第5話 届かなかった日も、十一時ちょうどに上がった
「悪い。今日はここまでだ」
第三層の広間で、宮下さんがそう言った。
時刻は九時二十分。予定では、そろそろ第五層に入っている頃だった。
「あんたのペース、遅すぎる」
「はい」
「はい、って。文句ねえのかよ」
「ないです」
「ないのかよ」
実際、遅い。
段差のたびに台車を持ち上げて、下ろして、また押す。第二層と第三層のあいだの下り坂では荷が前に滑って、ベルトを締め直した。それで二十分使った。
宮下さんは悪くない。この人は自分の予定でここに来ている。俺の都合に一日つきあってくれただけだ。
「だいたいさ」
宮下さんは壁に寄りかかって、水を一口飲んだ。
「線香一本だろ」
「はい」
「一層の隅にでも置いときゃいいじゃねえか」
「はい」
「どうせ誰も見てねえよ」
「はい」
「はいはい言うな! 反論しろよ!」
「反論は、ないので」
「反論ないのに動かねえのかあんたは」
「動きます。九層に」
「だから!」
俺は台車の取っ手を握ったまま、少し考えた。
誰も見ていない。それは、そのとおりだ。
田淵さんも第九層には行ったことがない。俺が第一層に置いて、九層に置いてきましたと言えば、それで終わる。
「九層って伺ってますので」
「は?」
「九層です。そう聞いてるので」
宮下さんが、口を開けて俺を見た。
「あんた、誰かに見られてると思ってんの」
「いえ」
「じゃあなんでだよ」
「伝票に、九層って書いたので」
「伝票!?」
「はい」
「自分で書いたやつだろ!」
「はい」
宮下さんが、鼻から息を抜いた。
「勝手にしろ。俺は上がる」
「ありがとうございました」
宮下さんは片手を上げて、来た道を戻っていった。
足音が遠ざかって、消えた。
*
第三層の広間に、一人で残った。
天井が高い。どこかで水が滴っている。ぽつ、ぽつ、と不規則に。
台車の横にしゃがんで、荷を見た。線香一束。養生シートに巻いたまま。
ここから九層まで、あと六層。今日は無理だ。
問題は、この先どうするかだった。
一人で進む。それが一番早い。
ただ、進んだ先で何か出てきたら、俺には何もできない。宮下さんが三秒で終わらせたものを、俺は一分も相手にできない。荷も落とす。台車も置いていくことになる。
台車を置いていくと、明日が回らない。
俺は立ち上がった。
引き返すことにした。
情けない話だった。
ただ、二十年で覚えたことが一つある。無理をして一回運ぶより、無理をせずに十回運ぶほうが、結局は多く届く。
無理なものは、無理だ。
*
帰りは早かった。
下りで苦労した坂は、上りなら台車を引けばいい。段差の位置も覚えている。三センチは右に寄れば消える。
途中で一度、枝道の奥から音がした。
俺は動かなかった。台車も動かさなかった。
息を止めて、壁に寄って、通り過ぎるのを待つ。
三十秒か、一分か。ずいぶん長く感じたが、時計を見たら四十秒だった。
音が遠ざかってから、また歩き出す。
膝が、少し笑っている。
待つのは慣れていた。荷降ろしの順番待ちで、二時間立っていたことが何度もある。
開くまで待って、開いたら降ろす。それだけだ。
*
地上に出たのは、十一時ちょうどだった。
入口の陽が眩しくて、少しのあいだ目を細めた。埃っぽい風が、汗の残った首筋に当たる。
売店へ行った。田淵さんは軒下で新聞を読んでいた。
「早かったな」
「届きませんでした」
俺は線香の包みを出した。巻いたシートに、一か所だけ擦れた跡がついている。坂で荷が滑ったときのものだ。
「三層までです。同行の方が、そこで引き返されたので」
田淵さんは新聞を畳んだ。
怒られるかと思った。
「そうか」
それだけだった。
「すみません」
「いや」
田淵さんが俺の手を見た。軍手を外したばかりの、汗で白くなった手を。
「あんた、また行くつもりやろ」
「はい」
「いつ」
「明日です」
「明日か」
「同じ時間に出ます」
田淵さんが、少し不思議そうな顔をした。
「なんで同じ時間に」
「決めとかんと、崩れるので」
口に出してから、二日続けて同じことを言っているのに気づいた。
言い方を変えたほうがいいのかもしれない。ただ、それ以外の言い方を、俺は知らなかった。
「ふうん」
田淵さんはレジの引き出しを開けて、千円札を二枚出してくる。
「残りや」
「いえ」
「今日の手間賃や」
「手間賃は、頂けません」
田淵さんの手が止まった。
「うちは、運賃しか頂かないので」
「うち」
「……はい」
言ってから、気づいた。
もう会社はない。うちも何もない。あるのは台車一台だ。
「運賃ゆうのは、届いたら発生するもんか」
「はい」
「届かんかったら、ゼロか」
「ゼロです」
「損やな」
「そういう仕事なので」
田淵さんは二枚の札を引っ込めて、代わりに缶の茶を一本、俺の前に置いた。
「これは運賃やない」
「はい」
プルタブを開けた。冷えていて、喉が鳴った。
*
駅へ向かう途中で、携帯が鳴った。長野だった。
『新藤さん! 生きてます!?』
「生きてます」
『どこにいるんすか今』
「旧倉庫街です」
『倉庫街って、あの、穴のとこっすよね』
「はい」
『はい、じゃないでしょ! 何してんすか!』
「荷物を運んでます」
『どこにっすか!』
「九層です」
電話の向こうが、静かになった。
『九層って、下?』
「下です」
『新藤さん、戦えないでしょ』
「戦いません」
『いや、そういう問題じゃなくて』
「運ぶだけなので」
『運ぶだけの人がいちばん死ぬって聞きましたけど!?』
「そう聞きました」
『聞いたんかい!』
長野が叫んで、それから長く息を吐いた。
『で、今日は届いたんすか』
「届きませんでした」
『えっ』
「三層で引き返しました」
『新藤さんが? 届けられなかったんすか?』
「はい」
長野が黙った。
三年一緒に走って、この男が黙るのを聞いたのは初めてだった。
『……明日、行くんすよね』
「行きます」
『ですよね』
通話が切れた。
その日、家に帰ってから紙を一枚出した。
壁に貼ってある出発時刻の紙の隣に貼る。
今日わかったことを書いていった。
・一層から三層まで、二時間二十分。
・段差は三センチ。右に寄れば消える。
・二層と三層のあいだの坂で、荷が滑る。ベルトをもう一本。
・枝道の奥から音。四十秒待てば通り過ぎた。
二十年、路線でやってきたことと同じだった。
どこで詰まるか、どこで時間を食うか、どこで待たされるか。書いて、覚えて、次は減らす。
それだけの仕事だ。
一番上に、もう一行だけ足した。
・四月十八日まで、あと六日。
納期は動かない。動かせるのは、こっちの段取りだけだ。
目覚ましを二つかけて、布団に入った。
*
翌朝、四時に起きた。
支度をして、台車を押して、家を出る。
入口に六時。行列に並ぶ。
窓口で、真木さんが顔を上げた。
「新藤さん」
「はい」
「本日の同行者は」
俺は、答えられなかった。
昨日、宮下さんは引き返した。田淵さんには、今日また頼んでくれとは言っていない。
真木さんが、書類を持つ手を止めたままこちらを見ている。
「いません」




