第8話 二十年ぶんの声を出したら、通路が止まった
「同行者は」
真木さんが、いつもの質問をした。
「いません」
「そうですか」
判を押す音が、二回した。
俺は券を受け取って、それから気づいた。
「あの」
「はい」
「今、判を」
「押しました」
「同行者、いないんですが」
「存じています」
真木さんは書類を揃えて、引き出しへ入れた。
「第九条の二は、一日入場券の交付要件を定めた条文です」
「はい」
「交付要件に該当しない場合の処分については、第十一条に定めがあります」
「はい」
「第十一条は、支所長の裁量による、とだけ書いてあります」
真木さんが顔を上げた。
「支所長は、現在出張中です」
券が、指先に触れた。
「ありがとうございます」
「次の方、どうぞ」
俺は頭を下げて、列を外れた。
外れてから、もう一度振り返った。
真木さんは、もう別の書類を見ていた。
*
第七層までは、迷わなかった。
六日通えば、道は覚える。段差の位置も、枝道の入口も、どこで音が響くかも。
ゴリゴリ、と台車の音が変わるところで、第四層に入ったと分かる。
一人だった。
一人で歩くと、音が自分のものしかない。台車と、靴と、息と、それだけだ。
*
第八層への降り口は、これまでで一番狭かった。
幅が一メートルあるかどうか。片側が壁で、片側が下りの傾斜になっている。
台車を担いで、身体を横にして降りる。
降りきったところで、前から声がした。
「うわっ、ちょ、待って待って」
若い男が二人。二十歳そこそこに見える。
片方が背負子を背負っていて、それが傾いていた。中身は、鉄の塊がいくつか。たぶん魔石か何かだ。
男は姿勢を戻そうとして、逆に上半身を反らした。
荷が、さらに傾く。
段差が、すぐ後ろにある。
あそこで踵が引っかかったら、荷ごと後ろへ倒れる。鉄の塊が先に落ちて、その上に本人が落ちる。
考えるより先に、腹から声が出た。
「――止まれェッ! 腰ァ落とせッ!」
声が、通路に叩きつけられた。
壁に当たって、奥まで転がって、返ってくる。
男が、止まった。
反射だったと思う。何も考えずに膝を折って、腰を落とした。
荷が、背中の上で止まる。
ゴトッ。
それだけで済んだ。
「え、え?」
「動かないで」
俺は台車を置いて、男の後ろへ回った。
背負子の上のベルトが、片方外れている。緩んだぶんだけ荷が後ろへ逃げて、重心が上がっていた。
「ベルト、留め直します。動かないでください」
「は、はい」
留め直して、上から押して、重心を下げる。
「はい、もう立って大丈夫です」
男が、ゆっくり立ち上がった。
そして、こちらを見た。
「あんた、声でけぇな」
「すみません」
「いや、助かったけど」
もう一人が、口を開けたまま言った。
「なんか、今の、腹に来た」
*
休憩することになった。
男たちは大和と広瀬といった。二人で組んでいて、始めて半年だという。
「さっきのやつ、なんすか」
「かけ声です」
「かけ声?」
「荷役の。荷が落ちそうなとき、止めるので」
「止まるんすか、声で」
「止まります。人は」
大和が広瀬と顔を見合わせた。
「ってか、なんで俺の荷が危ないって分かったんすか」
「ベルトが片方外れてたので」
「見えました?」
「傾きで」
「傾き」
俺はパンを出して、半分に割った。二人が見ているので、片方を渡した。
「背負子、肩で背負ってますよね」
「え、肩じゃないんすか」
「腰です」
俺は自分の腰を叩いた。
「肩で背負うと、重心が上に来ます。上に来ると、揺れが大きくなる。腰で背負うと、揺れません」
「腰で背負うって、どうやって」
「ベルトを腰骨の上に。肩のベルトは、荷を身体に寄せるためだけに使います」
「え、待って、やってみていいすか」
大和が背負子を下ろして、ベルトを調整し始めた。
俺は手を貸した。腰骨の位置を指で示して、締め具合を見る。
背負わせて、その場で二、三歩歩かせた。
「……あ」
「どうですか」
「軽い」
大和が自分の背中を見ようとして、首を回した。
「軽い! なんで!? 中身同じっすよね!?」
「同じです」
「なんで軽いんすか!」
「揺れないので」
広瀬が身を乗り出した。
「俺のもやってください」
「はい」
*
二人ぶん直し終えたところで、大和が言った。
「あんた、何者っすか」
「運送です」
「運送?」
「二十年やってました」
「二十年!?」
広瀬が驚いて、それから聞いた。
「じゃあ今は?」
俺は、答えに詰まった。
今の職業を、まだ自分で決めていない。
「……今も、運送です」
「どこの会社すか」
「一人です」
「一人で!?」
「はい」
大和が背負子を背負い直して、笑った。
「なんかすげえな。おっさん、また会ったら教えてくださいよ」
「はい」
「今日、何時までいるんすか」
「十時に上がります」
「きっかり?」
「きっかりです」
「なんで?」
「決めたので」
大和が広瀬を見た。
「この人、面白いな」
「面白いっすね」
「おっさん、明日も来る?」
「来ます」
「何時?」
「六時に入って、十時に上がります」
「明後日は?」
「同じです」
「その次は?」
「同じです」
大和が笑った。
「壊れたラジオかよ」
「ラジオよりは、運びます」
「運ぶんかい!」
*
九時四十分に、第八層の奥で行き止まった。
その先が、第九層への降り口だと地図には書いてある。
俺は入口まで行って、覗き込んだ。
深い。今日の時間では、降りて戻ると間に合わない。
十時に上がると決めてある。
俺は踵を返した。
携帯を出して、電波がないことを確かめてから、また仕舞う。
地下には電波が来ない。
田淵さんに、まだ届いていないと伝える手段がない。
*
売店に寄った。
田淵さんは軒下にいた。こちらの顔を見て、何も聞かずに湯呑を出してくる。
「八層までです」
「そうか」
「明日、行きます」
「明日が十八日やな」
「はい」
「同行は」
「いません」
田淵さんの手が止まった。
「なら、どうやって入るんや」
「入れました」
「入れた?」
「はい」
「誰が通した」
俺は少し考えて、答えた。
「支所長が出張中だそうです」
「なんやそれ」
「俺にもわかりません」
田淵さんは湯呑を持ったまま、しばらく俺を見ていた。
それから、笑った。
「ええ人がおるんやな、どこかに」
*
帰り道で、一つだけ気になったことがある。
さっき大声を出したあたりを、また通った。
朝、あそこには何もいなかった。今も、何もいない。
ただ、朝より静かな気がした。
気のせいだ。
俺は台車を押して、十時ちょうどに地上へ出た。




