第20話 四十分遅れました。それだけです
ベルトが、鳴った。
ギッ、と。
いつもと違う音だった。
*
第十八層の降り口。七時十五分。
一回目の荷を、降ろし終えたところだった。
三十六キロ。半分に分けた、下の半分。薬の木箱が入っているほうだ。
俺は斜面を上がって、二回目を取りに戻った。
そのときだった。
足元の岩が、動いた。
*
ゴッ、と低い音がした。
斜面の、上から三段目。俺が二か月、毎日踏んできた段だ。
その角が、欠けた。
*
身体が、傾いた。
左足が空を踏んで、右膝が斜面に当たる。
台車が、手から離れた。
*
俺は、追わなかった。
追えば、自分が転ぶ。
転べば、両方失う。
二十年、荷台から転げ落ちそうになったことが何度かある。そのたびに身体が覚えた。
――まず、自分が止まれ。
俺は壁に手をついて、体重を預けた。
台車が、斜面を滑っていく。
*
ガラン。
ガシャ、と。
音が、下から返ってきた。
*
降りた。
ライトを向ける。
台車は横倒しになっていた。ベルトが二本、切れている。四本のうち二本だ。
荷が、散らばっている。
水のボトルが三本、転がって止まった。携行食の袋が裂けている。
木箱は。
*
木箱は、開いていた。
中を見た。
十二本のうち、六本。
割れていた。
*
俺は、その場にしゃがんだ。
ガラスの破片と、透明な液体が、斜面の下で混ざっている。
匂いがした。消毒液に似た、鼻を刺す匂い。
残った六本を、一本ずつ確かめた。
ひびが入っているものが、二本。
使えるのは、四本だ。
*
時計を見た。
七時二十二分。
約束は、八時。
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俺は荷を集め始めた。
散らばった水を拾って、裂けた袋を回収して、木箱を組み直す。
ガラスの破片を拾った。素手ではない。軍手をしていた。それでも指先に当たった。
破片を置いていくと、次に通る誰かが踏む。
二十年、荷をこぼした現場を、そのままにして帰ったことはない。
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拾い終えて、積み直した。
ベルトが二本、切れている。
鞄から、千代さんが入れた四本目を出した。
三本になった。
*
薬のことを、考えた。
四本で、何日もつのか。
一ノ瀬さんの体質は聞いていない。薬が切れると動けなくなる、としか聞いていない。一日何本なのか、訊いていなかった。
訊いておくべきだった。
伝票には、品名と数量と宛名を書く。用法は書かない。書く欄がない。
二十年、俺は荷の中身を知らずに運んできた。知る必要がなかったからだ。
ここでは、必要だった。
*
斜面を降りる。
二回に分けるつもりだったが、分ける時間がない。
一回で降ろした。
膝が、笑っていた。
*
第二十一層に着いたのは、八時四十分だった。
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広間に、オルカがいた。
七人。
その真ん中に、一人が横になっていた。
一ノ瀬さんだった。
*
鵜飼さんが、立ち上がった。
俺のほうへ歩いてくる。
途中で、台車を見た。
切れたベルト。裂けた袋。濡れた床。
「薬は」
「四本です」
「四本?」
「六本割れました。二本、ひびが入っています」
鵜飼さんが、俺の横を通り過ぎて台車に触れた。
木箱を開けて、中を見た。
長いこと、動かなかった。
*
隊員が木箱を運んでいく。
一ノ瀬さんに、四本のうち一本が使われた。
しばらくして、一ノ瀬さんが目を開けた。
開けたが、起き上がらなかった。
起き上がれなかった。
*
「新藤さん」
鵜飼さんが、俺の前に立った。
「はい」
「何があった」
俺は、口を開いた。
開いて、閉じた。
*
言おうと思えば、言えた。
岩が欠けた。二か月踏んできた段が、今日、欠けた。俺のせいではない。
ただ、それを言ったところで、薬は六本割れている。
一ノ瀬さんは、床に寝ている。
言えば、言い訳になる。
言い訳は、荷ではない。
「遅れました」
「何分」
「四十分です」
「理由は」
俺は、頭を下げた。
「遅れました。すみません」
「理由を聞いてる」
「遅れました」
*
鵜飼さんの手が、上がった。
俺は、目を閉じなかった。
手は、俺の顔の手前で止まった。
握りしめたまま、震えていた。
下ろされた。
*
「もういい」
「はい」
「帰って」
「荷を」
「置いてって」
「伝票を」
「いらない」
*
俺は、伝票を鞄に戻した。
台車を持って、広間を出た。
出るとき、隊員の一人が小声で言うのが聞こえた。
「四十分で、来たんですよ」
鵜飼さんは、答えなかった。
出るとき、一ノ瀬さんがこちらを見ているのが分かった。
何か言おうとしていた。
俺は、振り返らなかった。
*
帰り道、第十六層を通った。
オルカの中継点には、誰もいなかった。全員、下にいる。
俺は、立ち止まらなかった。
第九層も通らなかった。昨日、線を引いて外した区間だ。
第七層で、桑田さんが待っていた。
「定時便さん」
「すみません」
「え?」
「今日の便は、持ってきていません」
桑田さんが、俺の台車を見た。
空の台車と、切れたベルトを。
「何があった」
「遅れました」
「いや、そうじゃなくて」
「四十分、遅れました」
俺は頭を下げて、歩き出した。
桑田さんは追ってこなかった。
*
第五層でも、同じことを言った。
新人の四人組は、何も言わずに頷いた。
一人が「大丈夫すか」と言った。
俺は「はい」と答えた。
*
地上に出たのは、十四時五十分だった。
第十六層には、行けなかった。
行っても、渡すものがない。
*
退場の窓口で、真木さんが記録をつけた。
ペンが止まった。
「十四時五十分です」
「はい」
真木さんは、記録簿に数字を書いた。
それから、顔を上げた。
「新藤さん」
「はい」
何か言おうとして、やめたのが分かった。
真木さんは、記録簿を閉じた。
「お疲れさまでした」
*
売店の前を通った。
田淵さんが軒下にいた。
俺は、顔を上げずに通り過ぎた。
田淵さんも、呼び止めなかった。
*
アパートの階段の下で、携帯が鳴った。
長野だった。
出るべきか、少し迷って、出た。
『新藤さん! 今日どうでした、二十一層!』
「行きました」
『やったじゃないすか! 二十一層っすよ!』
「はい」
『すげえな、ほんと。俺なんかまだ三層で』
「長野さん」
『はい』
「今日、四十分遅れました」
電話の向こうが、止まった。
『遅れたんすか。新藤さんが』
「はい」
『何があったんすか』
「遅れました」
『いや、だから何が』
「遅れました。それだけです」
長野は、しばらく黙っていた。
三年一緒に走った男だ。俺が遅れたことがないのも、遅れたときに何を言わないかも、たぶん知っている。
『新藤さん』
「はい」
『荷主さんは、無事すか』
俺は、階段の手すりを握った。
「……わかりません」
*
アパートに帰って、机に座った。
伝票を出した。
品名、薬剤一式ほか。受取人、一ノ瀬楓様。指定時刻、八時〇〇分。
納品時刻の欄が、空いている。
俺は、ボールペンを持った。
持って、置いた。
*
時計は、十五時四十分を指していた。
二十年で、初めてだった。
――伝票を、書かなかった。




