第3話 依頼主に、俺が最初に訊いたこと
「お子さんですか」
線香の束を受け取ってから、俺はそう訊いた。
老人は驚かなかった。田淵源治さん、というらしい。
「弘樹いうてな。二十三やった」
「十四年前に」
「穴が開いて、二か月目や」
田淵さんは軒下の椅子に腰を下ろして、缶コーヒーを二つ開けた。片方をこちらへ滑らせる。
「あんた、あの頃を知らんやろ」
「ニュースでは」
「ニュースは何も言わん。あの頃はな、誰も潜り方を知らんかった。装備も何もない」
「はい」
「そういうときに、何が要ると思う」
「荷物ですか」
「そう。水と、飯と、灯りや」
缶を傾ける音がした。
「潜る連中より先に、荷運びが中を覚えた。弘樹はそれをやっとった。背負って、降りて、置いて、帰ってくる。それだけや」
「危ない仕事ですね」
「危ないわ。せやから金がよかった」
「はい」
「六月の十八日に、帰ってこんかった」
缶の表面に水滴がついて、指を伝った。
俺は何も言わなかった。
こういうとき、何か言ったほうがいいのは知っている。二十年、納品先で頭を下げるのは得意になった。ただ、頭を下げるのと慰めるのは、たぶん違う。
「遺体は」
「出とらん」
「荷も」
「荷も出とらん」
「公社は」
「回収の義務はない、と」
田淵さんが笑った。笑うときも、あまり音を立てない人だった。
「毎年、申請は出しとる。十四回、全部だめや。まあ、規則やしな」
規則です、と昨日聞いた言葉を思い出した。
俺は膝の上の線香を見た。紙が古びて、端が少し焼けている。
そして、口を開いた。
「重さは、どれくらいですか」
田淵さんが顔を上げた。
「重さ?」
「持ち方が変わるので。あと、寸法も」
田淵さんが、缶を持ったまま止まった。
「一束や。掌に乗る」
「いつまでに、お届けすればいいですか」
沈黙があった。
缶の表面で、水滴が一つ落ちた。
「あんた」
「はい」
「いや」
田淵さんはしばらく俺を見ていた。それから、缶を置いた。
「急ぎはせん。あんたが行ける日でええ」
「それだと、困ります」
「困るか」
「決めとかんと、崩れるので」
田淵さんが、ようやく笑った。今度は少し音が出ていた。
「そうか。あんた、そういう人か」
「はい」
「四月の十八日でどうや」
「はい」
「弘樹の誕生日や」
「場所は。九層の、どのあたりですか」
「水の音がするほうの、壁際」
「水の音」
「弘樹が、そう言うとった。九層は水の音がする、と」
田淵さんは店の奥から古いメモ帳を出してきて、一枚破って寄越した。鉛筆で、下手な地図が描いてある。十四年前の字だ。
「わしが行ったことはない。聞いた話だけや」
俺はそれを折らずに、胸のポケットへ入れた。折ると癖がついて読みにくくなる。
「お代は」
「いらん」
「それは、困ります」
田淵さんが怪訝な顔をした。
「受け取らんと、荷になりません」
「荷にならんと、どうなるんや」
「ただの、他人の私物です」
しばらく田淵さんは考えていた。それから、レジの引き出しを開けて千円札を三枚出した。
「三千円でどうや」
「はい」
俺は伝票を持っていなかったので、さっきのメモ帳の裏にその場で書いた。
品名、線香一束。数量、一。納品先、第九層。指定日、四月十八日。
受領のサイン欄だけ、空けておく。
「なんでそこまでするんや」
「二十年、そうしてきたので」
「伝票なんぞ、誰が見るんや」
「俺が見ます」
「あんただけか」
「はい」
「……それ、意味あるんか」
「あります」
「どんな」
「届いたかどうかが、後で分かるので」
田淵さんが、メモ帳の裏の伝票をじっと見た。
「十四年前もな、こういう紙があったはずや」
「はい」
「弘樹の分は、どこにもない」
「……変わっとるな、あんた」
「よく言われます」
「今日も言われたやろ」
「三回です」
俺は千円札を一枚だけ取って、二枚を返した。
「残りは、届けてからで」
*
公社の窓口に、二日続けて立った。
「同行者が見つかったので」
真木さんの指が、キーボードの上で止まった。
「どなたですか」
「田淵さんが、頼んでくれました」
「入口の、売店の」
「はい」
真木さんは何も言わずに、一日入場券の様式を出した。判を押す音が二回した。
「新藤さん」
「はい」
「昨日、届け先が決まっていないと仰いましたね」
「はい」
「決まったんですか」
「第九層です」
ペンが止まった。
「初めての方は、第三層より下へは行かないでください」
「九層まで行きます」
「初日にですか」
「納期があるので」
真木さんは、それ以上何も言わなかった。
俺の後ろでは、田淵さんが常連の探索者に頭を下げている。五十がらみの男で、面倒くさそうな顔をしていたが、最後には頷いた。
人に頭を下げさせている。
自分の荷のために他人に頭を下げさせるのは、二十年で一度もなかった。荷が遅れたときは、自分で下げた。
落ち着かなかった。
*
夜、アパートで荷造りをした。
畳の上に、持っていくものを全部並べる。
線香一束。ライター。水を二本。軍手。ヘッドライトは千円のやつをホームセンターで買った。あとは昼飯のパン。
全部合わせて、三キロもない。
二十年、四トン積んできた人間の荷物としては、情けないほど軽かった。
並べたものを、もう一度順番に入れ直す。取り出す順が早いものを上に。水は左、灯りは右。
中身が三キロでも、積み方は同じだ。
俺は線香の束を手に取って、少し考えた。
それから、押し入れから養生シートの切れ端を出してきた。トラックのを切って取っておいたやつだ。
線香を真ん中に置いて、端から巻く。角を折り込んで、テープで一周。
地下に雨は降らない。そんなことは分かっている。
「濡れると、困るんで」
誰も聞いていない部屋で、俺はそう言った。
言ってから、少し可笑しくなった。
*
翌朝、三時五十八分に目が覚めた。目覚ましが鳴る前だった。
支度をして、玄関で靴を履いて、線香の包みを持った。
そこで、足が止まった。
――台車が、ない。
三キロなら要らない。ただ、帰りに何か頼まれたら。いや、そもそも階段は担ぐ。担ぐには両手が空いていないと。
両手を空ける方法を考えます、と昨日言ったばかりだった。
何も考えていなかった。
俺は玄関に立ったまま、壁の時計を見た。
四時十五分。
この時間に開いている店は、一軒だけ知っている。




