弐拾捌 彩は今
本日もよろしくお願いします。
蒼葉は走っていた。
蒼葉は走っていた。
蒼葉は走って走って、おはねの後を追って追って、見つけた。
竹林。巨木。ぴんと張った空気。
雨は蒼葉を邪魔しなかった。だって、蒼葉は浮いているのだから。
帯の膨らみが、そのまま大きくなり、羽になっているのだ。
羽が蒼葉を飛ばし、おはねを追い越し、遠くへと届ける。
姉よりも拙い走りで、でも必死に、蒼葉は姉を――
目指そうとした――が。
蒼葉の目に映ったのは、どこにでもいる普通の女。
けれど、異形で。変で。醜くて。壊れていて。狂っていて。獣だった。
巴の足を掴み、登る。それは、虎から逃げる動きではない。追い詰める動き。
獣の、女の手から、鈍い輝きを垣間見る。
消そうとしている。殺そうとしている。誰を? 全てを。言うなれば、仇を。
刃。刃が捉えている。旅の証を捕らえている。
吉宗が殺される。
蒼葉は、
蒼葉は、蒼葉は、蒼葉は、蒼葉は、
姉を、助けなければいけない。今にも、虎へ立ち向かい、守り続けているのだから。
――だけど、だけどね。
――そろそろ、私だって頑張らなくちゃ。
――お姉ちゃんのこと、信頼していて、尊敬していて、大好きだから。
――行かなくちゃいけない。
――だからこそ。
――止めなきゃ。
――私の力で。
羽は大空を舞い、雨の中、もう一人の獣を目指す。
物語は、あともう少し。
― ― ―
■■は、琴葉の妹だった。
とってもとても小さな頃、まだ言葉を覚えたての頃、■■はよく、宙を指さしこう言った。
「ある」
何があるのかも分からない。聞いてもまた「ある」が返ってくるだけ。
法則性としては、指差した方向に森があるということ。
両親は何とか理解しようとしていたが、その前に■■が諦めた。
そりゃそうだ。■■は、皆の笑い者だったから。
妹は、皆から指を刺されて笑われていた。特別だった。その巻き添えを食らうように、琴葉もまた指を刺された。
琴葉は、■■を心底憎んでいた。いつも両親を困らせて、そのくせどこか諦観していて、自分とよく似た紅梅色の瞳で、こちらをじっと見ては逸らす、■■が嫌いだった。
母が毎夜、話していたことを思い出す。
「母さんはね、昔、お武家のお姫様だったのよ。だからあなたたちも、本当はお姫様なのよ」
どこか儚く、毎夜、子守唄のように言うのだ。
琴葉は、その話を信じていた。母に、姫である証は無い。
ただ、気品を持っていた。所作や目線、発する言葉。その全てに、洗練された美しさがあった。純真無垢な、この世の汚れを知らない美しさよりも綺麗な、戦っている人の美しさがあった。
琴葉は、それが好きだった、のに。
「そんなん嘘や。母さんがお姫様やったら、うちにはもっとお金があるはずやないの?」
急に喋り出したかと思えば、■■は全てを壊すようなことを平気で口にする。
「ごめんね……」
今日も、父は仕事で家を留守にしている。母は絞り出すように、呟いた。
お金が無かった。
父は継飛脚だが、幕府から正しくお金をもらえずにいた。だからこんなあばら家に住んで、一日を凌いで生きていた。
凶作が続いたとき、隣の家に住んでいた子供が、口減らしに家族から売られた。
母も父も、自分たちを慈しみ育ててくれたから、売られることはなかった。
琴葉は頑張って料理で役立とうと思ったが、大火傷をして、それからは何もかも覚束なくなった。
■■に当たることが増えた。何もかもが悔しかった。もういっそ、売られた方が役に立てるとも思った。
母が、葉模様の簪を売ろうとするのを、必死で止めた日。
寺子屋に行く同年代の子供を横目に、地域の奥様たちの洗濯の手伝いをした日。
自分の髪をぎりぎりまで切って、髪売に売ったお金で、一食分の米を買った日。
――全てに彩があったね。壊れていたね。暖かいね、暖かかったね。つまらなかったね。
――だから、消えたの?
木の下には、小判が埋まっていた。
■■を埋めたときに見つけた。小判が十枚、それだけで家は裕福になった。
継飛脚としての給金が、正しく父に届くようになった。
そして、■■が生まれたときには、寺子屋に通えるようになっていた。
――違う。違う違う違う。駄目だ、また重ねた。
――あの子を■■の代わりにしてしまう。
――大嫌い。全部嫌い。全部、全部、全部、全部。自分の全部が嫌い。
琴葉の視界には、彩が無い。
― ― ―そして、今。
息を吸い込む、吐き出す。吸い込む、吐き出す。
― ― ―
羽は、蒼葉を巴のいる上空へ運ぶ。
― ― ―
どんどん着物が泥水を吸って、琴葉の体は重たくなる。
― ― ―
獣が刃を振り上げる。庇おうとする百合が見える。
― ― ―
琴葉は刀を構えた。雨と竹を挟んだ向こう側の竜は、こちらを真っすぐ睨んでいる。
― ― ―
回り込む。守り方なんて知らない。逃げ方しか知らない。けれど。
― ― ―
虎は攻撃してこない。その目は、上空を見ている。きっと巴だ。脅威を見ている、きっと。
― ― ―
獣を突き飛ばそうとする。だが、ぎりぎりで気づいた獣は、こちらへ目敏く刃を向けた。
― ― ―
余りにも攻撃がない虎を訝しみ、琴葉は巴の方を、見た。
― ― ―
巴の背は雨で滑り易く、獣は体勢を崩し、蒼葉を巻き込む。宙に、放り出される。
― ― ―
――嘘だ。嘘、嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘。
― ― ―
――ごめんなさい。
― ― ―
羽の葉怪は、人間もう一人の重量に耐えられず、蒼葉は、落ちていく。
― ― ―
青嵐が竹林を揺らす。
― ― ―
獣の下敷きになって。
― ― ―
駆け寄って来た虎の上へ。落ちた。何の助けも追い付かなかった。
― ― ―壊れて、癒える。
「姉さん、木の上に登りたいんやけど」
ある、夏の晴れた日のことだった。平凡で、忙しない日常の一葉に過ぎなかった。
「……いいけど、何で?」
「遠くを見たいから」
今なら、それが【葉視】の力を使いやすくするためだと解る。
「……乗って」
琴葉がしゃがむと、妹はその背に乗っかって、自分の首に手を回した。
目の前にあったのは、大きな柏の木。
夏だった。外は蒸し暑くて、立っているだけでも汗が滲んできた。
全長、人間七人分ぐらいの木。くらくらしてくるほどの高さだ。遠くに見える雑木林に紛れ込ませても、一際高い。
ごつごつとした木の肌に手を添わせて、足を引っ掛け、琴葉は登り始める。
「姉さん、無理やったら別にええから」
「……喋ってると怪我するよ。体勢変えずにじっとしてて」
諦めるのは、癪に感じた。
「……」
あの夜から、琴葉と妹の関係性は徐々に変化していた。
少しだけ、ほんの少しだけ、喋ることも多くなって。他の家族じゃ当たり前のような支え合いも、ちょっとずつ増えていって。
本当に……本当に、十秒先ぐらいは、信じられる世界で生きていた、ように思えた。
あの頃の自分も、また馬鹿だった。
「姉さん、そこの枝の方……」
幹を支えていた手を外して、枝を掴んだ。もはやもう一本の幹と言って良いほど、太い枝だった。
上を見ても下を見ても眩暈がしてくる。高い、高い、場所へ来ていた。
幹を背に、枝に跨るように座った。妹を膝に乗せて、空いた手で手ぬぐいを掴み、額の汗を拭く。
「……姉さん、うちが何してるのかって、興味ないの?」
「だって、言わないから」
「そやね。うちは絶対、尋ねられなきゃ言わない」
「尋ねたら言うの?」
「場合による」
一体何が言いたいのかと疑問に思いながらも、琴葉は尋ねなかった。
この関係性を壊したくなかったから。知ってしまうと戻れなくなるような気がしていたから。
「……姉さんは神様を信じる?」
唐突で、あの日と同じ、脈絡の無い言葉だった。
「皆は、信じてる」
「姉さんが、信じてるかを尋ねてるんやけど」
「……信じてるの?」
真意が見えなくて、琴葉は返答を避けた。
「信じてる……というか」
溜息を吐いて、大人しく自分の質問に答える妹は、少々年齢よりも大人びて見えた。
「というか?」
「……やっぱりええわ。それよか、姉さんは?」
意味深な返答に小首を捻りつつ、琴葉は答えた。
「じゃあ、これから信じることにする」
「……ふーん」
やはり、つれない反応。でも、一か月前のつっけんどんといった様子と比べたら、柔らかい。
――ねえ知ってる? 私にとって、この瞬間は、長閑そのものだったんだよ。
「姉さん」
妹の声の質が変わる。重くて、冷たくて、知らなくて良いことを知ってしまったような声。
「あっちの、あっちの方になんやけど……」
酷く、焦っている。
「……黒い、塊が……」
その手が、明後日の方向に伸び、空を切る前に。
前のめりになっていって、自分の膝から体温がずれていく前に。
――私の視界から、彩が消えていく前に。
止めようとして、でも、凄い力で、押さえきれなくて。
この世界の時が止まった。
二人は落ちた。
琴葉は下敷きになって。
死んでいた。
そんな、哀しい夢を、蒼葉は視た。
誤字脱字報告ありがとうございます。
否定的なコメントはやめてくださると幸いです。
明日も投稿します。
もうそろそろ作品自体が終わりを迎える頃。
どうか最後までお付き合いください。




