第10話:【聖女の休息】交渉と契約、あるいは境界の変質
朝日が差し込んでいるはずなのに、体感としては夜が続いている。
視界は明るいのに、意識だけが重いまま底へ沈んでいく。
「ずいぶん酷い顔だな。昨夜は一睡もしていないのか?」
声をかけてきたのは、子猫たちを器用に毛繕いしていたウィットだ。
今は魔力を抑え、普通の白猫サイズに縮小している。
「ああ。地獄を見たよ……」
昨晩、母・希に叩き込まれたのは、単なるマナーの範疇を超えていた。
筋力「1」の私が日常生活で自壊しないよう
魔力を全身に循環させ、強制的に骨格を支える歩法。それは肉体を維持するための儀式に近い。
『歪だな』
ウィットが金色の瞳で私を射抜く。
『その歩き方は“生き延びるため”に最適化されているが、“人間としては不自然だ”
お前の母親、一体何者だ?』
「……私が知りたいよ」
そんな私の弱音を断ち切るように、キッチンから母の鋭い声が飛んできた。
「有希、魔力の流れが乱れてるわよ。左重心、一ミリ。歩き方が崩れてる。やり直し」
「…っ、はい」
一瞬で背筋が伸びる。教育者というより、精密機械の微調整を行う整備士の視線だ。
私は呪文のような溜息を飲み込み、母に叩き込まれた「歪な歩法」で玄関へと向かった。
◇
「ねえ、有希。なんか今日……“人っぽくない”よ?」
学校に着くなり、花梨にそう囁かれた。
「え……?」
「なんて言うか、無駄な動きが全くないっていうか。
見てるだけで、こっちの背筋が伸びるっていうか……。ちょっと、怖いかも」
無意識の恐怖。花梨のような感覚の鋭いタイプには
今の私が「魔力で動かされる人形」のように見えているのかもしれない。
「昨日の夜まで、みっちり『勉強』をさせられていたから。その名残かな」
私が力なく笑うと、花梨はそれ以上踏み込んでこなかった。
そんな時だった。
「……高橋。少し、いいか?」
岩倉だった。あの実習以来、クラスメイトの視線もあって距離を置いていたはずの彼が
かつてないほど真剣な面持ちで立っている。
「放課後、人目のない場所で話したい。……例の『約束』の件だ」
その言葉に、周囲の花梨たちが「なになに!?」「約束ってなに!?」と色めき立つ。
「大したことじゃないわ。後でね」
私は彼女たちを適当にいなして、チャイムと共に席に着いた。
◇
放課後。校舎裏のベンチ。
夕闇が差し始める静寂の中で、私は岩倉と隣合って座っていた。
「で、岩倉くん。例の約束……『なんでも言うことを聞く』ってやつだけど。
一応言っておくけど、変なことはお断りよ?」
私は努めて聖女らしく、いたずらっぽく微笑んで見せた。
「一度だけでいい、デートをしてほしい」
開口一番、彼はそう言った。
あまりの直球に、一瞬だけ思考が停止する。
「……は?」
「いや、それだけじゃないんだ。
他にも候補があって……。
これからも俺とパーティを組んでほしいとか、友達として連絡先を交換してほしいとか。
……一つに絞れなかった」
私は思わず吹き出した。
「なにそれ。一つだけって言ったのに、結局全部じゃない」
「しょうがないだろう。聖女とまで呼ばれているお前から
そんな言葉を引き出せる機会なんて、もう二度とないと思ったんだ」
クソ真面目な顔で言う彼に、私は小さく溜息をついた。
(この実直さ。かつて嫌というほど見てきた『裏切り者』とは正反対だ。
この手合いは、一度懐に入れれば絶対に背中を預けられる)
「いいわ。その三つ、全部まとめて叶えてあげる」
「えっ……いいのか?」
「その代わり、条件が一つ」
私は一歩歩み寄り、彼をじっと見つめた。
「その『聖女』っていう呼び方、やめて。……有希って呼んでくれるなら、いいよ」
「なっ……」
岩倉が驚愕に目を見開く。私はわざとらしく顔を赤く染めて、視線を逸らした。
「私だって、男友達なんていないんだから。……呼びかけるの、結構恥ずかしいんだからね!
それに、私とパーティを組むと、また昨日みたいな危険な目に遭うかもしれないわよ?」
「そんなの、どうってことない。……本当に、いいのか? 有希」
「もう、二度言わせないでよ! よろしくね、……周平くん。まずは『友達』としてね」
「……ああ。よろしく、有希。パーティメンバーとしても、な」
「うん。よろしくね、しゅうくん」
私が極上の笑みを向けると、彼は耳まで真っ赤にして俯いた。
(よし。これで盾が手に入った!しかし、お母さんの演技指導がもう役立つなんて)
内心、ガッツポーズと母親の指導の凄さを感嘆しつつ、話を切り出す。
「それで。さっきのデートの話だけど、いつがいい?」
帰り道、歩きながら私が尋ねると、彼は落ち着かない様子で言った。
「今度の週末がいいな」
「わかった。楽しみにしてるわね」
年甲斐もなく、少しだけ心が弾むのを感じながら校門を抜ける。
その瞬間、理由もなく足が止まった。
校門の前。そこには、数台の黒塗りの高級車と、明らかに場違いな威圧感を放つ「黒服の男たち」が並んでいた。
嫌な予感だけが、先に立つ。
この空気が、今の平和を許してくれるはずがないと、本能が警鐘を鳴らしていた




