参拾 忘れ霜
本日もよろしくお願いします。
すごく長くなってしまった。
風が薙いだ。烏はよろめいた。
ここは竹林だ。
真ん中に一本の巨木が生えている。
その巨木の幹の、天辺。
人が一人立てるぐらいの窪み。
そこから一間ほど離れた宙に、竜の頭がある。
雨は、この場にいる誰かの思いを届けている。
少女が倒れている。
今にも、そこに墓を作ってしまいそうな少女が。
紅梅色の瞳を閉じて。
綺麗な黒髪は砂埃にまみれて。
小袖は、一部が破れて素肌が露わになっていて。
そんな、どこにでもいる、災禍の中の少女。
きっとすぐ死ぬ。流れ出した血は戻らない。
かぐや姫が月へ戻るかのように。
不可逆なことがこの世には存在する。
「お姉ちゃ、ん……」
少女は、その乾いた唇から、人生で一番呼んできた名を零した。
若く、蒼い、嫩葉が、今まさに枯れつつある。
「あお、は、蒼葉、待って、待って……」
姉は風になれない。
掬うこともできない。見ていることしかできない。
呪われているのか。いっそ、呪いの所為にしてしまいたい。嗚呼、何故。どうして。
虎は欠伸をして、動き始める。攻撃も何もせず、とぼとぼと歩き始める。
少女を背中に乗せたまま。どこかへ。のらりと。
そう、戦いは終わったのだ。
逆転も転覆もどんでん返しも、舞台上には存在しない。
絶望。
絶望?
もう一人の自分が体を揺する。
葉月は、森の中で目を覚ました。
木漏れ日が、疲労を湛えた体を照らす。
手を引っ張られ、無理やり起こされる。目の前の零葉は、酷い顔をしていた。
「どう、し……っ」
言い切る前に、零葉は葉月を引っ張り、どこかへ連れて行こうとする。
その力は強く、体力を消耗しきっている葉月は、逆らえずにずるずると引っ張られていく。
その先に見えたのは、竹林だった。
零葉は、手を巨木の方へ向けた。
虎がいた。こちらへ歩いてくる。
命令を達成したのだと、生け捕りにしたのだと考え、葉月は安堵しながら駆け寄った。
それは正しかった。
最悪な形で、正しく命令は達成された。
「葉、づ」
琴葉の瞳が揺れ、言葉を紡ごうとする。
具現変化の葉怪は、命令達成後、使役者の元へ向かう。琴葉はそれを覚えていた。
虎が葉月の葉怪だったことを、彼女は今静かに悟った。
何故、どうして。聞きたいけれど、聞けない。今は、とにかく誰かに助けてほしくて。
虎は目線で地面を指した。意識を失った獣がそこにいた。化の葉怪の効果も消えたようで、元の禿の衣装をしている。
しかし、葉月が、奴に時間を割いている暇は無かった。
零葉が、一枚の葉を渡した。
柏の葉。大いなる言万守姫の力が宿る葉だ。
気づけば、雨は止んでいる。
晴れ間が見える。
「言万守姫様。御力をどうか我が身に」
葉月の手の中で、柏の葉は、光を纏う。
葉月の胸から浅葱の光、そして大空から、真っすぐに降りてきた蒼。
それらが混ざり、光を作る。
「宮を今、この葉に」
葉脈が走る。蒼い光。
うかんむりを形作り、次の画へと移り……奔流は、やがて収束する。
宮を鎮めて、零葉に渡した。
その葉月の手は、震えていた。
零葉は、召喚にしか使えぬ自らの声を呪うように、小さく唱えた。
「宮」
作られたばかりの光が、溢れ出した。
それは木の洞に、小さな小さな祠を作り出す。
そして、葉は舞い降りる。
「……言いたいことは山ほどあるが……今は、手当が先じゃな」
― ― ―
葉月は、自分にある日備わったこの力が、自分の物でないことを知っていた。それなのに、使い方は知っている。不思議な感覚。誰かに、説明書と一緒に預けられたかのような。
自分が使っていいものではない。そう思いつつも、葉月は、力を行使した。
柏の葉に、念じる。神への心からの感謝と共に、成したいことを思う。
浅葱色の光が葉へと走っていく度に、「変わった」という確かな実感が残る。そしてその実感は、親の手から突然引き裂かれた赤子のように空虚へと変わる。
繰り返す度、自分の何かが壊れていく。
葉怪をそのまま放すこともあれば、すぐに捕まえることもある。要望によって様々だ。
それが、葉月の仕事だった。
「葉月、良い子だ」
この力を返したくない。この力があれば認めてもらえる。
才能のある徒世と、比べられずに済む。徒世を、嫌いにならずに済む。
葉月は恐かった。
蒼葉と会ったとき。
この子に返すべき力なのだと、思ったから。
― ― ―
「癒」
言姫が投げた葉怪が、蒼葉の胸に張り付いた。
黄緑の光が、蒼葉を癒していく。
次第に、蒼葉の意識も覚醒していく。
「……生きてる」
雲の間から差した陽の光に、手を伸ばした。
生きていた。
まだ逢いたい人が沢山いるから、世界が生かしてくれた。
蒼葉の心の奥底から、沢山の感謝が溢れ出す。
でも、今一番、言いたいのは。
「ありがとう。お姉ちゃん」
虎の毛皮の上で、寝返りを打った。ずっと、側で見守っていた姉と、目が合った。
生きていた。
――生きてた。助かった。救われた。
ずっと、ずっとずっとずっと、流さなかった、否、流せなかった涙。
やっと、琴葉の目の端に浮かび、あっという間に、目の前の景色をぼやかせる。
でも、嬉しそうに笑う蒼葉の顔を見ていたくて。琴葉は、目を何回も擦った。
葉月は、横を見た。自分とそっくり、でもどこか違う零葉も、また泣いていた。
綺麗だった。
急に零葉こそが、本来の自分なのではないかという気持ちが湧いてきた。草葉の影などに入らずに、そのまま生きた自分の現身なのではと。もしそうならば、今すぐ消えたい。
綺麗な自分だけを、残して。
そんな風に一人、昏い気持ちを抱いた。
「お主、名は何と言う?」
言姫の瞳が、葉月を捕らえた。
「葉月、です」
「そうか。お主は……【言霊降臨】の力を持っているのじゃな。それで、童を呼んだと」
【言霊降臨】が、自分の持つ力の名前なのだと、葉月は理解した。最初から全てそうであったかのように、耳に馴染んだ言葉に聞こえた。
「【器】が大きいな。しかし、もうすでに壊れかけているようじゃ。もう満足に喋れぬであろう。……それにしても【言姫の影】ではない者が、その力を持つとは……」
「言姫様」
嬉し泣きをしていた蒼葉が、おもむろに言姫の名を呼んだ。
「巴もこっちに動かしていい?」
「あ、蒼葉、巴の背、には、吉宗、様たち、が……あ、と、言姫様、に、もうちょっと、丁寧に……」
「良い、良い」
言姫は苦笑して、宙を見上げた。巴が、今も変わらず浮いている。
「そうじゃな。童は別に良いと思うが……葉月、お主はどうじゃ? 追われておる身なのであろう?」
急に声を掛けられ、葉月はびくりと震えた。
自分は、大罪人だ。幾つもの人を殺してきた。
今回、救ったからといって、喪った者が戻ってくることは永久に無い。引く一と足す一は、相殺できない。
「お主は、生きたいのか。それとも死にたいのか」
生死を決める権利なんて自分にない。
「お主は自分に、生きる意味があると思うのか? 童の役に立てるのか?」
自分にある力は【言霊降臨】だけだ。しかも、蒼葉に返さなくてはならない。
嗚呼、そうだ。返してから死ななくては。だが、返すにはどうすればいいのだろう。説明書には、返すときの方法は記されていない。
「葉月さん」
今もなお、虎の上で寝転がる蒼葉が言った。
「私ね、色んな夢を視たの。この世界の夢。綺麗な夢。
ねぇ、恨みとか怒りとかって、どこに捨てていけば良いんだろう。
頑張るためにはそれが必要なのに、幸せにはそれが必要ないんだよね。
幸せになるためには、途中で捨てなきゃなんだね。
幸せを手に入れた人の物語は、皆、きっと読みたくない。
そこは、自分が頑張るために必要な、怒りや恨みが捨ててある、ごみ捨て場じゃないから……葉月さんの物語には、怒りや恨みがいっぱいあった。でも、捨てる場所も無かった。
……私、葉月さんをとっても、綺麗な人だと思うの。夢を視る前も後も変わらず。
葉月さんが、捨てずに、これから先、生きていくんだったら。
私はそれを止めなきゃいけないんだと思う。
ここに捨てて欲しい、拾わして欲しい、背負わして欲しいって――ふふ、何言いたかったっけ。分からなくなってきちゃった――」
蒼葉は体を起こした。簪の位置を整えて、一息吐く。そして、葉月を見た。
「葉月さんがやったことを、私が許すことはできない。
葉月さんは、怒りや恨みの代わりに、それを背負って逝かなくちゃいけない。
でも、ね――私、葉月さんともっと喋りたいな。知りたいな。
葉月さんが、徒世さんを救いたかったなら、徒世さんが守った私たちを、これからも守っていかなくちゃ。
それが、葉月さんの生きる意味だと、私は思うの――勝手だけど」
蒼葉は全てを視たのだろう。葉月の人生を。思いを。
琴葉は蒼葉を静かに見ていた。彼女は特に何も言わなかった。蒼葉を信頼して、任せた。
あるいは、それは、自分への戒めだったのかもしれない。自分には何も言う権利が無いと、思っていたのかもしれない。
けれど、結果的に、彼女は葉月に微笑んだ。
「……」
この旅で何を得たのだろう。全てが無に還ったとも言える。全ての人を傷つけたとも言える。
「……」
一つ、言えることがあるなら。
葉月は、今、生きる意味を得た。
その意味は、すんなりと心に入ってくる、というわけではなかった。
所詮、自分は代役で、誰かがいるべきだった場所、例えば徒世の場所を、奪っているだけだろうということも解っていた。
しかし、それでもいい。中継ぎでも、仮初でも構わないから、守っていたかった。
自分だからこそできる、なんてことはない。きっと誰にでもできる。けれど、いや、だからこそ、罪を背負った自分が、二人の居場所になれるならなろう。
徒世が守ったこの二人を、命果てるそのときまで守っていよう。それが使命。逃れられぬもの。
葉月は、怒りも恨みも、すぐ拾える場所に捨てたのだった。
「竜を、ここ、へ」
葉月は、そう言った。琴葉が手を挙げると、竜は自然と下へ降りていく。その上には、吉宗と百合が乗っていた。
「改めて自己紹介をしよう。童は言万守姫。言葉と葉を守る、葉守りの神じゃ」
百合は困惑して、会話ができる状態ではなかった。
対して、吉宗は察せていたのか、素早く竜から降りて、草の上に跪いた。
「はは、徳川吉宗でございまする。こちらは、実母の百合で……」
「実母!」
蒼葉が思わず声を上げた。姉妹揃って愕然とした。普段無表情な葉月でさえ目を見張った。
「私は百合と綱吉公の子供なのだよ。訳あって、紀州徳川家の席に加えてもらっただけだ……口外せぬように」
三人は慌てて頷いた。零葉はそもそも口にできないので、視線だけを返した。
「うむ。聞いておる……もうそろそろ人が来るな。慌ただしい……少し場所を移すか」
歩いてどこかに行くのだと思った皆は、突然現れた目の前の景色に声を上げた。
そこは、燐火が修業場と言った神社の、境内であった。紅葉した柏の葉が群れ、散り乱れている。
道の真ん中、神の通り道に、本当の神が静謐に佇む。
言姫を挟むように、一方には吉宗と百合が、もう一方には葉月、零葉、琴葉と蒼葉が座っていた。気づいたら虎も巴も、それぞれの帯に刺さっている。
「ここは暁闇神社。昨日、琴葉と蒼葉に会った場所で、童の住処の一つじゃ。今は無人じゃし、外からの邪魔もこないようにしておるから、心配せずとも安心じゃ」
言姫はくるりと周囲を見渡し、皆に向き直る。
「まず、言わせてほしい。すまない」
そして、頭を下げた。
「全て、童の責任にしてもらって構わない。お主らの運命が狂い始めたのも、全て」
おそらく、言姫は、葉怪が自分で作ったものであること、盗まれてしまったということを言っているのだろう。そう琴葉は考えて、否定しようと口を開きかける。だが、言姫はそんな琴葉を手で制した。
「童が創っていた未完成の葉怪は、人々に古くから根強く残る象形文字のみ。先ほど蒼葉に使った『癒』は、童が今まさに創り出した葉怪じゃ。従来の葉怪は、童の力を使ってはいるが、勝手に使われている状況であるから、召喚することも、場所を探知することも叶わぬ。
現世へ、葉怪という仕組み、歯車を持ち込んだ妖、狂利を許してはならぬ。
童は天照大神から、奴を捕らえ、その上で葉怪を根絶やしにすることを命じられておる」
狂利、という名前に、葉月の眉が上がる。
それは、草葉の影の創始者――皆が神と呼ぶ者の名前だった。自分の父の友人、という皮を被った、化け物。
「天照大神はお怒りじゃ。この十年で命を達成せねば、童は神でなくなる。言葉を守る者がいのうなる。言語というものが荒れる……と、予想される。先のことは分からぬな。事実としてあるのは、童という存在が消えてしまうということだけじゃ」
言姫は、うら寂しく笑った。
「加えて、琴葉……お主という存在も、複雑な因果の果てに生み出されてしまった」
琴葉は、何一つ表情を変えなかった。
姉の横顔を、蒼葉はじっと見つめていた。そして、臍を決めた。
「ねえ、お姉ちゃん……お姉ちゃんはさ、私が、全て知っちゃったって言ったら、怒る?」
琴葉はそのとき、悟った。
夢を視たと蒼葉が言ったとき、覚悟はした。やはり、自分のことも、夢で視たのか。
「怒らな、い、よ」
もっと、しっかり、ちゃんと言いたいのに、自分の喉がそれを許さない。
――怒るわけがない。怒るわけがないんだ。蒼葉は、知るべきだから。
「お姉ちゃん大好き。きっと、皆そうだよ」
何も、言わなかった。蒼葉は、ただ微笑んだ。泣き笑いだった。
――そんな風に、笑わないで。怒って。私は蒼葉を、あの子に、変換して見ていたのに。
琴葉の心が、七年前を示した。そう。だから、知る。あの頃を覗く。そんな冒涜。
知る権利どうこう以前に、自分は知らなくてはいけないのだ。
あの子のことを知らなければ、あの子と蒼葉を琴葉は重ねる。これからも。
そのくせ、あの頃を忘れていく。見ないふりをして。行き場のない怒りや恨みを、どこかの場所へ捨てる。非常にぞんざいに。
「教、えて、欲しい、です。言姫、様」
大きく見開く、言姫の目。それは、すぐに伏せられた。思考に耽っているようだった。
「……知らなくて良いことは、現世に山ほどある。これもその一つかどうかは、童には解りえぬが、本当に良いのじゃな?」
後悔するかもしれないと、言外に仄めかしていた。
でも。
「はい」
知りたい。そんな琴葉の気迫、思いを、言姫は真正面から受け止めた。
「……その者は【言姫の影】じゃった。童と感覚を繋げ、童の言葉を聞く者」
静かに、語り出した。
「蓋世の才があった。神に近い少女じゃ。生まれたときからもうすでに【影】であった人物など、童が聞いた中では、片手の指が二、三本余る程度の人数なのじゃが、少女はその内の一人じゃった」
加えて、と言姫は続ける。
「【葉視】と【言霊降臨】を持ち合わせていた。まず、この二つの能力を、詳しく話すとしよう。【葉視】は、葉怪が光として視える力じゃな。葉怪は、言霊と木霊を混ぜた妖じゃ。森から木霊を、人から言霊を得て生まれる。葉怪の種類によって、宿る言霊の色が変わる。葉視は言霊を視る、いや、感じ取る力じゃ」
その能力者である零葉は、言姫を神妙な表情で見つめていた。お互いの視線がぶつかる。先に逸らしたのは言姫だった。
「問題は何故それをお主が……というところではあるのだが、まあ良い、それは一旦置いておこう」
琴葉は、頭の上に落ちてきた柏の葉を払った。
「【言霊降臨】は、柏の葉に願い……言霊を込めて、そして童の力である木霊を込めることで、葉怪を作ることができる力じゃ。先ほど童がやったことの、下位互換といったところじゃの。自分の言霊を削る以上、それなりの代償があることは確かじゃ」
心配そうに、姉妹は葉月を見た。
「言霊というのは体、引いては心にある【器】に溜まっている。
葉怪を使うとき、そして【言霊降臨】を行使するとき、言霊が引き出される。
ただ……言霊を、一度に使いすぎることによって【器】までも壊してしまうのじゃ」
琴葉は頭から落とした柏の葉を拾い、物憂げにくるくると回した。
「【器】は心であり魂。完全に壊れれば、死ぬ。
葉怪を使う事【言霊降臨】を使う事、それらは大きな危険が伴うもの。
【器】の傷は一生ものじゃ。治らぬ……そして、傷は【凩】を生み出す」
言姫は、琴葉と葉月を見遣る。
「言霊は勝手に【器】へ溜まっていくが、傷から零れていく。その状態……それが【凩】じゃ。満足に喋れなくなる。お主ら、身に覚えがあるじゃろう?」
琴葉は息を呑んだ。
ずっと……気になっていても、分からなかった、自分の喋り方の不思議。
以前はそうでなかったのに。あれがきっかけで変わってしまった。
……いや、自分はあのとき、葉怪を使うことなんてしなかったはずだ。琴葉の胸中に疑念が立ち込める。
「そうじゃな。【言霊降臨】を使いすぎた葉月は解るが、何故、琴葉が【凩】となったのか。それが……真実であり、琴葉という存在が、不可思議へ陥った原因でもある。勿体ぶらずに喋ろうか。あのときのことを、皆の前で」
ついに、始まった。
「あの頃の、ことを。全て、童の言葉で話すのは惜しい。童が聞いた通りの――少女の言葉で話す。もうすでに亡いはずの、琴葉について」
誤字脱字報告ありがとうございます。
否定的なコメントはやめてくださると幸いです。




