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納税者は二度死ぬ  作者: 紀友
第三章 死者の値段

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第二十話 相続税


 官房スタッフが、会議室のテーブルに資料を置いていった。


 表紙には、こう印字されていた。


 『イーサン・ヴァルガス氏死亡に伴う相続税課税可能性に関する初期整理』


 私は覗き込むようにして、表紙の文字を最後まで読んだ。


 死亡に伴う。


 相続税。


 課税可能性。


 どれも役所の資料に出てくる言葉だった。だから、誰も表紙を見ただけでは声を上げなかった。


 ただ、財務省側の担当者が、配られた資料をすぐには開かなかった。国税庁側の担当者は、自分の手元の紙だけを見ている。外務省側は、資料ではなく端末の画面を先に確認していた。


 永井総理は、表紙を一瞥してから、資料の角を揃えた。


「始めて」


 国税庁側の担当者が、一枚目を開いた。


「……真壁副長官、資料を」


 傍らの官僚が、卓上に置かれたままの資料を手に取るよう促した。


 私が慌てて手にすると、それを合図に担当者が口を開いた。


「現時点での初期整理です。故イーサン・ヴァルガス氏については、日本の永住許可を取得し、死亡時点でK町N区の邸宅を主たる居所として使用していた事実があります。最終的な住所判定は、滞在日数、生活実態、資産管理の実態、家族関係、国内外の活動記録を総合して行うことになりますが、日本に住所を有していたと整理される可能性があります」


 永井総理は、資料の先を読んでいた。


「本人申請の永住許可ね」


「はい。本人申請に基づく永住許可です」


「日本に住む意思を示していた」


 担当者は大きく頷いた。


 小宮山幹事長が、資料の上段を指で押さえた。


「死亡場所も日本国内」


「K町N区の邸宅内です」


 そこで、外務省側が端末から顔を上げ、報告を引き継いだ。


「米国側からは、すでに非公式の照会が来ています」


 会議室のほぼ全員が、『米国』の単語に反応し、外務省側を見た。


「ヴァルガス氏の主要事業、財団、研究機関、相続人の多くが米国側に接続しています。米国としても、自国の制度と管轄を前提に整理したいという意向です」


「他は」


 永井総理が言った。


「モナコを含む過去の長期滞在国、資産管理の拠点とされていた国、信託や財団に関係する法域も、それぞれ照会の準備に入っています。各国とも、自国の法解釈を最大限に広げてくると見た方がよろしいかと」


「みんな取りに来るわけね」


「はい」


 国税庁側の担当者が、資料を一枚めくった。


「日本側に有利な材料はあります。本人申請に基づく永住許可、K町での生活実態、日本国内での死亡。この三点は大きいです」


 永井総理は、資料の表紙にもう一度目を落とした。


 国税庁側の担当者は、次の行を読んだ。


「死亡時点で日本に住所を有していたと整理される場合、課税対象は国内財産に限られません」


 法務省側の担当者が、手元の資料を一枚戻した。


「国外財産も、ですか」


「はい。制度上は、全世界財産が検討対象になります」


 財務省側の担当者が、ここで初めて自分の資料を開いた。


 額に汗が浮いていた。


 ――全世界財産。


 その言葉の意味を、誰も知らなかったわけではない。だが、それをイーサン・ヴァルガスという名前に接続した瞬間、資料の上に並んでいた言葉の重さが変わった。


 本人保有株式。持株会社の持分。信託受益権。財団に関係する権利。未公開持分。金融資産。不動産。美術品。ありとあらゆる故人の遺産が、課税対象となる。


 項目は税務上の限られた分類にすぎない。けれど、その一つひとつの先に、企業があり、財団があり、研究機関があり、さらにその先へと芋づる式に続いている。


 永井総理が、そこで初めて顔を上げた。


 国税庁側の担当者は、答える前に一度だけ息を吸った。


「イーサン・ヴァルガス氏の全世界財産に対し、相続税およそ五十五%を課すことが可能と思われます」


 その語が出た瞬間、会議室の温度が変わった。


 誰かが椅子の上で姿勢を直した。外務省側の担当者が、隣の席へ小声で何かを確認した。法務省側は開いていたページを一枚戻し、国税庁側の資料と照合している。


 相続税。


 企業買収でも、制裁金でも、特別負担金でもない。


 ひとりの人間が死んだことで発生する、通常の税目。


 財務省側の担当者が、次の資料を前に出した。


 その手は、明らかに汗ばんでいた。紙の端が、指先に少し張りついている。男は説明を始める前に、ハンカチで額を押さえた。会議室の空調は効いている。暑いわけではない。


「極めて粗い概算です。相続人の確定、各国法、信託、財団関連権利、非上場持分の評価など、未確定要素は多くあります」


「前置きはいいから、金額を言いなさい、金額を」


 永井総理は、前置きを切った。


 担当者は、もう一度ハンカチを当てた。拭っても、すぐにこめかみに汗が浮く。


「総遺産規模を百五十兆円と仮置きした場合――」


 さらに間を置き、一呼吸。それから、一気に吐き出した。


「税額は、およそ八十二兆円」


 一瞬、誰も動かなかった。


 その直後、会議室が大きく揺れた。


 大声を上げた者はいない。けれど、全員が同じ姿勢ではいられなくなった。資料をめくる音が重なり、端末の画面がいくつも切り替わった。外務省側は米国との協議経路を口にし、法務省側は相続人の範囲を確認し、財務省側の別の担当者は、すでに歳入見込みの資料を探していた。


「八十二兆円……」


 誰からともなく、金額がため息となってこぼれた。


 それは確認ではなかった。


 頭の中で、その金で出来ることが無数に浮かんだ。


 財務省側の担当者は、汗を拭いながら続けた。


「これは、我が国の一年間の税収に匹敵する規模です。単一の被相続人に対する相続税額としては、世界的にも前例を確認できない水準になります」


 ざわつきは、そこでさらに大きくなった。


 財源。補正。国債。国債整理基金。

 財産評価。国外財産。徴収体制。国際課税。

 米国。条約。二重課税。外国税額控除。

 相続人。権利関係。訴訟。処分制限。


 ざわつきの一つ一つが、所属ごとに熱望する予算の名称だった。


 まだ一円も国庫に入っていない。それでも八十二兆円は、会議室の中で先に使い道を持ち始めていた。


 永井総理は、黙って資料の数字を見つめていた。


 会場全体が徐々に我に返り、やっと静寂を取り戻してから、総理は口を開いた。


「――取れるの」


 皆の視線が、国税庁担当者に集まる。


 担当者は慎重に口を開いた。


「前述のとおり制度上、全世界財産まで検討対象になり得ます。ただし、死亡時住所、永住者としての地位、相続人ごとの納税義務区分をまず固める必要があります。そのうえで、株式、持分、信託、財団関係の権利を一つずつ、誰の財産として誰が取得したのか、米国を含む関係国とすり合わせることになります」


「障害は多いということね……」


「ご認識のとおりです」


「で、取れるの?」


「死亡時住所という入口では、日本側が最も強いです。本人申請による永住許可、K町での生活実態、日本国内での死亡。この三つをそろえて示せる国は、日本だけです」


 永井総理の口元が、わずかに動いた。


『日本だけ』そう復唱しているように見えた。


 笑ったとは言い切れない。彼女の目はまだ資料の数字に残っている。


 それから、総理はおもむろに立ち上がり、姿勢を正して言った。


「亡くなった方には、哀悼の意を示します」


 官房スタッフが、その言葉をメモに取る。哀悼の意という言葉は向きを持たず、総理の目線の先は別のものを見ている。


「そのうえで、法は法です」


 永井総理はそう言って、右手を肩の高さまで上げ、手のひらを横へ短く払った。前へ出ろ、と命じるような動きだった。


「はい。表向きは、まず哀悼です。故人の死去に弔意を示し、関係国と連絡を取りながら必要な確認を進めている。その方針で進めます」


 小宮山は即答し、続けた。


「相続税という言葉も、こちらからは出しません。聞かれた場合は、個別の税務については答えない。法令に基づき適切に対応する、で止めます」


「取らないとは言わない」


「――言いません」


「取るとも言わない」


「――言いません」


「個別の税務」


「――個別の税務です」


「法令に基づき」


「――適切に対応する」


 永井総理は、いままでこの会議で見せなかった笑みを小宮山へ向けた。


 一同は、目の前で行われた儀式を目にして、その異質さに言葉を失った。


 総理が言い、小宮山が受け、官房側のメモに施された時点で、それは政府の方針として確定した。


 官房スタッフが、各自から『初期整理』と書かれた資料を回収していく。


 永井総理は、近寄った官房スタッフを手で制し、言った。


「――小宮山幹事長」


「はい」


「真壁副長官。財務省主税局、九条審議官。国税庁、塚本部長」


 自分の名前が出て、私は反応が遅れた。


 退室するつもりで、私は手元の『初期整理』を返しかけていた。受け取るはずだった官房スタッフの手が、私の名を聞いて引いた。


「以上のメンバーで、本案件の検討を継続します」


 永井総理は、立ったまま、誰に向けるともなく宣言した。


「議長は私、永井真理――内閣総理大臣が務めます」



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