第16話 十二分で、道は戻った
第一層に入って、すぐに分かった。
埃が、立っている。
俺が歩いている、真ん中の帯の上で。
*
立ち止まって、足元を見た。
昨日まで、ここの埃は寝ていた。踏まれて、一定の方向に倒れていた。
今朝は、細かいのがヘッドライトの光に舞っている。
俺は台車を止めて、しゃがんだ。
指で床を撫でる。
ざらついている。昨日は、もっと滑らかだった。
十二分だ。
十二分しか、ずれていない。
*
第三層まで、何も起きなかった。
埃は立っているが、湧きはない。まだ持っている。
第五層で、新人四人組に水を渡した。
「おはようございます」
「あ、おはようございまーす」
「今日は六時十二分です。十二分遅れました」
「え、そうなんすか?」
「はい」
「全然気づかなかったっす」
「はい」
四人は本当に気づいていなかった。
彼らにとって、六時も六時十二分も同じだ。
俺にとっては、違う。
*
第七層で、桑田さんが時計を見た。
「お、十二分遅れ」
「すみません」
「いや別にいいけど。珍しいね」
「初めてです」
「初めて? 二か月やって?」
「二十年やって、二回目です」
桑田さんが水のケースを受け取る手を止めた。
「……二十年で二回」
「一回目は、事故渋滞でした」
「今日は?」
「寝坊です」
「寝坊かよ!」
桑田さんが笑った。
俺も、少し可笑しかった。
*
可笑しくなくなったのは、第十層を過ぎてからだった。
第十三層への降り口を降りたところで、音がした。
枝道の奥ではない。
道の、真ん中の奥だ。
俺は足を止めた。
台車を壁に寄せる。ライトを少し落として、待った。
三十秒。
一分。
二分。
通り過ぎなかった。
*
こちらへ来ている。
道の真ん中を、まっすぐ。
俺の道を、使って。
*
俺は台車を置いて、壁際の窪みに身体を入れた。
息を止める。
黒いものが、通路の真ん中を歩いてきた。犬より大きい。脚の数が、やはり合っていない。
それは、俺の台車の横で立ち止まった。
鼻先のようなものを、荷の上に近づける。
養生シートの匂いを嗅いでいるように見えた。
*
台車には、第十六層へ届ける薬が載っている。
一ノ瀬さんの薬だ。
俺は、動かなかった。
動けば、見つかる。
荷を取られたら、届かない。
取られたくない。
取られたくないが、俺には何もできない。
腹の底で、声が膨らんだ。
――止まれ、と。
口を、開けなかった。
ここで出したら、今度は俺のほうを向く。
*
黒いものは、しばらく荷の匂いを嗅いでいた。
それから、興味をなくしたように、通路の奥へ歩いていった。
足音が消えた。
俺は窪みから出て、台車を確かめた。
シートに、涎のようなものが付いていた。
中の荷は、無事だった。
*
――濡れると、困るので。
俺は、シートを外して裏返した。
表側は汚れている。裏は、乾いている。
荷には、何もついていない。
シートを畳んで、予備を出して、かけ直した。
手が、少し震えていた。
寒いからだ。第十三層は、気温が十度しかない。
*
第十三層を抜けたところで、携帯を出した。
電波はない。分かっていて出した。
誰かに言いたかったのだと思う。
仕舞って、歩き出した。
*
第十六層に着いたのは、八時三十二分だった。
「新藤さん」
一ノ瀬さんが立ち上がった。
「遅れました。十二分です」
「あ、いえ、全然」
薬を渡す。伝票を出す。
サインをもらって、畳んだ。
「あの」
「はい」
「これ、なんですか」
一ノ瀬さんが、台車の端を指した。
畳んだ汚れたほうが、台車の端に括ってある。
「汚れたので、替えました」
「何がついたんですか」
俺は少し考えて、答えた。
「わかりません」
*
鵜飼さんが、壁際から歩いてきた。
汚れたシートを見て、それから俺を見た。
「あんた、今日どこ通った」
「いつもの道です」
「いつもの道って、真ん中?」
「真ん中です」
「真ん中で、これ?」
「はい」
鵜飼さんが、シートを指で摘んで、匂いを嗅いだ。
顔をしかめた。
「これ、十三層のだね」
「そうですか」
「真ん中に出たの?」
「出ました」
鵜飼さんは、しばらく黙った。
「あんた、今日、何分遅れた」
「十二分です」
「十二分で、出る?」
「十二分で、出ます」
鵜飼さんがシートを放って、手を払った。
「ねえ」
「はい」
「それ、逆に言うとさ」
「はい」
「時間どおりに通ってる間は、出ないってこと?」
俺は、答えに詰まった。
そう言われたのは、初めてだった。
「たぶん」
「たぶんじゃなくて」
「二か月、出ませんでした」
「二か月、一回も?」
「道の真ん中では、一回も」
鵜飼さんが、俺の顔をじっと見た。
それから、隊員のほうを振り返った。
「聞いた?」
「聞きました」
「どう思う」
「意味わかんないっす」
「だよね」
鵜飼さんはまたこちらを向いた。
「あんた、それ誰かに言った?」
「掲示板に書いてありました」
「あんたが書いたの?」
「俺は書いてません」
「じゃあ誰が書いたの」
「わかりません」
「わかんないことが多すぎるんだよ、あんた」
*
地上に上がると、千代さんが入口の外に立っていた。
この人がここにいるのを、見たことがない。
「千代さん」
「おう」
「何かありましたか」
「台車の様子を見に来た」
「昨日、見てもらいました」
「今日も見る」
千代さんは台車を一周して、車輪を指で弾いた。
それから、括ってあるシートに目を留めた。
「これは何だ」
「汚れたので、替えました」
「何で汚れた」
「わかりません」
千代さんはシートを広げて、光にかざした。
長いこと見ていた。
「あんた」
「はい」
「これ、噛まれてるぞ」
俺はシートを受け取って、同じように光にかざした。
言われて初めて分かった。小さな穴が、四つ。等間隔に並んでいる。
「噛まれてますね」
「中身は」
「無事でした」
「一枚で、済んだってことか」
「はい」
千代さんはシートを畳んで、俺の胸に押し付けた。
「これ、取っとけ」
「捨てようと思ってました」
「取っとけ」
*
その日の夜。
俺は模造紙の前に座って、赤い鉛筆を出した。
第十三層の区間に、印をつける。
それから、紙の隅に書いた。
・十二分の遅れで、道が戻る。
・戻るのは、一日で全部ではない。埃から戻る。
・二日目には、湧きが戻る。
三行目は、まだ確かめていない。
明日、確かめることになる。
*
六月十四日。
俺は二時四十分に起きた。
目覚ましは三つ、かけてあった。
五時ちょうどに入場した。
そして、第十三層で、もう一度出た。
今度は、二体だった。




