第5話:【救世主】あるいは、あまりに過激な恩返し
振り下ろされる巨大な斧。その刃から滴り落ちる黒い泥のような瘴気を見た瞬間
私の前世の直感が「これに触れたら魂ごと腐る」と警報を鳴らした。
「あ、これ死んだわ」と悟りを開きかけたその時――。
「――にゃー」
あまりに場違いな鳴き声が響き、直後、物理法則を無視した突風が私を真横から叩きつけた。
「ぶふぇっ!?」
それは助けなどという生温いものではない。
まるで邪魔な石ころをどけるような無慈悲な衝撃。
防壁を張る魔力も踏ん張る体力もない私は、地面を無様に転がり、数メートル先の灌木に突っ込んだ。
(……痛っ!? 手加減ゼロかよ、あの野郎。……いや、違うのか)
毒づきながら目を開けると、そこには体長3メートルを超す銀色の巨獣が
一匹の小さな子猫を自らの腹の下に匿い、オークを威嚇する姿があった。
子猫は逃げ遅れたのか、震えながら母猫の足元に丸まっている。
(なるほどな。私を守ったんじゃない。我が子を守るために、射線上にいた私が邪魔だっただけか)
母猫の瞳には、黒い瘴気を纏うオークに対する明確な「生理的嫌悪」と
奪わせまいとする「親」の執念が宿っていた。
オークが吠え、巨獣が受けて立つ。
だが、状況は依然として最悪だ。
オークの「黒い泥」を纏った一撃は、巨獣の銀毛を掠めただけでそこを黒く腐らせていく。
このままではジリ貧だ。
私は灌木に突っ込んだまま、震える呼吸を整え始めた。
集められる魔力は、あと一撃分。自分を守るための結界に使うか、それとも――。
(……あんな親の顔を見せられたら、放っておけるわけないだろ)
前世、そして今世で見てきた「守ろうとする者」の強さと脆さ。
私は、自分を生かすための生存戦略を一時的に放棄した。
この絶体絶命の盤面をひっくり返せるのは、私ではなく、あの「お母さん」だけだ。
「……花梨ちゃん! 男子たち! 私に構わず、猫を狙う岩だけを落として!!」
私は聖女の微笑をかなぐり捨て、全魔力を指先に凝縮した。
支援魔法:【極限特化】。
(信じたぞ、お母さん。あんたの脚なら、その汚い斧を置き去りにできるはずだ……!)
通常の「全体強化」ではない。私の全魔力を、巨猫の「速度」のみに強制変換して注ぎ込む
文字通りの一点賭けだ。
援護に気づいたオークが、私を先に潰すべきだと学習し、巨大な岩を投げ放つ。
支援に全魔力を注いだ私は、今、一ミリも動けない。
「高橋さんは……俺が守る……!!」
それを、満身創痍の男子生徒が盾で弾き飛ばした。
骨が砕ける嫌な音がしたが、彼は一歩も退かない。
有希が自分たちを守るために無防備になったのだと勝手に解釈し
その献身に己の命で応えようとしていた。
(ナイスだ、肉壁……! あとでちゃんと治してやるからな!)
魔力の奔流を受けた巨猫が、物理法則を超えた速度で跳ねた。
黒い斧が空を切る。オークが反応するよりも早く
銀の閃光がオークの懐を突き抜け、その心臓部を深い爪痕で抉り取った。
「今だ! 全員、最大火力で叩き込め!!」
花梨の叫び声と共に、生き残ったメンバーの魔法弾がオークの傷口に着弾する。
凄まじい爆発。ついに、森の覇者が轟音と共に膝を突き、その場に沈んだ。
静寂が落ちる。
巨猫は役目を終えたかのように、震える子猫を口に咥え
私に一度だけ「お前は合格だ」と言わんばかりの冷徹な視線を送ると、森の深淵へと消えていった。
「……終わった」
私は自分の体に微弱な回復魔法を掛けながら、ようやく上体を起こした。
(マジで死ぬかと思った。……でもこれで、私の評価はまた上がるが、経験値は一切吸わずに済んだ。
完全犯罪だ)
勝利を噛み締め、日常への帰還を確信した。
……だが、オークの死体に纏わりつく「黒い泥」が
死ぬどころか増殖を始めていることに気づいた瞬間、私の背筋に本物の悪寒が走った。
ボコ、ボコボコ……。
死体の中から、異形の骨が乱杭歯のように突き出す。
筋肉は異常なほど肥大し、その顔面からは「目」が消え
代わりに巨大な亀裂のような口だけが顔を占拠していく。
(……嘘だろ。なんで一介のダンジョン実習で
**『深淵変異』**なんて理不尽な代物が起きるんだ……!?)
それは、かつての「オーク」とは根本から違う
ただ森の全てを腐らせ尽くすまで止まらない「殺戮の権化」だった。
絶望に染まるメンバーを尻目に、変貌を遂げた「それ」が、ギチギチと骨を鳴らしながら立ち上がった。




