弐拾肆 艶陽
本日もよろしくお願いします。量は多いかも。
「……よし」
蒼葉の健やかな寝顔を眺め終える。
つとめて。
江戸が白々明けを始めた頃、琴葉はもうすでに旅支度を終えていた。
生まれ育った故郷を離れて、沢山の物をこの手から零しながら、必死に走ってきた。
今日は、再出発の日だ。
「ごめん、ね」
今から、琴葉は蒼葉の元を去る。しばらく、しばらくの間だけ。
掛け布団代わりにしていた半合羽に、再び袖を通す。
姉に裏切られた、そう思うだろうか。妹は。少なくとも、大切な人を連続で失い、姉までもが自らの元を離れていくという事態に、蒼葉の精神状態は間違いなく悪化の一途を辿るだろう。
それでもなお、琴葉は行く。姉として失格の旅路。けれど――
「いってきます」
一息で、言った。
静かに戸を引いて、琴葉は外へ歩み出した。手持ちのお金は、ほぼ蒼葉の枕元に置いた。
巴で行けば、江戸から大坂まで半日だ。最悪、また戻ってくればいい。
大坂では今頃、夜通しで復興作業を進めているところだろう。親友は、飢えていないだろうか、命を脅かされていないだろうか。
今、江戸の街はいたって平和だ。大坂の民である自分が、ゆっくり寝られていただけ幸せだったのかもしれない。それか、嵐の前の静けさなのか。
曲がり角を曲がり、しばらくした場所。
まだ比較的、静けさに包まれている奉行所を見つめる。奥から、馴染みある菜種油の匂いが漂ってくる。
琴葉は、湯帷子を畳んで、手に持っている。千代に返すためだ。
「しつれ、い、します」
奉行所の敷居を跨ぐ。
ここの組織の一員になったと言っても、今回はこちらがお願いをする立場。
何をするにも礼節を大切に行動しようと、琴葉は気を入れた。
「あれ、琴葉じゃない」
暖簾をくぐったその先には、旅人の恰好をした燐火がいた。
琴葉は面食らって口をぱくぱくさせる。
「今日が出発よね? 蒼葉は? 家元に会いにきたの?」
矢継ぎ早に質問されて、琴葉が何も言えなくなってしまったそのとき、廊下の方からゆったりとした歩調で、彼女が姿を現した。
「れ、零葉さん」
左右で長さが大きく違う黒髪を、首に巻き付けるようにして、伏し目がちにこちらへ歩いてくる。その表情は、何かを問うているようにも見えた。真っすぐに、琴葉を見ている。
「聞いたわ。貴女、今日からうちの一員なんでしょ。琴葉の同期ね……それで、一体何の用なのよ、琴葉」
燐火は首を傾げていた。
零葉も草葉の光に加わった事実に多少驚きつつ、琴葉はいざ決心して口を開く。
「その。私、蒼葉を、ここで、かく、匿って、ほしくて。私は行かなきゃ、いけない、から」
燐火は少し考えるように言い淀む。
言いたいことは別にあるけれど、何かに遠慮しているようだった。
零葉は昨日と変わらず、ぼーっとしているようにも考えているようにも見える、薄幸美人の顔をしていた。
「つまり、蒼葉を残してきたってこと? 無断で? ……それは、怒るんじゃないかしら……少なくとも、私なら怒るわ。燈火さんにそうされるのは慣れてるけど、蒼葉はまだ六つでしょう。見知らぬ土地に来て、親族がいるのといないとでは大違いだわ」
ごもっともな意見だ。しかし、これは蒼葉のため。琴葉は、今頃引く訳にはいかなかった。
「守ってやりたいし、蒼葉は私の妹でもあるんだから、面倒見てやりたいんだけど……私、明日から遠征に出るから、帰ってくるのは明日になると思うの」
なるほど、だから旅装束だったのかと琴葉は納得する。
今の燐火は琴葉と同じような、旅人のいでたち。いたって普通の町娘などではない。どこか女武者のような、武芸の心得がある雰囲気を纏っていた。
「私は、蒼葉を、守らな、きゃ、いけない、から――姉さん、だから」
「……そう。分かったわ。勝手にしなさい。貴女の好きなように」
言葉の中に尖りはなかった。
燐火が握った琴葉の手は、燐火の肌と同じぐらい荒れていた。
「でも、残される蒼葉も大変よ。何の確証もなく、待つって……本当に本当に、大変なことなの。だから生きなさい琴葉。蒼葉のために生きなさい。貴女にはそっちの方が向いてる」
燐火の笑み、燐火の眼差しに、琴葉は火を感じせざるを得なかった。
暑くない火を。燃える燐火を。
「そうね。じゃあ、監視を付けておこうかしら。燕」
燐火は素早い手つきで葉怪を取り出し、瞬く間に変化させる。
「え、んと……」
「おはねなら、竜にも付いていけるでしょう。さすがに全速力は無理だけど、お武家様の前で全速力ではないだろうし……」
琴葉は目を丸くした。本当に、燐火はおはねを自分の方に預けるつもりらしい。
葉怪は、使役権の移譲はできないが、主人の命令や主人に近しい人物の言うことは聞いてくれる。
おはねもまたそうだ。あの身のこなしを見た限り、直接的な戦力ではないが、葉怪の種類の確認が大切な草葉師の戦闘で、おはねは重要な力であるはず。
これから遠征だというのに、自分に預けて大丈夫なのか、それこそ燐火の命も危ないのではないかと琴葉は思った。
「そんな困った目しないでよね。これは私が勝手に判断したこと。嫌でも連れて行かせるわ。ね、おはね。琴葉のこと、よぉーく見ておくのよ」
「ぴちくぴーちく!」
「ふふ、お任せあれですって。ほら」
燐火は、おはねごと手のひらを琴葉へ近づけた。
おはねは、燐火の手のひらから、琴葉の右肩へと移った。もう断れそうにない。
「良い、おはね……何かあったらすぐ私の元……いや、私か蒼葉の元へ来るの。分かったわね。頼りにしてるわ」
「ぴちー!」
軽快な鳴き声が、琴葉の耳のすぐ隣で鳴った。
「頑張りなさい、琴葉。またいつか」
「う、ん。また、いつか」
琴葉はもう、大人しくおはねに着いてきてもらうことにした。
苦笑しつつ、くるりと背を向けたら、そこには千代が
「あ、あの、これ……」
「湯帷子ですか。返さずとも良いですよ。もう、今の私には合わない物ですから、もらってやってくださいな。あの……すみません。先ほどの話、聞いてしまって。本当に、たった一人でお出かけなさるんですね……?」
「はい」
千代もまた、燐火と同じような憂い顔で、琴葉に問いかける。
「そうですか……蒼葉様のことは、こちらにお任せください。慣れておりますので、ご心配なく」
そうしてにこりと笑った。
「……えっと、零葉様、何か、おっしゃりたいことでも……?」
千代は、琴葉をずっと見つめている、零葉に声をかけた。
零葉が頷くのを見て、千代は、奉行所の受付に筆と墨を取り寄せるよう言う。十秒足らずで、すぐに準備された。
側にある机の上で、零葉は自分の言葉を紡ぐ。佇まいも姿勢も見事だ。一昨日、琴葉が書いたものとは比べ物にならない。神々しさが、その身から溢れ、こちらの心を揺らしている。
『影が来る』
翡翠を影に置いたような色をしたその目は、琴葉の奥、そのまた奥、事態の神髄を悟っているようだった。自分すら知らないような自分のことを、いとも容易く見通す目だった。
「影……? ねえ、それって草葉の影のこと?」
『そうだけど違う。神の影。裏切り者は、影を邪魔する。影を受け入れなさい』
神、という言葉に、空気が少し揺らいだような気がして、琴葉はどきっとする。
神の影。【言姫の影】のことだろうか。
『守りなさい。この現世を。目の前の者を。自分の道を進みなさい』
息を呑む。
『戦いなさい』
その瞬間、瞳、雰囲気が揺らぐ。
零葉はその場に崩れ落ちた。まるで、何かの力を使い果たしてしまったように。
「零葉様は、どうやら寝ておられるようです。琴葉様、二階の応対室へ。呉竹様はそこにおられます。お待ちしています!」
「全く、昨日の借りを返す時間も無かったじゃないの。飛んだ無駄足だったわ。戻ってきなさい! そしたら渡してあげるわ、きっかり二十四文をね!」
琴葉はその声に背中を押されるがまま、音を滅却して走り出す。
おはねが琴葉の肩から飛び立ち、執務室への道を先導していく。
「ぴちぴちぱーちく!」
何を言っているかは、使役者ではない琴葉には分からない。
しかし、一生懸命さは伝わってきた。
「ぱーち!」
ここだよ、と言っているのだろうか。おはねは急に停止した。
琴葉は床を滑るようにして勢いを殺し、襖の前に座り込む。
膝立ちの姿勢から正座に変えて、少し荒れていた息を整える。
執務室の中からは、数名の話声が聞こえた。
琴葉は手を襖に当てて、数秒開けるかどうか迷いに迷った後、歯を食いしばった。いつまでもここにいては進展しない。
「し、失礼いた、いたします。琴葉、参上、つか、仕りました」
噛んだ部分はあるが、言い切った。達成感と共に、琴葉は視線を上げる。
八畳半ほどの部屋の中に、人が、ひぃ、ふぅ、みぃ。六人。
呉竹と流光、そして、吉宗と御付きの従者たちだ。
「琴葉か。早朝、早い集合に感謝する。……して、妹の方は?」
下座、一番琴葉に近い位置にいた呉竹が、極めて冷静に問いかける。
「……その、ことで、相談が、あります。どうか、お聞き、くださいま、せんか」
呉竹は判断を乞うように、上座の吉宗を見つめる。吉宗から返ってきたのは、無言の頷き。
「……竜には、限られた、人数、荷物しか、乗せることが、できません。です、から、竜の使役者、である、私と、吉宗様、その従者の、方を、最初に、お乗せ、します。そのために、今、私たち、が、使って、いる、部屋を、もうしばらく、お借りいたし、たいのです」
緊張で、視界が真っ白になってしまいそうだった。きっと、顔色も真っ白なことだろう。
呉竹はもう一度、吉宗の方を見た。
「ここは徳川総本家の領地なのだ。私が口を出せる場所は限られる……流光、どう思う」
「はっ。ここは一度、この奉行所に仮住まいさせてはと。いずれは、姉妹二人ともここに住まうことになります。部屋を用意させましょう」
「分かった。良きに計らえ」
琴葉は、心が平らかになった。肩から力が抜けて、視界がいつも通りの輝きを思い出す。
「……さて。本題と参ろうか。私は今、急いている。この言葉の意味は分かるな。迅速に、一刻も早く、和歌山城へ向かう。残してきた子供がいる。今もまだ困窮し、助けを求めている民がいる。私は急ぎ、地震の復興作業を進めさせる。すでに、綱吉公の許可が取れている。出立の準備も終了している。これより、中国大返しならぬ、紀州大返しを行う」
これは、単なる奇跡ではなかった。大いなる言万守姫の、ご意思だ。
「さあ、行こうか。琴葉」
使役者である琴葉と、従者一名と、吉宗のみ。ほぼ単身と言っても良い状態で、荒れた土地へ向かうのだ。何があるかも分からないというのに、それでも、吉宗は戻ると言う。武家とは思えぬほど、行動が速い。
― ― ―
江戸城の庭。足拵は、すでに済んでいた。後は別れの挨拶のみ。
「いってらっしゃいませ。ご無事をお祈り申し上げます」
呉竹が、前方に立つ吉宗に、頭を下げた。
「うむ、行って参る。今後、江戸に来る機会がないのを願うしかないな」
「残念ながら、この地震の被害だと、上様にさらなる助力をお頼みするのは避けられないと思いますが……私共々、御前様を敬愛し、いかなる努力も惜しみませんので、またお声がけください」
「ああ……継飛脚として、これからも琴葉には何かと世話になるかもしれぬ。竜というのは、それほどの大きな力だ。頼むよ」
琴葉は、急に自分の名前を言われて驚き、さらに仕事の約束をされたことに驚いた。しかし、呉竹の眉が少し上がったことに気づく余裕はあった。商売人の目が、嬉しそうに輝いている。
琴葉は、固唾を呑んで頷いた。組織内での価値が高まるのは、歓迎すべきことだ。
「で、は」
遅咲きの蓮がぽつぽつと、池の上を彩る。
周りには、星見草が植えられている。天上人に相応しい空間。
池を跨ぐ橋の上、今一度、竜を昇華させる。
「竜」
騒めきさえも聞こえなかった。まるで、外界で起きていることが分かっているかのように、力強いその姿を見せつけるようにして、巴はこの場に現れた。まさに、神話そのもの。
常盤色の鱗が存在感を放つ。琴葉の周りに蜷局を巻いて、何かから守るように小さく咆哮する。その背を、琴葉は撫でる。
「今から、乗る、お方に、失礼無い、ように、ね」
ぐるるるる、という喉からの音。落ち着いた表情を見れば、この声が承諾を意味していることはおのずと分かる。
燐火のように、葉怪を使うのに慣れているわけではない。
燐火はもっと意思疎通が取れているようだったが、琴葉にはまだ、否定か肯定か、怒っているか喜んでいるかしか分からない。竜の葉怪の使役者だというのに、未熟な自分が腹立たしい。
もう一度、巴を撫でた。本来、これを手に入れるべき人は、徒世だった。
自分は、全てが仮初の存在。ここにいられるのも、全て。
「御乗り、くださ、い。真ん中の、方を、おすす、め、します」
心から、良い旅を願う。
「……分かった」
少し離れた池辺から、こちらへ一歩ずつ歩く吉宗。襟を正して見守る群衆の一人が、さっと動いた。
その人はまるで、黒子のように影が薄かった。
その人の手によって、巴に、馬用の鞍が三つ乗った。そんな自分の分まで、と思わず琴葉は言いそうになるが、その場の圧力というものが発言を控えさせた。
「参り、ま、しょう」
ここでは、竜の使役者、神の使者でいた方が、よっぽど都合が良い。
竜とは、各地で崇められる神の一種でもある。それを従える自分も、また神のように見える。
あの言姫のように振舞うのは好きじゃない。身に余ることだ。罰当たりだ。
しかし、この立場、妹を背負う姉としての立場、故郷を背負う継飛脚の娘としての立場が、有無を言わせない。
琴葉は一番前の鞍に乗った。前よりも、一段と乗りやすい。これであれば、落ちることは避けられる。
巴の角を握った。鱗よりもひんやりとしていて、ざらざらとした感触だった。
前に蒼葉がいないことを、心の奥底で変に感じてしまっている自分を、今は律した。
琴葉の後ろに、吉宗が乗った。振り向くと、いつの間にか従者もその後ろに乗っている。
「準備が完了した。出発してくれ」
「……了、解、しました」
琴葉は背筋を伸ばす。葉怪の使役は、必ず声を使う。
葉怪はこちらの言葉を理解していている。使役者の言うことなら何でも聞く彼らは、時に命令で自害することだってある。そうなれば、ただの柏の葉になる。もし巴が他人の手に渡りそうなことがあれば、自害を命じればいい。
葉怪は尋常ならざる物であり、言葉を持つ者のみが使役できる。蘭の言葉でも使役はできない。この国の言語だけが妖たちに通じる。全ては、言姫の力によるものだからだ。
巴は賢い。普通の葉怪ではできぬような、その場の雰囲気を読んだ芸当もやってのける。だからこそ、あまり満足に喋れない琴葉でも使役しやすい。
「飛べ」
そう、たった一言でいい。
「行って参るぞ!」
「お気をつけて!」
目を閉じれば、蒼葉の姿がある。
ただ目を開けたらどうだろう。
そこには、晴天しかない。真っ蒼で、雲一つない空。出発に相応しい空。
琴葉じゃ、手を伸ばしても守れそうのない人々を、守れる人が背後に乗っている。
だからって、自分自身を許してはいけない。沢山の奇跡、沢山の恩恵、沢山の死を経てきたこの道筋を、他に辿る者がいてはいけない。
「和歌、山城、へ、連れて、行って……くだ、さい」
この場所に立つ人を選ぶ努力すらも、神様は十分にしてくださらない。否、できない。
覆水盆に返らず。喪った者が戻ってくることも永久に無い。
竜が昊天を翔る。
― ― ―
「姉さんのこと、よろしくな」
「だあれ?」
「……知らんで、ええんよ」
「そんな。ねえ、教えて。言姫様が言っていた、お姉ちゃんの秘密って何なの? 私には言えないことなの?」
「……本当に、知らんでええんや」
「あなたは知ってるんでしょ?」
「……」
「教えて!」
「……あんたは夢を視れる。全ての真実を視れる。そやけど、きっと辛なるし、姉さんのためにもならへん。それでもほんまにええんやね?」
「良い。だって、私はお姉ちゃんの――」
誤字脱字報告ありがとうございます。
否定的なコメントはやめてくださると幸いです。




