肆 暗香
本日もよろしくお願いします。
数軒先のうどん屋で一息吐いた頃には、蒼葉の涙の跡は薄まっていた。
「大坂も酷いだろうね。あれほど人がいるのだから。ここら辺も、家が潰れて、地割れが起きて、木が倒れて、田んぼが滅茶苦茶にされて…… 大変なものだよ。ただ、家は密集していないから、火は広がらなかったかな…… それにしても、大坂からここまで随分走ったんだね。結構かかるだろうに。その調子だと、嬢ちゃんたちが一番乗りかもしれないね」
「一番乗り!」
蒼葉は小躍りして叫ぶ。
琴葉はそれを見て、胸を打たれる思いになった。
「…… その才を買って、嬢ちゃんたちと、取引がしたい。私と一緒に江戸まで行かないか? 生活費は払おう。その代わり、琴ちゃんを草葉師として雇う」
琴葉は泡を食って、うどんをつるっとお椀の中に落としてしまった。
汁が跳ねて、顔の擦り傷に当たる。
逆に、蒼葉は顔を青くさせた。それもそのはず。
「私は、お姉ちゃんをもう危険な目に遭わせたくないな…… お姉ちゃん、お願い、断って」
三日前に、両親を亡くして。
そして今日、自らが誘った森で、姉が殺されかけた。もう沢山だった。
実は、蒼葉が琴葉を森に誘った理由は、旅費がないことを察していたから。
読売には、葉怪を大変貴重で有用な物だと書いてあった。
葉怪を捕れば、お金が沢山手に入ると思っていたのだ。
全て、運動神経が優れていた姉を、無条件に信じていた幼心が原因だった。
ただ、そのお金が手に入るというところは、奇しくも現実になり始めている。
「蒼葉。私も、恐いよ。けど、皆を、助けるため、だから。それ、に…… 葉怪ってものの、こと、知らなきゃ、いけない、気が、する」
二人は姉妹。運命共同体。片方が頷けば、もう片方だって折れなくてはいけない。
「…… 良いよ。死なないで、お姉ちゃん」
覚悟を決める。
「よし、旅籠屋に帰ろう。さっきの葉怪の使い方を教えてあげるよ」
「…… あれ、私に、くれるんで、すか… ?」
「もちろん。琴ちゃんがいなければ捕まえなかった葉怪だ。大事に使いな」
― ― ―
敵だった。ずっと敵だった。知らぬ間に侵されていた。逃げなければ、逃げなければ。あの人から。友を連れて、どこか遠くへ行かなければ。
あれは、化け物だ。
― ― ―
疲れの残る足を、なんとか引きずる。
琴葉たちの部屋と徒世の部屋は隣接していた。廊下を跨いで向こう側。
中は、実用品以外が無い、旅人らしい質素な空間になっている。
およそ二畳半の小さな空間に、生活必需品が詰め込まれている。
一つ、特筆すべきことがあるとすれば、その生活必需品が全て、二人分あることだろうか。
だが、琴葉が指摘することはなかった。伴侶か、またはそれに近しい立場の人物がいるのだろうと推測できたからだ。徒世自身が、未亡人や粋筋のように、色気を漂わせていたのもあった。
その徒世は、敷布団の上に胡座をかいて座っていた。
姐さんかむりを解いたのか、根結いの垂髪がすらりと腰まで伸びている。
髪は黒羽色をしていて、窓からの風を受けて揺れるその様子は、まるで騏驥の尾のように美しく思えた。
「さて、刀の葉怪を出してごらん」
葉は、先ほどと変わらない様子だ。刀の文字が、刃と同じ燻銀で、爛爛と光っている。
「この文字は、葉脈。発動するとき、一段と光る。葉怪の力が宿る場所だと言われている。さあ、刀と言ってみなさい。大丈夫、脇差程度だから」
琴葉はこの指で摘まんだ葉が、脇差に変化する姿を思い浮かべた。全く分からなかった。で
も、とりあえずやってみることにした。
「刀」
葉脈の光が勢いを増す。
銀の光が、くるくると葉の周りを回り出す。
そして、琴葉が持っている場所から、徐々に刀に変わっていく。
常盤色をした柄。煌めく刀身。それを少し触ってみる。ひんやりしている。
さっきまで葉だったそれは、今は刃物に様変わりしていた。
刀は、抜けば玉散る氷の刃と言って良いぐらい、鋭くて。
「凄、い… 」
「これが、葉怪の力だ。少し慣れれば、思い思いに刀を変化させられるよ。その物が、刀だ
と言える範囲でだが…… 先ほどは時間が掛かったけれど、次からはもっと速く変化させられる。では、次は葉と言ってごらん」
「……葉」
今度は、時を戻すかのように変化して、葉に戻っていく。
とても速かった。二秒足らずで元の状態へ辿り着いた。
「後で本を貸すよ。葉怪事典と言う本だ。私の師から譲り受けた。葉怪について詳しく書か
れている。刀は具現変化するが、そうではない物もあるから…… よく読むと良い」
徒世は、その本を持ってこようと腰を浮かす。
しかし、何か思い出したかのように手を打ち、隅に置いてあった大きくて細長い入れ物を開けた。
「これを忘れていた」
そう言って取り出したのは、赤子でも握って振り回せるような、小さな虫取り網。長さが調節できる優れ物のようだ。
「え、っと…… 浮いてる、葉を、捕るための、物、です、か?」
「当たり。これは葉捕り網だ。葉―― 核を捕るための虫取り網。予備だから気にしないで使
ってくれ」
持ち手と網の部分を引っ張ってみる。
するすると長くなったり短くなったりした。
高価な物かもと恐ろしく思いつつ、琴葉は戦闘時のことを想像してみる。
刀との両手持ちになるだろうか。
「…… ありがとう、ござ、います」
「ふ…… さて、今日はもう寝なさい。蒼ちゃんも待っていることだし、細々としたことはま
た明日にしよう」
「は、い…… 」
琴葉は、貸してもらった本を見つめた。ぱらぱらとめくると、絵や図柄がちらほら見える。
窓の外を眺めると、もうすでに入相いりあい が訪れた後で、辺りは闇に包まれていた。
こんなときは月の光だけが頼りだが、今日は新月で月の光も無い。
殺されかけたあの森すら、どこにあるのか分からない。
「おやすみ」
部屋を去ろうとした瞬間、徒世から優しく声をかけられた。
喜びなのか、怒りなのか、哀しみなのか、楽しみなのか分からない。全てかもしれない。
よく分からない感情が、琴葉の胸に沸き起こった。
琴葉は、たった一言の、いつもと変わらぬ返しをした。
「おやすみ、なさい」
― ― ―
「伏せなさい!」
普段物静かな母の大声で、その災厄は始まった。
がたごとがたごとと音を立てて、細かい揺れが家族を襲う。
間髪入れず、大きな揺れが来る。
咄嗟に伏せたことによって、蒼葉と姉は倒れずに済んだ。
しかし、箪笥を抑えて倒れないようにしていた父は、急に起こった大きな揺れに対応しきれず、転倒する。
「お父さん!」
父に食器や服が降ってくる。
咄嗟に頭を守り、危機は回避したが、床に落ちた母のお気に入りの食器が割れて、その破片が父の足裏に刺さる。
「うっ」
父は痛みに呻いて、なんとか片足だけで立とうとするが、そこを急な揺れが邪魔をする。
父は倒れ、頭を打って動けなくなってしまった。
へっついの火が着物に燃え移る。
慌てて姉が立ち上がって、飲み途中の味噌汁を着物にかける。
しかし、炎は止まらなかった。
「蒼葉、助け、を、呼んで、きて…… !」
姉が叫ぶ。蒼葉は地を這って外に出る。
阿鼻叫喚。
お隣さんの家は潰れていて、中から呻き声が聞こえる。
共用で使われていた井戸は、半ば倒壊している。
「誰か…… 誰か、いませんか!火事なんです!火が…… お父さんが…… 」
叫んでも誰もこない。
もう誰もいないのかもしれない。
何で、何で何で何で。
数刻前まで、変わらない平和を生きていたはずなのに。
何で。
「そうだ、桶を…… 」
蒼葉は急いで家から桶を持ってきて、壊れかけの井戸の水を汲んだ。
よし、行ける。
蒼葉がそう思った瞬間。
「危、ないっ!」
姉の声がして、意識は途切れた。
「うぐっ…… ?」
起きると、蒼葉の傍には姉がいた。
頭が痛い。首を動かしていないのに、視界がぐわんぐわんと動く。
そうか自分は、井戸から落ちた石で頭を怪我して……
「蒼葉、よく、聞いて。蒼葉が、気絶、した、後、家全体に、火が、回ってしまった、から、私が、蒼葉を背負って、この高、台まで、来た。蒼葉は、蒼葉、は、ここで、待っていて。私はお父さんと、お母さんを、助け、助けてくる、から。絶対、に」
無理に気丈に振舞う姉。
空は、有無を言わさぬ黒い雲で埋め尽くされている。
夢であってくれと、誰もが思った。
姉は、独りで帰ってきた。
そういう、救いの無い、どこにでもある話。
誤字脱字報告ありがとうございます。
否定的なコメントはやめてくださると幸いです。
余談ですが、タイトルの中にある現世は「うつしよ」と読みます。「わくらばまえばうつしよは」です。
私は「わくしよ」と呼んでいますけれど、他に呼称があれば、ぜひ感想に書いていってください。




