拾参 とつおいつ
本日もよろしくお願いします。
文量が少ないことを嘆いてくださる方がいるなら、それだけで救われます。
「ここが、紀州藩の勤番長屋だ」
紀州藩の屋敷は、とても大きい。しかし、二人が寝起きすることになる勤番長屋は、屋敷の
塀を兼ねた場所。つまり、屋敷の端の部分。
「一番右を使いなさい。ここに住む武士に声をかけられたら、大奥の部屋ができる間、ここに仮住まいをさせてもらっていると言いなさい」
そう伝えて、流光は去っていった。二人は早速、部屋の戸を開ける。
「結構広いよ、お姉ちゃん」
蒼葉が草履を土間に脱ぎ捨て、部屋の奥へと駆け出した。琴葉はその後を慌ただしく追う。
部屋は一階と二階に分かれていて、それぞれ九畳ほどの空間が広がっている。
へっつい、神棚、屏風に行燈。
上には物を仕舞うための長櫃もある。宿として使うには十分だ。
蒼葉はしばらくそこら中をうろうろしていた。しかし、
「お姉ちゃん、私、疲れちゃった。ちょっと休むね」
と言ったきり、血の涙に溢れた足取りで、二階に向かった。
泣き顔を見られたくないのだろうと察して、琴葉は一階で休むことにした。
畳の上に寝転がる。ひんやりした感触が、背中に伝わってくる。天井を何の意味もなく見つめる。
思考すらしたくなかったけれど、じくじくと痛む足が琴葉を現実に留めていく。
―― 気づいたら、色々な物をうしなっていた。
―― 自分の価値も何もかも、解らなくなった。
―― 流れ続ける今に、救いを見出すことすら、覚束ない。
―― 助けて、助けて、助けて。
―― 助けられなかった人間が、こんなこと。
―― どれほど傲慢で愚かなのか。
旅の終わりは、新たなる始まりを告げている。
―――
数刻、先のことになる。
「失礼」
引き戸の開く音がして、蒼葉は重い腰を上げ、注意深く一階に降りた。
「えっと…… ?」
一階では、姉が畳の上で寝息を立てている。
注目すべきところはそこではない。土間に伸びる影だ。
「どなた、ですか?」
初老だが、どこか若々しさを感じさせる、小粋な男。その背後に三名の、これまた男たちが控えていた。
頼れる姉は眠っている。蒼葉の心に、緊張の糸が張り詰める。
「私は、呉竹。竜を従える君たちに、話がある」
蒼葉はそれを聞いて、警戒を一段階上げた。
竜がどれほど強い力を持っているか、それを悪用すればどうなるか、理解できないほど子供ではなかった。
「怖がらせたくはないんだ。聞いてほしい。私は、草葉師をまとめる組織『草葉の光』を取りまとめている者。竜を手に入れた君たちを、保護しにきたんだよ」
保護、という甘い響きが蒼葉の心を揺らした。
姉はこんなことが起きているなど知らぬまま、ぐっすりと眠っている。
言葉を借りることはできない。自分で決めなくてはいけない。
けれど、このような大事なこと、自分だけで決めるのも如何なものかと、蒼葉は迷いに迷う。
「大丈夫だ。そちらを害するつもりはない。葉怪は、使役者が死ねばただの葉に還る。もちろん、使役者以外が動かすこともできない。草葉の光は幕府と繋がりがある。本拠地、奉行所に来てくれないか」
蒼葉は、こう答えるしかなかった。
「い、今は姉が寝ているので…… 少し後に…… 」
「…… お姉さんが使役者なのか?」
その問いに蒼葉は答えなかったが、その沈黙は肯定を表していた。
呉竹は満足そうに微笑んだ。
「ならば、君だけでも来てもらおうか。竜は幕府の脅威なんだ。言い方は悪いが…… 君たちは危険人物扱いを受けているんだよ」
呉竹の声音は優しく、穏やかなものだった。
しかし、心中穏やかでいられるわけがない。この場で否を唱えればどうなるだろう。
いよいよ、幕府の敵だと思われる。
ならば、今、自分が人質になった方が。そう、蒼葉の思考が動くのは、当然のことだった。
「…… 行きます」
― ― ―
琴葉が目を覚ますと、見慣れない部屋が広がっていた。
そうか、そういえば勤番長屋に仮住まいさせてもらっていたと、状況を思い出す。
琴葉は飛び起きて、窓の外を覗いた。
「日が…… 」
外は、すでに茜色に染まっている。江戸に来たときはまだ太陽が真上にあったのに。
ずいぶん長く寝てしまっていたようだと、琴葉は溜息を吐いた。
「蒼葉、買い出、し、行ってくる、ね」
足に絡みつく四乳の草鞋の紐を解いて、草履に足を突っ込み、外へ出る。
武士はいない。琴葉はそろりそろりとお屋敷通りを抜けていく。
隅を通って大通りに出る。
ここがあの日本橋通りかと、琴葉は一人、辺りをきょろきょろと眺めた。
人を葉と例えるなら、ここは森に違いない。
「魚! 魚だよー鯵に鰯になんでもあるよ!」
「採れたて新鮮、野菜はどうだい? 今の季節は人参がお得だよ!」
「枝豆や~茹で豆や~茹で豆や~枝豆や~」
様々な年代、性別、容姿の人々が、道を行き交いながら商いをしている。
誰もが皆、客寄せのために様々な工夫を凝らしている。
ある飴売りは奇抜な格好をして、子供たちの目を奪う。
またあるおでん屋は、節のある客寄せ声を響かせる。
音から目から鼻から、情報が次々と琴葉の頭の中に入ってくる。
「こら!急に止まるんじゃない、しっかり歩きな!」
後ろからせっつかれてしまった。
琴葉は反射的に謝り、通りの隅にあった貸本屋の柱に寄りかかった。
「君、貸本屋においで。今は空いているよ」
声の持ち主は、貸本屋の主人だった。主人は、琴葉にそう声を掛けたかと思うと、煙管を口に加え直し、また日本橋通りを眺め始めた。
琴葉はせっかくならと、その脇を通って貸本屋の店内に入る。
心地よい墨の香りが漂う。棚に所狭しと並べられた本に、琴葉は見つめられているような気がした。人を寄せつかせない異様な雰囲気が、この店にはあった。
琴葉は本棚から一冊引き抜いて、表紙を見た。
徒世が貸してくれた、あの葉怪事典だった。
そうだ、あの後、結局旅籠屋に戻っていない。
百合からお金をもらっていなかったら、飯が買えないところだったと気づき、琴葉は冷や汗を掻いた。
本は気晴らしにもなる。これで蒼葉の気が紛れたら良いと琴葉は思い、借りて帰ることにした。
葉怪事典を主人に差し出す。主人はそれを受け取り、何日借りるかと琴葉に尋ねた。
「明後日の、朝早、くに、こちらに、返しに、きます」
「分かった。……これはまた珍しい。この本は入荷して、誰も借りる人がいなかった本なんだよ。そうだ。良ければもらっておくれ。金額はそのままでいい。どうせ誰も借りない本だ。ならば、大切にしてくれる人の元にいった方が、本も幸せだろう。どうだい?」
琴葉は迷った。もしかしたら、いわくつきの品かもしれないし、旅籠屋に戻れば徒世の物が
あるし、本は重くて邪魔になるし。
だが、蒼葉は本が好きだ。嬉しがるかもしれない。
琴葉は迷いに迷った末に、葉怪事典を受け取った。
金貨を一つ差し出すと、主人は驚いて、銭を沢山箱から取り出した。その全てがお釣りだった。
「まいどあり。また来なよ」
琴葉は葉怪事典を抱えて、八百屋を探す。
動く度、お釣りがじゃらじゃらと音を立てる。その音に思わず汚い笑みを浮かべつつ、棒手振を何度か呼び止め、青菜と鯵の開きを二つずつ買った。
幸い、金はあるから、腹が空くなら外食すれば良い。最低限の分だけを持って、琴葉は勤番長屋に帰ってきた。
「蒼、葉?」
部屋の中は妙に静まり返っていた。葉怪がいるときの森と同じような不気味さを、琴葉は感じた。そこにあるはずのものがないような感覚。
「蒼、葉!」
琴葉はもう一度叫んだ。言葉が返ってくることはなかった。
明らかにおかしい。琴葉は荷物を玄関先に置いて、二階を覗いた。
「蒼葉! いる、なら、返事、して!」
二階にも、一階にも、蒼葉はいない。
勤番長屋の広場にも、屋敷の中を覗いても、蒼葉はいない。
琴葉は、あることに気づいて血の気が引いた。自分が買い出しに行くときに、蒼葉の声を聞いていないことに。
もうすでに、どこかへ行ってしまった後だったのかもしれない。
それか、誘拐、とか。
「蒼、葉!」
琴葉は武家通りの中心で、蒼葉の名前を叫び続けた。
「お姉ちゃん?」
少し強張った声。
でも、正真正銘、妹の声だった。
琴葉は、安心で崩れ落ちるようにその場にうずくまる。
「蒼葉、よかっ、た。どこに、いる、の?」
「…… 奉行所の裏!」
立ち上がり、すたすたと、奉行所の横にある裏道に入った。
正直、油断が過ぎた。
首筋にひやりとした感触が走り、琴葉はその場で硬直する。
首に押し当てられたのは、紛れもなく刃物だった。
誤字脱字報告ありがとうございます。
否定的なコメントはやめてくださると幸いです。
あまりに拙く、反吐の出る作品かもしれませんが、結末だけは見届けてください。結末を迎えたら、何を言っても構いませんので。




