのかもしれない。


「それ、卵かけご飯にして食べるよ!」


「わかったから、向こうに行って待ってて」


 手を洗い、牛乳と肉類を冷蔵庫に入れて、小鉢を取り出す。


 リビングでは、息子が松葉杖を床に置き、リモコンを片手にソファに体を投げ出していた。テレビでは、ヴァルガスの死亡を受けた各国の対応が流れている。


 私は、割れた卵を小鉢に移し、砕けた殻を一つ一つ取り除いた。


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