第18話 降り口だけは、何度通っても静かにならない
六月二十一日。
第十七層と第十八層のあいだの降り口で、台車が跳ねた。
ガタンッ。
荷が、三センチ浮いた。
*
降り口は、斜面だ。
幅が一メートル半。片側が壁、片側が下りの傾斜。段差が不規則に並んでいて、同じ高さのものが二つとない。
台車は転がせない。担ぐか、引きずって降ろすかだ。
今日は引きずっていた。荷が重かったからだ。
その途中で、車輪が段差の角に乗り上げた。
荷が浮いて、前へ滑り、ベルトが止めた。
*
ギチ、と鳴った。
千代さんが押し付けてきたベルトだ。二本目の。
一本だけなら、飛んでいた。
俺はその場に膝をついて、荷を押さえた。
心臓が、喉で鳴っている。
*
周りを見た。
降り口の空気は、いつもどおりだ。
埃が、立っている。
この場所だけは、二か月通っても、一度も寝たことがない。
*
俺は荷を下ろして、ベルトを締め直した。
それから、床を見た。
段差の角が、削れている。
削れているのは、俺が削ったのだ。二か月ぶん、同じところに車輪を当ててきた。
ただ、削れても、埃は寝ない。
*
なぜここだけ駄目なのか。
しゃがんだまま、考えた。
答えが出そうで、出なかった。
平場では、俺は同じところを歩く。台車の幅ぶん、真っ直ぐ。
ここでは、同じところを通れない。
段差の高さが不規則だから、足の置き場が毎回変わる。荷の重さでも変わる。
つまり、ここでは――毎回、違う場所を通っている。
*
俺は立ち上がって、台車を担いだ。
一段ずつ、降りる。
降り口だけは、いつまでも初日のままだ。
*
その日の夕方、鉄工所に寄った。
「千代さん」
「なんだ」
「降り口で、台車が跳ねます」
「跳ねるだろうな」
「跳ねない方法はありますか」
千代さんは作業台に肘をついて、しばらく考えた。
「ない」
「ないですか」
「段差が不規則なんだろ」
「はい」
「不規則なもんに合う道具は作れん。合わせるのは人間のほうだ」
「はい」
「で、人間が毎回合わせると、毎回違う動きになる」
俺は顔を上げた。
いま考えていたことを、そのまま言われた。
「千代さん」
「なんだ」
「それです」
「何がだ」
「だから、降り口だけ静かにならないんです」
千代さんが手を止めた。
「あんた、何の話をしとる」
「道の話です」
「台車の話をしとったろ」
「同じ話です」
「同じじゃねえだろ!」
千代さんは工具を放り出して、頭を掻いた。
「あんたと話してると、たまに置いていかれる」
「すみません」
「謝るな。腹が立つ」
*
帰り際、千代さんが呼び止めた。
「おい」
「はい」
「降り口でな。荷を二回に分けろ」
「二回」
「半分ずつ降ろして、二往復しろ。時間はかかる」
「十分、余計にかかります」
「かかるだろうな」
千代さんは俺を見た。
「かけろ」
*
第九層に寄った。
六月十八日は三日前だ。線香は、もう灰になっている。
俺は灰を集めて、小さな布に包んだ。田淵さんが持って帰りたいと言うかもしれない。
それから、新しい一本を置いた。
今月は、二本目だ。運賃は取らない。
カチ、カチ。
三度目で火がついた。
*
壁際に座って、少し休んだ。
水の音がする。壁の向こうで、細い水が石を打っている。
ここに来るのは、三十回目くらいになる。
最初は、ただの納品先だった。
「弘樹さん」
言ってから、自分でも驚いた。
誰もいない。声が壁に返ってくる。
「降り口って、どうやって降りてましたか」
返事はない。
「背負子だと、両手が空くので、楽だったと思うんですが」
煙が、まっすぐ上がっている。
「台車は、たぶん、間違いです」
俺は膝を抱えて、しばらく座っていた。
二十年、荷を降ろして、伝票をもらって、次へ行った。降ろした先で座り込んだことは、一度もない。
*
立ち上がるとき、壁際に何かが見えた気がした。
ライトを向けた。
石の陰だった。
俺は時計を見た。八時五十分。次の区間に出る時刻だ。
歩き出した。
*
立ち上がって、台車を押した。
歩きながら、さっき考えたことを頭の中で並べ直した。
平場は、同じところを通れる。だから道になる。
降り口は、同じところを通れない。だから道にならない。
二十年、俺が走ってきた路線にも、同じ場所があった。
交差点だ。
直線は誰が走っても同じ線を引く。交差点だけは、右折も左折も直進もあって、毎回違う線になる。事故が起きるのは、いつもそこだった。
迷宮も、同じらしい。
*
地上に上がって、田淵さんに灰を渡した。
「持って帰りますか」
田淵さんは、布の包みを両手で受け取った。
何も言わずに、しばらく持っていた。
田淵さんの喉が、一度動いた。
「新藤さん」
「はい」
「これ、あんたが集めたんか」
「はい」
「素手でか」
「軍手です」
「そうか」
田淵さんは包みを店の奥へ持っていって、すぐ戻ってきた。
目は赤くなかった。
「来週な」
「はい」
「オルカが、深層行くらしいで」
「聞いてません」
「今、わしが言うた」
「そうですね」
「大口が来るぞ」
*
そのあと、桑田さんに会った。
「定時便さん、顔色わる」
「そうですか」
「今日なんかあった?」
「降り口で、跳ねました」
「跳ねた? 落とした?」
「落としてません」
「じゃあいいじゃん」
「はい」
桑田さんは水のケースを足元に置いて、腰を伸ばした。
「あんたさ、落としたことあんの? こっちで」
「まだ、ありません」
「まだって言い方すんだ」
「いつか落とします」
「縁起でもねえな」
「二十年で三回落としました。今のところ、ここでは零回です」
「じゃあ優秀じゃん」
「まだ二か月なので」
桑田さんが笑った。
「あんた、絶対に自分を褒めないよな」
「褒めても、届かないので」
*
その二日後。
売店の前に、鵜飼さんが立っていた。
いつもと様子が違った。
インカムを外している。装備も着ていない。私服だった。
「新藤さん」
名字で呼ばれたのは、初めてだった。
「はい」
「二十一層。薬と水。明後日の朝八時」
「はい」
鵜飼さんが、一歩近づいた。
「遅れたら、人が死ぬ」
俺は、台車の取っ手を握ったまま、少しのあいだ黙っていた。
上屋の下を、朝の風が抜けていく。
「鵜飼さん」
「なに」
「その言い方は、やめてもらえますか」
鵜飼さんの眉が、跳ね上がった。
「……はぁ?」




