第7話 三日連続で「何も起きなかった」と書いた
四時に出た。六時に入った。十時に上がった。
四月十四日。第六層まで。何も起きなかった。
四時に出た。六時に入った。十時に上がった。
四月十五日。第七層まで。何も起きなかった。
四時に出た。六時に入った。十時に上がった。
四月十六日。第七層で足止め。何も起きなかった。
*
同行者は、毎日違う人だった。
田淵さんが前の晩に誰かを捕まえてくる。みんな一日だけ付き合って、二度目はない。
「田淵さん」
「なんや」
「毎日すみません」
「かまわん」
「三日続けてもらってます」
「わしは頭を下げとるだけや。何も減らん」
田淵さんは湯を沸かしていた。
俺が上がってくる時間に合わせて、毎朝、沸かしてくれている。三日目で気づいた。
「今日は」
「七層です。奥で行き止まりでした」
「そうか」
「道を間違えたわけじゃないんですが、枝道が多くて」
「地図はないんか」
「売ってます。買いました」
鞄から折り畳んだ紙を出して、広げた。
公社が出している層別の見取り図だ。第七層のところに、鉛筆で書き込みがしてある。
「わしにはさっぱりや」
「ここが本道で、ここが枝です」
「線が同じに見えるがな」
「幅が違います。本道は三メートル、枝は一メートル半。地図だと同じ太さで描いてありますが」
田淵さんが、地図を裏返して透かした。
「あんた、それ一回で覚えたんか」
「歩いたので」
田淵さんが、湯呑を置く手を止めた。
*
二日目の朝、行列で高木さんに会った。
「あ、おっさん」
「おはようございます」
「まだやってんすか」
「はい」
「今日で何日目?」
「二日目です」
「へえ」
高木さんは自分の列へ戻りかけて、振り返った。
「なあ、一個聞いていい?」
「はい」
「昨日、俺、途中で先に行っちゃったじゃん」
「はい」
「怒ってる?」
「怒ってません」
「ほんとに?」
「そちらの予定があるので」
高木さんが少し黙った。
「ふつう怒るよ」
「怒っても、着かないので」
*
三日目の朝、田淵さんが俺の手を取った。
軍手を外したばかりの手だ。
「痛いです」
「黙っとれ」
千代さんと同じことを言う人だった。
田淵さんは俺の掌を見て、親指で付け根を押した。
「まめが潰れとる」
「はい」
「潰れて、また潰れとる」
「台車の取っ手が、細いので」
「巻け。テープを巻け」
「はい」
田淵さんは店の奥からビニールテープを出してきて、俺に押し付けた。
「これも運賃には入っとらん」
「入れます」
「入れるな」
「わかりました」
*
四日目、五日目と、日付だけが進んだ。
進んだ層は増えていない。第七層で止まっている。
枝道の奥から音がする日もあれば、しない日もあった。
音がする日は待った。しない日は歩いた。
同行の人が呆れて先に行ってしまう日もあった。
「おっさん、速く歩けないの」
「歩けます」
「じゃあ歩けよ」
「荷が揺れるので」
「三キロだろ」
「三キロでも、揺れると角が潰れます」
「線香だろ」
「線香です」
「……もういいわ」
置いていかれても、俺は自分の速度で歩いた。追いつこうとすると、荷が揺れる。
毎日、十時ちょうどに上がった。
売店に寄って、田淵さんに報告して、湯を飲んで、帰った。
*
「弘樹はな」
五日目の朝、田淵さんがぽつりと言った。
「朝が弱い子やった」
「そうですか」
「高校まで、一回も自分で起きたことがない。わしが叩き起こしとった」
「はい」
「それが、荷運び始めてからな」
田淵さんは湯呑を両手で持っていた。
「四時に自分で起きるようになった」
「はい」
「一回も寝坊せんかった。二か月や」
「二か月」
「二か月しかなかったからな」
俺は何も言わなかった。
「なんでやと思う」
「……納期があったんだと思います」
「納期か」
「はい」
田淵さんは湯呑を置いて、遠くを見た。
「そうか。納期か」
*
五日目の夕方、田淵さんから電話があった。
『明日の同行、見つからん』
「はい」
『一回目は付き合うてくれる。二回目は渋る。三回目は、目を逸らされる』
「はい」
『わしがここで四十年やっとっても、それや』
「頭を下げさせて、すみませんでした」
『そこやない』
田淵さんが、めずらしく強い声を出した。
『わしが言いたいのはな。明日は、四月十七日や』
「はい」
『納期は、十八日やったな』
「はい」
しばらく、沈黙があった。
『間に合わんかったら、わしのせいや』
「違います」
『違わん』
「運ぶのは、うちの仕事なので」
電話が切れた。
*
その日の夜、アパートに帰ると、郵便受けに封筒が入っていた。
雇用保険の受給資格者証。
所定給付日数、九十日。
三か月だった。
計算すると、七月の頭に切れる。
俺は封筒を机に置いて、その隣に今日の紙を並べた。
・七層で足止め。三日目。
・枝道が多い。本道は幅三メートル。
・音がする日と、しない日がある。
書くことが、三日ともほとんど同じだった。
同じことを書いている。それは、進んでいないということだ。
そう思いかけて、やめた。
二十年、同じ路線を走ってきた。毎日同じ道を、同じ時刻に。日報に書くことは、いつだってほとんど同じだった。
それでも、走らなかった日はない。
*
携帯が鳴った。長野だった。
『新藤さん、まだやってるんすか』
「やってます」
『何層すか』
「七層です」
『昨日も七層って言ってましたよね』
「はい」
『一昨日も』
「はい」
『新藤さん』
「はい」
『それ、前に進んでます?』
俺は紙を見た。
「進んでません」
『言い切った!』
「ただ、遅れてもいません」
『どういう意味すか、それ』
「毎日、十時に上がってます」
電話の向こうで、長野が黙った。
『それ、何かの役に立つんすか』
「わかりません」
『わかんないんすか』
「はい」
『新藤さんさぁ!』
長野が叫んだ。
俺は携帯を少し耳から離した。
『俺、心配してんすよ!』
「はい」
『はいじゃなくて! ……あー、もう』
通話が切れた。
*
千円のヘッドライトが、少し暗くなってきた。電池を買わないといけない。
俺は壁の紙を見上げた。
一番上の行を、書き直した。
・四月十八日まで、あと一日。
七層から九層まで、あと二層。
同行者は、いない。
いけるかどうかは、わからない。
ただ、明日も四時に起きることだけは、決まっている。




