第9話:【日常の崩壊】聖女の母、あるいは最強の教育者
重い扉を開けると、夕飯のカレーの匂いがした。
――さっきまで死線にいたとは思えないほど、平和な匂いだ。
「ただいま……」
疲労困憊で玄関に倒れ込みそうになる私を出迎えたのは
エプロン姿の母・希と、新聞を片手に持った父・有仁だった。
学校では死んだことになっている父だ。
――しかし、こうして何事もなかったように新聞を読んでいる。
「おかえり、有希。……って」
「…………」
出迎えの言葉は、私の背後に鎮座する『巨大な白猫』と
その足元でじゃれ合う子猫たちを見た瞬間、ピタリと止まった。
◇
「……で? 傷ついていたところを治してやったら、懐いてついてきた、と」
「ええ。子猫もいて可哀想だったから」
お茶を啜りながらしれっと嘘をつく私。式神契約の件は当然伏せている。
有仁が、鋭い目をウィットに向けた。
「……妙だな。この個体、普通の魔物じゃない。
有希、本当に躾けられるのか? ……まあいい。お前が連れてきた時点で、もう“外”には出せんか」
父の独り言のような一言に、背筋がわずかに泡立つ。
その言葉に反応したのは、当のウィットだった。
『――自己紹介がまだだったな、人間たち』
脳内に直接、低く威厳のある念話が響き渡る。
『勘違いするな。私は屈したわけではない。主導権は私にある』
ピリッ、とリビングの空気が張り詰める。
だが、母・希は眉ひとつ動かさず、淡々とウィットを見据えた。
「言葉が通じるなら話は早いわね。子供のしつけ、ちゃんとやれるんでしょ?」
『……ああ。それは当然だ』
「ならいいわ。言葉が通じて教育もできるなら
防犯にもなるし大歓迎よ。必要なものがあったら言って、用意するから」
『え……? いや、私の話を――』
「よろしくな、ウィット。有希、いい拾い物したじゃない」
『…………。ああ、よろしく頼む』
有無を言わさぬ母の圧力に、さしものウィットも毒気を抜かれたらしい。
我が家の両親の図太さは、かつての英雄である私すら引くレベルだ。
「さて。猫の件はこれで解決として」
希が、にっこりと完璧な笑顔で私を振り返った。
「有希。あなた、最近学校で『聖女』なんて呼ばれてるらしいじゃない?」
「……はて? なんのことでしょう?」
背筋に冷たい汗が伝う。
「誤魔化しても無駄よ。お母さんの情報網を舐めないで。
……いい? 『聖女』として注目されるなら、それ相応の立ち居振る舞いがあるわ。
今日から徹底的に教育するわよ」
「お、お母さん!? 私、ステータス全部『1』だよ!? 絶対無理!」
「大丈夫よ。それも含めて、お母さんがあなたにぴったりのメニューを組んであげるから」
私は咄嗟に腹を抱え、床にうずくまった。
「あ、ああーッ! 急に実習の痛みが! 古傷が痛んで動けない……!」
「……さっきから見てたけど、怪我、嘘ね。
呼吸の乱れ方が違うもの。それと、有希。逃げようとした瞬間、左足に体重を乗せたわね。
癖、変わってないわよ」
母の冷ややかな一言が、私の逃げ道を物理的に封鎖した。
「【極大治癒(S級ハイ・ヒール)】」
神々しい光がリビングを包み込み、私の疲労と痛みを細胞レベルで完全消去した。
「さ、痛みが消えたところで、行くわよ」
「えっ」
希は、ポカンとする私を軽々と、お姫様抱っこで持ち上げた。
(……まずい。今のウィットより、母さんの方がよっぽど厄介だ)
私は内心でそう確信したが抗う術はない。
「ぎゃあああああああっ!!」
そのまま地下室の奥にある「訓練場」へと連行されていく私。絶望の雄叫びが家中に響き渡る。
リビングに取り残されたウィットと子猫たちは、その光景をただ無言で見送っていた。
『(……あの悪魔のような主人を、有無を言わさず力業で連行するメス……この家
一番ヤバいのはあいつなのでは……?)』
――その瞬間、ウィットの毛が逆立った。
何に対してかは分からない。気配も、音もない。
それでも本能が告げていた。
――“さっきまで、いなかったはずの何かがいる”。
だが、それが「いつからいるのか」を、誰も思い出せない。




