第9話 第九層で、俺は手を合わせずに伝票を出した
三時五十八分に、目が覚めた。
目覚ましが鳴る前だった。二十年、そうだ。
四月十八日。
支度をして、台車を押して、家を出た。
*
「同行者は」
「いません」
「そうですか」
判の音が、二回。
「新藤さん」
「はい」
「本日、支所長は在席しています」
手が止まった。
券に指が触れた。
「ありがとうございます」
「午後からです」
真木さんは券を差し出した。
「十時までに上がってください」
「はい」
「毎日そうされていますね」
「はい」
「では、問題ありません」
*
その日は、速かった。
自分でも驚くくらい、速かった。
第一層から第三層まで、初日は二時間二十分かかった。今日は五十分で抜けた。
段差の位置を、身体が覚えている。曲がる場所で迷わない。台車を持ち上げるタイミングが、考える前に来る。
第四層の湿気。第五層の風。第六層の広間。
順番に、通り過ぎていく。
そして、もう一つ。
何も、出てこなかった。
*
第六層の広間で、高木さんに会った。
「うわ、おっさん。早くないすか」
「早いです」
「今、何時」
「七時四十分です」
「六層に七時四十分!? 初日、何時に着いてましたっけ」
「九時十分です」
「一時間半縮まってるじゃないすか」
「はい」
「なんで」
「道を覚えたので」
「いや、それにしたって」
高木さんが周りを見回した。
「ってか、今日やけに静かじゃないすか」
「そうですか」
「静かっすよ。湧きが少ない」
「運がいいんだと思います」
「運ねえ」
高木さんは納得していない顔をした。
「でもさ、変なんすよ」
「何がですか」
「静かなの、道の真ん中だけなんすよ」
俺は顔を上げた。
「真ん中」
「うん。端に寄ると普通。真ん中歩いてると出ない。……いや、気のせいか」
「どのあたりの話ですか」
「一層から、ここまでずっと」
高木さんは立ち上がって、装備を背負い直した。
「ま、いいや。行ってきます」
「気をつけて」
「おっさんもな」
*
第七層で、昨日の二人に会った。大和と広瀬だ。
「あっ、おっさん!」
「おはようございます」
「マジで来たんすね」
「来ます」
「何時に入りました?」
「六時です」
「昨日も六時って言ってましたよね」
「はい」
「明日も?」
「六時です」
大和が広瀬の肩を叩いた。
「言ったろ。この人ほんとに毎日来るって」
「賭けてたんすよ、俺ら」
「何をですか」
「おっさんが今日来るかどうか」
「どっちに賭けたんですか」
「俺が来るほう。こいつが来ないほう」
広瀬が財布を出して、千円札を大和に渡した。
「納得いかねえ」
「納得しろ」
それから大和が、思い出したように言った。
「あ、そうだ。腰で背負うやつ、あれすごいっすね」
「効きましたか」
「全然ちがう。昨日、帰りが一時間早かった」
「そうですか」
「広瀬なんて、これで一日二往復できるとか言い出して」
「二往復は、やめたほうがいいです」
「なんで」
「二往復目は、身体が慣れて雑になるので」
「経験者は語るってやつっすか」
「落としたことがあるので」
二人が顔を見合わせた。
「おっさんでも落とすんすか」
「落とします。二十年で、三回」
「三回!? 少なくないすか!」
「三回は、多いです」
*
第八層の奥、第九層への降り口。
昨日、時間がなくて引き返した場所だ。
覗き込むと、下から風が上がってくる。
水の匂いがした。
台車を担いで、身体を横にして、一段ずつ降りる。
途中で二度、足を止めた。
降り口は、毎回、緊張する。ここだけは何度通っても慣れない。
降りきった。
*
第九層は、広かった。
これまでの層とは、天井の高さが違う。ヘッドライトの光が、上まで届かない。
そして、水の音がした。
どこか遠くで、細い水が石を打っている。ぽつ、ぽつ、ではない。もっと連続した、さらさらという音だ。
俺は立ち止まって、耳を澄ませた。
音のするほうへ歩く。
地図を出して、田淵さんが描いた鉛筆の線と見比べた。十四年前の、下手な地図だ。
合っていた。
*
壁際に着いた。
水音は、壁の向こうから聞こえてくる。手を当てると、石が冷たくて、わずかに湿っている。
俺は台車を置いた。
荷を下ろす。
養生シートを巻いたままの、小さな包み。六日間、ずっとこうして運んできた。
テープを外して、シートを開く。
線香が出てきた。紙の包みは、出発したときと同じだ。角が一つも潰れていない。
一本だけ抜いて、壁際の平らなところに置いた。
カチ、カチ。
ライターが二度、空振りした。三度目で火がついた。
線香の先が赤くなって、煙が上がる。
地下は、風がない。
煙は、まっすぐ上がった。
*
俺は、手を合わせなかった。
合わせようとして、やめた。
二十年、荷を降ろしてきた。降ろしたあとにすることは、決まっている。
鞄から、メモ帳の裏に書いた伝票を出した。
品名、線香一束。数量、一。納品先、第九層。指定日、四月十八日。
空けておいた欄に、ボールペンで書き込む。
――納品時刻 九時二十分。
書いて、二つに折った。
それだけだった。
*
帰り道で、気づいた。
行きに通った道が、静かだ。
静かなのは今日に始まったことではない。ただ、今日は明らかだった。
俺は、試しに道を外れてみた。
通路の真ん中を歩いていたのを、一メートルだけ左に寄る。
足元の埃が、違った。
真ん中の埃は、寝ている。踏まれて、一定の方向へ倒れている。
左に寄ったところの埃は、立っていた。細かいのが、ヘッドライトの光に舞う。
そして、奥のほうで、何かが動く気配がした。
俺は真ん中へ戻った。
気配が、遠のいた。
*
もう一度やってみた。
外れる。埃が立つ。気配がする。
戻る。静かになる。
三回やって、三回とも同じだった。
俺は立ち止まって、自分の足元を見た。
幅一メートル半ほどの、真っ直ぐな帯。
六日間、俺が通ってきたところだ。
*
十時ちょうどに、地上へ出た。
売店へ行くと、田淵さんが軒下に座っていた。
俺は伝票を出して、渡した。
「納品、完了しました」
田淵さんは受け取って、それを見た。
品名、線香一束。納品時刻、九時二十分。
長いこと、見ていた。
それから、何も言わずに立ち上がって、店の奥へ入っていった。
*
なかなか出てこなかった。
俺は軒下の椅子に座って、待った。
待つのは慣れている。
*
その夜。
探索者向けの掲示板に、一つのスレッドが立った。




