拾陸 鳳雛
本日もよろしくお願いします。
夜は瞬く間に明けた。
琴葉は泥のように眠りにつき、いつもと同じ時間に起きた。
まだ空はしらしら明けの最中。闇が、遠い西の方に消えていく。
急降下に急上昇、決別、思いがけない人々との出会い。
昨日は事が起きすぎた。これは、蒼葉がいつもの時間に起きられなくとも、無理はない。
ここ数日だったら、そろそろ支度を始める頃だが、今は早く起きても暇なぐらいだ。
そっとしておくことにした。
「よい、しょ」
琴葉は、勤番長屋の中心にある井戸で、水を汲んだ。
ここに住んでいる武士たちは、大抵が暇人。起きるのは少し後の時間になるだろう。
「朝、どうし、よ…… 」
夕飯の分は買ったものの、朝飯の分までは買っていない。
蒼葉を連れて、手頃な蕎麦屋にでも寄ろうかと、琴葉は思考を巡らせた。
「荷物、無い、し…… 」
宿に置いてきてしまったのが悔やまれるが、あのときはそんなことに気が回る状態じゃなかった。
琴葉は一度長屋の中に帰って、蒼葉の様子を見た。
ぐっすり眠っている。もうしばらく時間がかかるだろうと、琴葉は葉怪事典を開いた。
少し経って、隣からむにゃむにゃと寝ぼけた声が聞こえてきた。
「…… おはよう…… 」
「おは、よ」
まだ眠気に囚われている蒼葉。
そのお腹からぐぅぅという大きな音が聞こえた。
「蒼葉、準備。朝ご飯、と、朝風呂を、しに行、こう」
蒼葉は欠伸を一つして、体を起こす。
「分かった。お腹空いたぁ」
琴葉はまだ眠たげな蒼葉を引っ張り、勤番長屋を出る。
朝まだきの頃だというのに、江戸はすでに人で満ちていた。
湯屋を訪れ、さっと一風呂浴びた後、蕎麦屋を探す。
「あ、あそこにしようよ」
蒼葉が指差した蕎麦屋の前で、琴葉は昨日、呉竹にお釣りでもらった銭を取り出した。
「はいよー」
蕎麦を啜り、一息吐く。何も話さず、ただ、蕎麦を食べた。
「久しぶりにしっかり食べたかも。それで、今日は何するの?」
琴葉は眠っていた記憶を呼び覚ました。
そう、葉月。徒世が言っていた名前。
実は、大坂への旅に蒼葉を連れていくかどうか、琴葉は迷っていた。
将軍になるかもしれない方を乗せるのだ。不敬があれば首が危ない。
それに、蒼葉を連れていく意味は薄い。
徒世の言っていた、葉月という人。
その人に蒼葉を預けられるなら預けたいと、琴葉は考えていた。
「そっか。葉月さんの家、ここから近そうだね。行ってみよっ!」
そうと決まれば出発。
二人は蕎麦屋を立ち、日本橋近くの緑青長屋に向かった。
道中、様々な人に道を聞きながら、進んでいく。
そうして辿り着いた長屋。至って平均的なそこで、二人は行先を見失った。
「全く、聞いておくれよ、うちの旦那、物凄く馬鹿でさ」
困っていたとき、そんな声が耳の中に入り、琴葉は聞き覚えを感じて振り返る。
井戸で洗濯ついでのお喋りをしている、奥様方の声だった。
「そうそう、この前も、竜だか何だかと捲し立てて、挙句の果てに子供を二人…… 」
愚痴を並べ立てている奥様が、こっちを見て唖然とした。
「あ、あのときの子供!」
二人は顔を見合わせた。間違いない。あのとき、奉行所へ案内してくれた男の妻だ。
一瞬、神の代弁者などではないことがばれると思って焦ったが、逆に言えば葉月の居場所を聞ける幸運。
「この前はごめんなさい。迷惑でしたね。私は蒼葉。こちらは姉の琴葉です。今日は、葉月さんという方を探しているんですが」
蒼葉は緊張で声が震えながら、それでも真正面から伝えた。
「葉月? それなら、私の横のこいつ。私の姉だからね。ついてるね、今日帰ってきたばかりなんだ」
聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥とはよく言ったもの。
横にいた葉月が、口を開いた。
「私が、葉月、ですが。どうか、いたしま、したか。ご用が、おありで?」
玲瓏と、心の奥に届いていく声。
葉月は零葉に似ていた。
白い肌に綺麗な黒髪。どこからどう見ても美しい人。
表情はどこか硬く、眉は伏せられている。
「あの、徒世という方から紹介されて来たんです。少しの時間で良いので、お話したいんですが…… 」
それなら喜んでと言われ、二人は葉月の部屋に上がらせてもらうことになった。
「私は、一人暮らし、ですから、余り人と、喋る機会、が、ないもので、この通り、少し、ゆっくりになって、しまいます、が、お許し、くださいな」
江戸の女性人口は極めて少ない。葉月は妙齢の女性で、結婚もできるであろうに、部屋の中は確かに一人暮らしの雰囲気だ。
二人は、座布団の上に座った。葉月はお茶を汲み入れ、二人の前に一つずつ置く。
「徒世は、私を、残し、て、先に逝って、しまった、ようですね」
心を読んだような発言に、琴葉は驚いた。
「紹介が、葉月の、元に、来る、頃には、もう、私は、死んでいるだろうと、繰り返し、言われたものですから。彼女が、死ぬことは、私の中でも、想定済み、でしたよ」
あくまでも落ち着いた表情で、葉月はお茶を一口飲む。
その表情からは、感情を読み取れない。
「徒世は、自分の、ことは、何一つ、話さない、と、思いま、す、から、私から、お話し、ましょう」
井戸で話を聞いていたあのときと、何一つ変わらない柔らかな笑み。
人形のようだ。
「徒世は、夜鷹と、ある武士の、間に、生まれま、した。どぶに、捨てられ、そうに、なっていたところを、通りすがりの、人が、救った、そうです…… その人が、私たちの、父である、この長屋、の、元大家、です。父は徒世に、私たちの、遊び相手、に、なってくれる、よう、お願い、しました。これが私と、徒世が出会った、きっかけ、です」
葉月は、小窓の外をじっと見つめる。
「時が経つ、のは、早いもの、で、私が、丁度、蒼葉さん、のような、歳になった、際、徒世に、縁談が、来ました。徒世は、誰の目から、しても、美しく、勝気な、少女に、成長してい、ましたから、誰が、結婚を、申しんで、も、おかしく、ありま、せんでした」
二人は、徒世の幼い姿を思い浮かべる。それはそれは、美しい少女に違いない。
「しかし、その縁談、相手が、悪かった。相手は、私たちの、父から、話を、聞いていた、自分の、実の父親、でした。徒世は、必死、に、走って、逃げて、私の下に、来ました」
隙間が開いた戸から、健やかな風が吹いてくる。頬を撫でる。
「徒世を、可愛がってくれた、父は、病気がちで、あの頃すでに、他界していて、残るは私と、徒世、に、冷たい、菜月や、親族たち。私の反対、も、及ばず、徒世は、家、さえ、失いました」
葉月は、箪笥の一番下の段を開けた。そして、中から何かを取り出す。
「これは、私たちが、別れる、ときに、私が、徒世に、渡したも、の、です。数年前、感謝の言葉、と、共に、返された、ものです。ご覧な、さい」
「お守り…… ですか?」
巾着袋が無理矢理に改造されているかのような、桔梗色のお守り。紐で鈴がつけられている。
ぼろぼろで、年季が感じられる品物。
「ちょっと、解いて、みま、しょうか」
「…… わあ、小判!」
蒼葉が月並みの反応を見せる。
琴葉はこの数日で小判に見慣れてしまったので、特に驚かなかった。
しかし小判というのは、たった一枚で、大工を二十三人も一日同時に雇える額。
自分たち庶民が、一生の中で数回見るような物では全く無い。
「使えという、気持ちで、贈ったの、ですが、使わな、かった、ようで、すね…… 私が、贈ったのは、これだけ、ではない、のですよ」
葉月は小判を退ける。奥には、葉怪があった。兎の葉怪だ。
「父の友が、草葉師で。徒世と、私は、その、草葉師の元、に、結構な頻度で、出かけていました。これは、その、草葉師が、縁談、祝い、と称して、贈った、ものを、勝手に私が、お守りに、詰めたの、です。結局、使わなかった、よう、ですが」
葉怪は、その葉脈を水縹に輝かせた。命の輝きがそこにあった。
「さて、今度は、貴女たちの、お話を、聞かせて、もらい、ましょう」
琴葉は唾を飲み込む。
「お姉ちゃん…… 私が喋る予定でいるけど…… どこまで話していいの?」
蒼葉が、不安とも喜びとも取れない神妙な表情で琴葉を見た。
「蒼葉、徒世と、別れる、まで、に、しよう」
「分かった」
蒼葉は葉月に向き直った。
「私たち家族は、大坂で暮らしていました。しかし、何日か前に起こった大きな地震で、父母は津波と火事の応酬で亡くなり、二人だけになりました」
思い出すのも辛い、幸せな日々の記憶が駆け巡る。
それを一瞬にして奪われた、やり場のない怒りも、胸の中で再び疼き始める。
「父が飛脚だったので、姉は、幕府宛の文書を預かり、届けることになりました。公的な文書は、一般の飛脚には任せられません。ですから、大坂から江戸まで、たった二人で、走っていく必要がありました。その途中に出会ったのが、徒世さんです」
蒼葉は、感情の浮き沈みの無い平坦な声で語り出した。
「道に落ちていた読売を拾ったら、そこに葉怪のことが書いてありました。私たち二人は、その葉怪を取ろうとして森に入りました。そこで、刀の葉怪に出会って、姉が危険だったところを、徒世さんが助けてくれました」
蒼葉は少し懐かしそうに目を細めた。
「私たち、徒世さんといれば安心できました。姉は、草葉師になるための修行をすることになって、いろんな葉怪を捕りました。でも…… 」
蒼葉の眉が傾く。
昨日お地蔵さんの前に座っていた、火が消えたようなあの様子を思い出す様相だった。
「竜の葉怪に遭ってしまいました。強かった。徒世さんは、私たち二人を助けてくれて……自分の命は顧みなかった。私たちがこんなにも早く江戸に着けたのは、徒世さんがくれた竜の葉怪のおかげなんです」
少し頼りなくとも、笑ってみせる蒼葉。その蒼葉を見て、琴葉は、酷く羨ましく感じた。
「…… 徒世が、貴女、たちを、自分、から、守ったのなら、私は、もう、何も、言うこと、が、ありません」
葉月は、にこりと笑った。
泣いてなどいないのに、泣き笑いに見えた。
水を湛えて、もうすぐ決壊しそうな堀のような笑い。
「では、琴葉、蒼葉。私は、貴女たちを、力の、許す限り、守ることを、約束、しましょう」
蒼葉の顔が輝く。
良かった、これで蒼葉を預けられる。そう琴葉は思い、肩の荷が降りた。
「実は私たち、明日には江戸を出ることになっているんです」
「そうです、か。では、何か、贈り物を、しましょう。心が軽く、なるような、物を」
葉月はゆっくりと、先ほどのお守りを手に取った。
「兎……良いんですか?」
そう、それは、兎の葉怪。
「蒼葉、貴女が、使いなさい」
「え、私?」
蒼葉がきょとんとした目で首を傾げる。
「兎は、あなたを、在るべき場所へ、連れて、行ってくれる」
葉月は全てを語らなかった。
二人は不服に思ったが、本当にそれしか言わなかったので、問い詰めるのを諦めた。
「でも、良いんですか。これ、この家で一番高い物だって…… 」
「どうせ、私が、持って、いても、いずれ、売られる、だけ。それならば、貴女たちの、役に、立った方が、兎も、喜びます」
「そうですか…… 」
蒼葉は渋々兎の葉怪を受け取った。
そしてすぐ琴葉に渡す。持っているのが怖かったのだろうか。
琴葉は、帯に兎の葉怪を刺した。
「さて、もう、そろそろ、行きなさい。次の用事が、あるのでしょう」
葉月は質問を遮るかのように、二人を土間まで送り出した。
「…… あの、蒼葉、を…… 」
「またいつか!」
琴葉が、蒼葉を預ける相談をしようとすると、側にいた蒼葉が別れの言葉を言う。
おかげで話しかける時を見失ってしまい、琴葉はまごつく。
長屋を去ろうとする蒼葉と、葉月の間で、視線が行ったり来たりする。
「…… 私の、出る幕は、ありません、よ」
葉月はそう言って、琴葉の背中を押した。
「お姉ちゃん早く!」
何が何だか分からないが、琴葉は相談を諦めて、蒼葉の後を追うことにした。
「急いで奉行所行こ、昨日呉竹さんに言われてたもんね」
「うん…… 」
陽は真上を通りつつある。蒼葉と二人、琴葉は道を遡っていった。
― ― ―
「錦ちゃーん、こっちこっち~」
江戸、ある倉庫の陰。
「どーお?狂利様が言ってた子、やっぱ愛い~?」
遊女に仕える禿に扮した、獣が一人。
「早く始めまショウ…… アア、宝がスグそこ二……」
異国生まれの、目立つ金髪の男が一人。
「…… 」
そして、自分。
「全く、錦ちゃんたら寡黙なんだから。はは、そんなんだから徒世ちゃん、狂利様に捨てられちゃったんだねぇ。錦ちゃんもか。可愛そうだね」
息を吸い込む。
「帰寂さんも準備ばっちりみたいだし…… さ、早く燃やしちゃお。竜はあっちに取られちゃったけど、こっちが虎を使役できれば負けは無いよねっ」
一つ終われば、もう一つ始まる。そういう地獄にいる。
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否定的なコメントはやめてくださると幸いです。




