Verse 2: アルメニカへようこそ
Verse 2: アルメニカへようこそ
Phase/カナリア・ステラ
私達は朝の支度を終え、彼のアパートの昇降機に乗っています。
鉄枠で囲まれた狭い箱は小刻みに揺れ、内部の歯車がかちり、かちりと音を鳴らしています。
扉の上では、ニキシー管に表示された数字が階層を一つずつ切り替えていきます。
私の味覚認識機能には、まだ僅かに不快感が残留していました。
「苦いのが苦手なら、そう言ってくれれば良かったのに」
彼は僅かに眉を下げて私に言いました。
「いいえ。ウィル。
ですが、コーヒーは私には適さない様です」
「ははは、それって要は不味かったってことだろ?
おじさんのところじゃ我慢して飲んでたのか」
「拒否権はありませんので」
「あのなあ……。
別に、嫌なもんには嫌って言えばいいんだ。
おじさんだってそんなつもりで飲ませてたわけじゃないだろうし。
……実を言うと、俺もコーヒーの味って好きじゃないんだよな」
「では、どうしてあなたはコーヒーを常飲するのですか?」
「普段からよく飲んでるってわけでもないんだ。
ただ、あの人の店に行くと、頼んでもないのに毎回淹れてくれるからさ」
ウィンクルレインはニキシー管の数字に視線を移し、言葉を続けます。
「あの人の淹れるコーヒーは馬鹿みたいに濃くて、馬鹿みたいに苦い。
けど、なんでかその味に安心する自分もいるんだ。
こういうのを思い出の味っていうのかもな」
「それは、プルースト効果というものですね。ウィル。
味覚に適合しないと理解していても、そこに付随する記憶や安心感のために飲むという、人間の矛盾した行動の一つです」
「はは、そうかもしれない。
味とか香りとかに記憶が結びついてどうたら、ってやつだっけか。
確か昔、なにかの本で読んだな」
やがて、昇降機の階層表示が一階に切り替わりました。
蒸気圧の抜ける音と共に扉が開きます。
◆◇◆◇◆◇
通路を抜けて建物の外へ出ると、様々な雑踏が私の聴覚機能を刺激します。
同時に、眼前に広がった景色が情報の奔流となって流れ込んできます。
顔を上に向けてみると、不規則に積み上げられた建造物がひしめき合っていました。
更に上空には、灰白色の蒸気を吐き出しながら飛び交う飛行船の姿も目に映ります。
通りには、道行く多くの人間達の姿がありました。
それぞれが同じ方角へと、足早に歩みを進めていました。
すれ違いざまに交わされる挨拶も、目的地へ向かう歩調も、流れるような規則性の中に収まっているようです。
私は更に視線を巡らせます。
街の至る所に、オートマトンの姿も見えます。
その様式は多岐に渡ります。
人間のような二脚のもの、昆虫のような多脚のもの、細い車輪で荷物を運ぶもの。
いずれも寡黙に、各々の役割をこなすように稼働を続けています。
それらの景観は、彼から話に聞いて空想していたものとよく似ていました。
私は、そっと右腕を伸ばします。
そこには、空想とは違う匂いや空気、質感、手触りのようなものがあります。
これが彼らの言っていた、自ら体験する、という事なのでしょうか。
私は道行く人々を指差して、ウィンクルレインに尋ねます。
「あの方々は、何故あのようなマスクを着用しているのですか? ウィル。
顔に着用していない方々でさえ、いずれも腰に携帯しています」
「ん、あれはそうだな……昔の名残、って言えばいいのかな。
昔はこの2層にも工場なんかが多くて、空気汚染も今よりずっと酷いもんでさ。
そのおかげで、みんなああした防塵用のガスマスクや、ペストマスクを身に着けるようになったんだ。
それが今じゃ、実用性も兼ねたファッションやアイデンティティとしても定着したってわけだな」
「──アイデンティティ」
自己の同一性、あるいは、自己の存在証明。
人間は、あのような仮面や衣装を身に付ける事で自身と他者を隔て、自己を確立させているのでしょうか。
ウィンクルレインは遠方の建物に顔を向けます。
「今だってまだ工場は多いし、清浄な空気とはとても言えないけどな」
私は改めて周囲を見回しました。
至る所に張り巡らされた配管や路面から、まるで呼吸を繰り返すように白濁した蒸気が断続的に噴き出されています。
「では、どうしてあなたはマスクの着用をしていないのですか? ウィル」
「カナリア、昨日した話を思い出してみてくれ。
──フェイズが発症すると?」
私は彼との会話履歴から、該当する発言を検索します。
「『フェイズが発症すれば、個人差はあるにせよ、常人離れした筋力だったり、反射神経が手に入る』」
「正解」
「はい」
「その中には、免疫力だって含まれることになる。
だから防塵目的でアダプターがマスクを使う必要はあまりないんだ。
とはいえ、もちろん限度はあるけどな。
汚染が酷い場所じゃ流石に付けるようにはしてるよ」
「理解しました。ウィル。
それでは、あなたには──」
「あー、待った。
話は歩きながらにしよう、カナリア。
このままだと目的地に着く前に日が暮れそうだ。
道すがら質問にはちゃんと答えるから」
「わかりました。ウィル」
彼の言葉に従い、私たちは人の流れに加わって歩き始めました。
その間にも、私は目に映るもの一つ一つについて、彼に質問を重ねていきました。
◆◇◆◇◆◇
建物の壁を修繕していたオートマトンに関する説明を受けている最中、頭上から声がかかりました。
「おーい、ウィルー!」
声の方向を見上げます。
建物の窓から一人の女性が、こちらに向けて羽箒を振っていました。
「こないだは助かったわ!
あんたが塞いでくれたボイラーのパイプね、あれから漏れなくなったよ!
おかげで洗濯物も、ようやく煙まみれの外に干さなくて済むようになったんだ!」
ウィンクルレインも声を張り上げ、彼女に返答を返します。
「おはよう、レジーナさん!
けど、あれは応急処置だからな!
早いうちに修繕士に頼んでくれよ!」
「わかったわぁ!
──……あら?」
彼女の視線が、私に向けられました。
「……見ない顔だね?
それに随分おめかしして……。
やだウィル、アンタ……!
もしかして──」
「そんなんじゃないって!
この子はカナリア!
エバンスおじさんから預かってるんだ!
これから仲良くしてくれると助かるよ!」
私は彼の言葉に続いて、レジーナと呼ばれた女性にお辞儀を返します。
「あらららららら、礼儀正しい子だねぇ!
カナリアちゃん、よろしくねぇ!」
彼女はこちらに向けて片目を閉じると、手を振りながら窓の奥へと戻って行きました。
「相変わらず忙しない人だな……」
ウィンクルレインはそう零し、眉を下げて笑いました。
その後も、彼はすれ違う人間達と幾度か挨拶を交わしていました。
「あなたはご友人が多いのですね。ウィル」
「んー、友人というか、たまに簡単な手伝いをしてるだけだよ」
「成る程。
そのようにして他者とのコミュニケーションを構築するのですね」
「はは、またマニュアル的な言い回しだ。
そんな形式張ったもんじゃなくて、困った時はお互い様ってことさ」
「お互い様。
損得による取引ではなく、相互扶助の慣習に近い概念なのですね。
興味深い関係性です」
「あー……損得か」
彼は一度立ち止まると、僅かに顔を上に向けました。
「まあ、そういう意味では確かにそうとも言えるな。
むしろそっちの方が後腐れなくて良いかもしれない」
彼はそう呟くとすぐに歩みを再開し、行き交う人波を縫うように進んでいきます。
私もその背を追いながら、視界に映るあらゆるものへ関心を向け続けました。
◆◇◆◇◆◇
私達は、黒鉄の枠組みで造られた、大規模な昇降型の建物の前に辿り着きました。
その正面ゲートには、公共時計が嵌め込まれています。
先ほどまで私たちと同じ方向へ向かっていた人々の多くは、その建物の中へ淀みなく吸い込まれていきます。
見上げた時計の秒針は、彼らの歩調を指揮するかのように、厳かに時を刻んでいました。
「ここが高架鉄道の入口だ。
2層じゃこれが一番安価で基本的な移動手段の一つだから、覚えておいてくれ」
彼は視線を建物から私へ移し、言葉を続けます。
「……それにしても、カナリアは本当に気になるもの全部訊いてくるよな。
おかげで、時間はいつもの倍かかったけど」
「申し訳ありません。ウィル。
ご迷惑でしたか?」
「悪い、そう聴こえたか?
感心してるんだよ。
今まで気にも留めてなかったけど、駅までの道にも、案外色んなものが転がってるもんだ。
これからも気になることを見つけたら、遠慮なく訊いてくれて構わない」
私は彼の言葉に小さく頷きます。
「──そういえば、あそこに丁度いいものがあったな」
彼は何かに気が付いた様子で、視線を前方に向けました。
そのまま昇降装置の付近へと近づいていきます。
私は数歩遅れて、彼の背中を追いかけました。
Verse 2.End




