弐拾捌 卍巴
本日もよろしくお願いします。
「ああああっ!」
目の前にいる虎を、必死に刀一本で押さえつける琴葉。
その瞬間、まさに盥をひっくり返したかのような大雨が、琴葉を襲った。
否、襲ったのではない。この雨は、琴葉を助けた。
虎の開いた口に、大樹の樹冠から降ってきた大量の水が流れ込む。
その勢いに押され、若干ではあるものの、虎の力が弱まった。
――耐えろ。耐えて。
そして、虎は遂に諦めたようだった。半ば流されるように後方へ跳び、琴葉と距離を取る。
背後から、がさごそという音が聞こえた。女性は、大樹に登っているようだ。そこから巴に乗ろうとしている。
琴葉の着物は、びっしょりと濡れていた。端が千切れた半合羽は、諦めて脱ぎ捨てた。
徒世の、形見だった。
― ― ―
虎は、使役者の命令を正しく理解していた。
獣を追って追って追い続ける。斧を避け、短剣を避け……
しぶとかった。獣と獣の勝負は、長く長く長く続いた。
暁降ちが来ても、鬼わたしは続いた。
そう、それに終わりが見えようとしたのは。
竹林に囲まれた巨木の洞に誘導され、危機を迎えていたときのこと。
「た、助けて! 誰か!」
誰かが来ることを願って、女らしい悲鳴を上げてみた獣。
これが、功を奏した。上空に舞う竜、そこから飛び降りた少女を見て、打算に勝利したことを確信した。
所詮、お人好しなんて、罠にかかって無駄死ぬだけ。獣は内心でほくそ笑む。
琴葉を殺すこと。それは、獣のもう一つの任務である。
草葉の光に入ってしまった以上、もう使えない実験体は、早く捨てるが吉だそうだ。
しかし、虎と竜がいる場所では、殺しても自分の身が危ない。それに、葉月を殺しに行くのも難しい。
琴葉と虎、同時に殺す。それが最善。
「こ、腰が抜けちゃった!」
膠着状態を動かそうと、演技してみる。
虎が迫り、ひやっとしたのも束の間、滑り込む刃。
「刀!」
転機の演出は素晴らしく嵌った。
琴葉が虎を止めている今が、同時に殺す良い機会だ。
しかし。
「私のことは良い! 竜を動かせ!」
……竜の上の人物が、獣の視界に映った。
獣の目が、殺意と私怨に染まる。
雨の中でも消えぬ火が灯る。
憎い。殺してやる。人の上に立って胡坐を掻く愚図が。塵が、糞が、害が、人殺しが。
獣が牙を剝くとき、それは一つの地獄の合図。
――きっと大丈夫。狂利様も許してくださる。予め、諸悪の根源を消しておくだけ……
今のことである。
― ― ―
また、か。
呆れと共に、琴葉は起き上がった。
とぼとぼと歩く■■の背を追い、井戸を横切る。
草木も眠る丑三つ時とはよく言ったものだ。
外は真っ暗闇。
こんな夜に出歩く■■も、それを追う自分もどうかしている。
だが、仕方がない。草木が眠れど妹は眠れないのだから。
そうして琴葉たちは、木の下の、夜の闇が濃い場所に座り込む。
■■が、夜に出歩き始めてから、もう二ヵ月は経つ。
両親はこのことをきっと知らない。知っていたとしても、こんな時間のことだから、夢だと思い込むだろう。
しかし実際に、毎夜琴葉たちは外に出て、森の中の一本の柏木の下にいる。
「姉さんは、どないしてうちに構うの」
転機だって、振り返れば何の理由もなかった気がする。
それは、何時ぶりか分からないほどの、会話だった。出かけるようになってから、正真正銘、初めての会話だと言っていい。
琴葉が驚いて言葉を失っているうちに、■■は先ほどよりも自嘲の響きを多く混ぜて、言った。
「姉さん、うちのこと嫌いやん?」
「そんなこと……」
無い、とは琴葉は言えなかった。
扱いにくい■■は、良い意味でも悪い意味でも、家の中心だった。琴葉は、■■を真ん中にして回る家に、そこはかとなく疎外感を感じていた。
「姉さん、うちが死んだら木の下に埋めてな」
だが、けれど、流石に、この言葉には軽々しく頷ける訳がない。
「馬鹿言わんといて。■■は私の――」
――あのとき、なんて言ったっけ。
――もういいや。思い出しても無駄だから。
六日後、■■は死んだ。
――いや、違う。違う違う違う。違うよ。
■■は失踪した。
――だって、私が木の下に埋めたのだから。
皆は、いつか■■が戻ってくることを、信じている。
――だから、私は贖罪だと思った。
― ― ―
「燐火、落ち着いて行動なさい。相手の足は極めて遅い……隙を見て行動しましょう」
と、燐火の脳内での燈火が言った、気がした。
燐火は深呼吸して、構える。
少し近づいただけで、肌が焼けるようだ。その中心で、一枚の葉がくるりくるりと舞っている様子は、火の玉と言うのに相応しい。
双樹は真っすぐに、火の中へ足を踏み入れる。
焔の舌へ、一直線に駆けていく。
もちろん陽動だが、双樹の表情からは決死の覚悟を感じられる。
剣で突き刺せども、空気のない水中へ沈められとも、このように焔で焼かれようとも、葉怪は血の一滴も垂らさない。
死にはするが、それは死ではなく無への昇華だというのが組織の見解だ。
だが葉怪は、妖なれども葉である。焔の中に入るのは、相当の覚悟を持たないと難しいのだろう。
だからこそ、だろうか。
踊るように戦う犬と葉、それを覆う火の手は、美しかった。
「そろそろ終わりにしましょ」
誘導は終わった。燐火は、帯に刺し直していた葉捕り網を再度引き抜き、振り下ろそうと……して、ぎりぎりで踏み留まった。
「ゆ、努? どうしてここに?」
そう。燐火が引き抜いたのは、一本の筆。
心の葉怪によって心を持った筆、努だった。
「ふふん、燐火ちゃんが心配で着いてきちゃった!」
「はぁ? 今そんな場合じゃないだけど! ちょっと、双樹、戻ってきて!」
何故か誇らしそうにしている努を、燐火は帯に刺して仕舞い直した。
形勢を取り戻し始めた火の葉怪の元から、急ぎ双樹を退避させる。
帯の下で毛先をふりふりと振る努は、現在の状況を正しく理解できているか怪しい。
思わずため息を吐いてしまう。
「ねぇねぇ燐火ちゃん。あれ、なーに? 何か見えるわ」
そのとき。努が毛先で、ある方向を示した。
「……分からないわ。何よあれ……」
木と木の間に見えた物は、大きな石室。そう、燈火たちが囚われている場所だった。
― ― ―
「傘」
燈火の持っていた葉怪が変化し、巨大な傘に変貌した。赤と白、桜の描かれた番傘だ。
燈火の武器は、傘であった。
この傘は、普通の傘ではない。一度出した傘を改造、刃物を仕込んだ状態を記憶することで、その姿を常時保つことに成功した、兵器の傘だ。
葉怪である傘は、その優れた耐久力と、大きさを自在に変えられる力で、暗殺を得意とする。
帯刀が許されないこの世では、傘は怪しまれにくい。草葉の影との抗争では持ってこいの武器、それがこの葉怪だった。
「やはりびくともしませんね」
燈火が傘を一振り二振りしても、牢はどんという無機質な音を立てるのみ。
そもそも、ここにいる人材は皆、力に優れているわけではない。影を追うために、速さを重視して集められている。この牢を壊せるのは、片腕で塀を壊せる利乙ぐらいのものだ。
「どうする? もうすぐ、誰かが調べに来ると思うが……外からも壊せなかったら」
「考えたくありませんね」
影がいるのにこの場から動けない状況に、燈火は歯嚙みするしかなかった。
「……ちょっと待て、何か聞こえる……火か?」
ばちばち、ぼうぼうと燃える火の音が、石室からも聞こえてきた。
「影の手である可能性が高いぞ」
「だからって、どうすることもできませんよ。私たちでは力不足ですから」
燈火は石室の壁にもたれかかり、いらつき半分で溜息を吐く。
「ねえ、誰か、誰かいるの?」
壁の向こう側から、くぐもった燐火の声が聞こえてきた。
「燐火! 外は大丈夫ですか!」
「げ、燈火さん。火の葉怪がいるだけです……うちの子たちが防いでくれています。どうしてこんな場所に? もしかして影が……」
「あーすまんすまん。俺がヘマして牢の葉怪を使っちまっただけだ。こっちからじゃ壊せそうにないんだ、って!」
常盤は、横から光が差していることに気づいて驚く。
石煉瓦の一つが、光の近くに転がっていた。その石煉瓦一つ分の窓から、燐火の顔が覗いている。
「こっち側からなら、簡単に動かせるようです」
「なるほど。早く壊しなさい」
燐火は、相変わらず冷たい燈火に震え上がりつつ、石煉瓦を崩して小さな出口を作っていく。
「皆さん落ち着いて、順番に出てください」
小さな出口を順番に潜り抜け、面々はようやく外へ脱出を果たした。
「皆さん、実は今、琴葉が虎の葉怪に襲われています。こちらも火の葉怪と遭遇してい」
「は? 虎の葉怪? つまりはあの女が琴葉を襲ってるってことかよ!」
「吉宗様がいらっしゃるに関わらず? 百合は止めなかったのですか?」
燐火は一斉に詰め寄られ、一瞬口が止まりかけるが、何とか敬語を構築して話す。
「虎は影に盗まれた物ですから、影に襲われたということかと思います。蒼葉は、ここにいた羽の葉怪で琴葉を助けに行きました。皆さんも、琴葉の救援に……」
わんわんわん。双樹が、火のついた尻尾を振りながら、燐火の元に駆けてきた。
その背後には、火の手が迫ってきている。
「分かった、とりあえず、目の前のこいつを捕ってから、」
「常盤、お前は下がっていてくださいね」
「ごめんなさい。すみませんでした。許して」
徹底的に出番を奪われた常盤は、遠くの方を見るしかなかった。
抑えきれぬ青筋を浮かべながら、燈火は傘を振る。
先に付いた刃が、火を反射させて煌めく。
焔は横に煽られた。気づけば燈火の前には、焼き焦げた草でできた道があった。
「悪く思わないでください」
木が燃えると、葉怪が減る。草葉師の仕事にも支障をきたすかもしれない。
決めるなら一度で。
焦ったように火を巻き散らす核に向けて、ゆっくりと近づく。傘を葉に戻して、葉捕り網を引き抜いた。
火の葉怪は、最後の足掻きとばかりに、辺り一面を広く火の海にする。
遠く離れた燐火が息を呑むのと同時に、燈火は網を振り下ろす。
「火」
確かに、火の葉怪は捕まえた。
だが、焔は未だ残っている。
広範囲の残燭が、燈火を蒸し焼きにする。
逃げ場がない。このままでは……っ
「燐火、燐火!」
努が、燐火の手の中で暴れ回る。
「な、何?」
「上見て、上!」
燐火は上を見上げた。
先ほどまで晴天だった空模様が、黒雲だらけの曇天へ早変わりしていく。
ぽつ、ぽつぽつ。
砂で汚れた手に、一粒一粒ずつ、雨が落ちていく。そして、ものの数秒も経たない内に、燐火が経験したこともないほどの、未曾有の大雨と成り果てる。
篠突く雨だ。水は火を洗い流す。瞬く間に消火が行われていく。その様子は、激しさと神々しさを併せ持つ。
「……何か、変だわ」
全てを押し流していく雨とは対照的に、燐火は一人、ぽつりと零す。もう一度、上を見た。
雨雲で覆われているのは、この周辺一帯だけだった。奇妙だ。
燐火の心に浮かんでくるのは、火が消えたという喜びや安心感ではなかった。
畏怖だった。
初めて巴を目にしたとき。あのとき、燐火は声に出せぬほどの畏怖を感じていた。
言葉は武器である。この強大で、簡単に人を狂わせてしまう武器を、自分と対して年も変わらぬ少女が握っている。
これほど、不安定で、でも何も手の施しようの無いことがあるだろうか。無いに違いないだろうと、燐火は子供ながらに思っていた。
妹は、この空の下、決して遠くない場所で誰かを守っている。
早く行かなければと燐火が思ったとき、雷が鳴りだした。天災の二文字が、頭をよぎった。
「燐火!」
風で立ってもいられなくなる。進むことなど不可能だ。
「燐火!」
早く行かなければ、助けなければと思うのに。
「燐火!」
「燈火さん……」
「――避難します。全員、牢の中へ。ここにいる皆を守ることが最優先……竜さえいれば、命の危険は無い、でしょう、から……」
雨は沛然と降っている。
― ― ―
認められたかったんだと思う。
自分には才能がある、立派になれる、どこへでもいける、明るくて、可愛くて、綺麗な人だって。
生まれる場所が悪かったんだと思う。あの人に捕まりさえしなければ。味方がいれば。
でも……そうであれば、あの子とは会うことはなかった。
仮初が仮初に意味を持ち、言葉が人の姿を持ち、今、無念を消費して、雨を降らせよう。
「雨」
言葉が言葉を紡いでいく。
零葉にとっての、最初の一声。
誤字脱字報告ありがとうございます。
否定的なコメントはやめてくださると幸いです。




