第4話 午前四時に町工場の戸を叩いたら、殺すと言われた
ガン! ガン! ガン!
シャッターを三回叩いた。
返事がないので、もう三回。
ガンガンガンガンガンガン!
ガラッ。
「殺すぞ」
通用口が開いて、寝間着の上に半纏を羽織った女が立っていた。安西千代さん。五十五だと聞いたことがある。旧倉庫街の外れで、この鉄工所を一人で回している。
「何時だと思っとる」
「四時十分です」
「知っとるわ!」
「はい」
「知っとるわ、は、時間を訊いとるんやない、という意味だ」
「難しいですね」
「難しくないわ!」
千代さんは頭を掻いて、それから俺の格好を見た。作業着、ヘッドライト、軍手。
目を細める。
「陸運の新藤さんか。こんな時間に何の用だ」
「台車を、譲ってほしいんです」
「今か」
「今からです。迷宮に入るので」
千代さんの手が止まった。
「……は?」
「六時に入ります。逆算して、今です」
「逆算して今じゃねえんだよ! 常識を逆算しろ!」
「すみません」
千代さんは大きく息を吐いて、俺の腕を掴んだ。
「痛いです」
「黙っとれ」
肘から手首まで、指で押していく。次に肩。最後に、握力を測るみたいに俺の手を握らせた。
そして何も言わずに、工場の奥へ入っていく。
俺はついていった。
*
工場の中は、油と金属の匂いがした。鉄粉が床に薄く散っていて、歩くたび足裏でざらつく。
ゴロゴロ、と千代さんが奥から台車を引っ張り出してきた。小型だが、車輪が厚い。
「これだ」
「いくらですか」
「後だ。それより聞け」
千代さんが取っ手を叩いた。
「階段は担げ。平場だけ転がせ。段差で無理に押したら、車輪が先に死ぬ」
「はい」
「それと、八十キロまでだ」
「八十」
「あんたの身体で八十。それ以上積んだら、あんたが壊れる前に荷が壊れる」
指を二本立てられた。
「荷が壊れるのと、あんたが壊れるの。どっちが先だと思う」
「荷です」
「そうだ。だから八十で止めとけ」
二十年、四トン車に乗ってきた人間が、八十キロと言われた。
それでも、数字が出たのはありがたい。数字が出れば、計算できる。
水なら四十本。飯が三日分で十五キロ。薬の類は軽いから、嵩のほうが問題になる。
頭の中で荷姿が組み上がっていく。
「おい」
「はい」
「今、何を考えとった」
「八十キロだと、何が積めるかを」
千代さんが、俺の顔をしばらく見た。
「荷主も決まっとらんのにか」
「一人います」
「一人か」
「はい」
「……そうか」
千代さんは工具箱を漁って、荷締めベルトを二本と滑り止めのついた手袋を投げて寄越した。
「これは頼んでません」
「持ってけ」
「代金は」
「出世払いだ。保証はせん」
「ありがとうございます」
「礼はいい。それより」
千代さんは、そこで初めて少し笑った。
「あんた、うちの荷台の補修に来たとき、必ず時間どおりに来とったろ」
「はい」
「珍しいんだよ、それが」
「時間どおりは、普通です」
「普通じゃねえんだよ」
「そうですか」
「あのな。うちに来る業者、十社ある。時間どおりに来るのは一社だ」
「残りは」
「早いか遅いかだ。早いのは平気で一時間早く来る。こっちの段取りが全部ずれる」
「それは、困りますね」
「困るんだよ。だからあんたのことは覚えとる」
千代さんは台車の車輪を指で弾いた。キン、と高い音がした。
「この車輪な、本当は深層用だ」
「深層」
「硬い床用。ここらの平場には要らん」
「なんでそれを」
「……気分だ」
*
六時。入口の行列に、台車を押して並んだ。
昨日より視線が多い。台車は目立つ。
同行者が台車を二度見した。
「本気で持ってくのか、それ」
同行者の男が、呆れた顔で言った。田淵さんが頼んでくれた常連だ。宮下さんという。三十代半ば、装備は使い込まれている。
「はい」
「階段、無理だぞ」
「担ぎます」
「八十キロを?」
「今日は三キロです」
「三キロ!?」
「線香です」
宮下さんは何か言いかけて、やめた。
窓口で、真木さんが無言で判を押した。券を受け取るとき、一度だけ目が合った。
*
縦穴に立った。
冷えた風が下から上がってくる。埃と鉄、それに少しだけ水の匂いが混じっている気がした。
台車を持ち上げて、肩に担ぐ。
踊り場が見えたところで、一度止まった。
ここで持ち替える。昨日、外から見て決めておいた。左肩から右肩へ、身体の向きを変えずに。向きを変えると、後ろの人間にぶつかる。
持ち替えて、下りきった。
後ろに並んでいた連中は、誰も待たされていない。
*
第一層は、思っていたのと違った。
洞窟だと思っていた。そうではなかった。
天井が高い。床は平らで、乾いている。幅の広い通路がまっすぐ伸びて、左右から細い道が何本も枝分かれしている。壁は削り出したように滑らかで、どこからか薄く光が漏れていた。
「道路っぽいですね」
「は?」
「幹線と、枝道です。倉庫街に似てます」
「そんなこと言うやつ初めて見た」
宮下さんが先を歩き出した。
俺は台車を下ろして、押した。
ガラガラガラ。
車輪の音が通路の奥まで響いて、返ってくる。
*
十分ほど進んだところで、宮下さんが急に足を止めた。
「下がって」
言われる前に、身体が固まっていた。
通路の先、壁際の暗がりで何かが動いている。黒い。犬くらいの大きさだが、脚の数が合っていない。
宮下さんが半歩踏み込んだ。
ザッ。
短い音がして、それで終わった。三秒もかかっていない。
「行けるぞ」
「はい」
俺は何もできなかった。手も出せなかったし、出そうとも思わなかった。
出したら死ぬ、というのが身体で分かった。
心臓が、喉のあたりで鳴っている。
「よくあるんですか」
「一層ならな。上のほうは弱いのしか出ん」
「下は」
「下は、俺でも無理だ」
宮下さんは装備を直しながら、あっさり言った。
台車の取っ手を握り直す。手袋の滑り止めが、掌にざらりと食い込んだ。
俺が持っているのは、これだけだ。
*
歩きながら、俺は床を見ていた。
宮下さんは前を、天井を、枝道の奥を見ている。当たり前だ。そこから出てくる。
俺は足元しか見ていなかった。
だから、気づいた。
「宮下さん」
「なんだ」
「ここ、段差ありますね」
宮下さんが立ち止まって、振り返った。
「は?」
「三センチくらい。ずっと続いてます。たぶん、右に寄ると消えます」
宮下さんは自分の足元を見た。それから右へ半歩寄って、少し歩いた。
しばらく黙っていた。
「おい」
「はい」
「あんた、何年ここ来てる」
「今日が、初日です」
「三センチな」
「はい」
「それ、何の役に立つんだ」
「台車が引っかかるので」
宮下さんは前を向いた。
「変なおっさんだな」
褒められたのかどうかは、分からなかった。




