第15話 朝五時。門限の前に、扉が開いた
「第九条の三」
真木さんが、規則集の一行を指で押さえた。
「入場受付は午前六時から午後六時までとする。ただし、事前登録された事業者については、支所長の判断により受付時刻を変更できる」
「事業者」
「継続的に迷宮内で業務を行う者、と定義されています」
「俺は、該当しますか」
真木さんは、指を動かさなかった。
「この条文は、十四年間、一度も使われていません」
「なぜですか」
「継続的に業務を行う非戦闘員が、いなかったからです」
俺は、規則集を見た。
ページの端が、少しも擦れていない。誰も開いたことがないページだった。
「申請の様式は」
「ありません」
「様式がないと、出せませんか」
「作れば、出せます」
真木さんがペンを取った。
*
様式は、三十分でできた。
真木さんが手書きで作って、コピーを二枚取った。
事業者名の欄で、俺は手を止めた。
「屋号が要りますか」
「個人名でも構いません」
俺は少し考えて、書いた。
――新藤運送。
真木さんが、それを見た。
「登記は」
「してません」
「して、ください」
「はい」
*
受付時刻の変更申請が通ったのは、三日後だった。
午前五時。
一時間、早くなった。
*
その一時間で、俺は五本を回せるようになった。
三時に起きて、四時に家を出て、五時に入る。
六時、第五層。六時四十分、第七層。七時四十分、第九層。八時二十分、第十六層。九時三十分、第二十一層。
そして十七時に上がる。
十二時間。
*
「新藤さん」
真木さんが、退場の記録をつけながら言った。
「十七時ちょうどです」
「はい」
「今週、五日とも十七時ちょうどです」
「はい」
「秒まで見ましたか」
「見てません」
真木さんは記録簿を閉じた。
「わたしが見ています」
*
長野から電話があった。
『新藤さん、五時から入れるようになったって聞きましたけど』
「はい」
『どうやったんすか』
「条文を読みました」
『条文』
「十四年、誰も使っていない条項がありました」
『それ、普通そんなの見つかります?』
「公社の人が見つけてくれました」
『公社の人』
「真木さんという方です」
電話の向こうで、長野が何か考えている気配がした。
『新藤さん』
「はい」
『それ、その人、なんでそこまでしてくれるんすか』
俺は、答えられなかった。
考えたことがなかった。
「わかりません」
『わかんないんすか!』
「はい」
『新藤さんさぁ!』
*
六月に入った。
五本を回す日々は、単調だった。
三時に起きる。顔を洗う。昨日の積載表を見る。四時に出る。五時に入る。
第五層で新人四人組に水を渡す。十分。
第七層で桑田さんに水と電池を渡す。十五分。
第九層で、月の十八日だけ線香を供える。それ以外の日は、通り抜けるだけだ。通り抜けるだけでも、通らないと道が消える。
第十六層でオルカの薬を渡す。一ノ瀬さんが必ず頭を下げる。
第二十一層は、まだ道ができていない。十五往復のうち、今日で九往復目だ。
*
「新藤さん」
第十六層で、一ノ瀬さんが言った。
「あの、余計なことかもしれないんですけど」
「はい」
「最近、お顔の色が」
「そうですか」
「はい。あの、澪さんも言ってました」
「鵜飼さんが」
「『あいつ、そのうち倒れる』って」
俺は伝票を畳んだ。
「倒れません」
「はい」
「倒れると、届かないので」
一ノ瀬さんが、少し困った顔をした。
「そういうことじゃないと思います」
*
六月六日。
地上に上がると、田淵さんが軒下で待っていた。
俺が湯呑を受け取ろうとしたら、田淵さんはそれを置かずに、俺の手を取った。
「痛いです」
「黙っとれ」
掌を上に向けられた。
テープを巻いた上から、また潰れている。テープごと、皮が剥けていた。
「あんた」
「はい」
「手が変わったな」
「前もそう言われました」
「あのときは、荷役の手やと言うた」
田淵さんが、俺の指を一本ずつ伸ばした。
「今のは、違う」
「どう違いますか」
「これは、壊れかけとる手や」
*
「休め」
「休めません」
「なんでや」
「止めると、消えるので」
「消えたら、また作ればええやろが」
「七往復です」
「七往復くらい」
「五本あります」
田淵さんの口が、止まった。
「五本止めて、五本作り直すと、三十五往復です」
「三十五」
「ひと月半かかります」
「ひと月半」
「その間、誰にも届きません」
田淵さんは、俺の手を離した。
湯呑を置いて、長いあいだ黙っていた。
「新藤さん」
「はい」
「わしの線香、やめようか」
「やめません」
「月一や。減らしても、たいして変わらんやろ」
「変わります」
「どう変わるんや」
「一本減ると、四本になります」
「そうやろ」
「四本になると、」
俺は、そこで言葉に詰まった。
四本になると、何が変わるのか。
時間は余る。手も少し治るかもしれない。
ただ、田淵さんの線香が消える。
十四年間、誰も第九層に行かなかった。今は、月に一度、誰かが行く。
それが、なくなる。
「四本になると、九層に誰も行かなくなります」
田淵さんが、目を上げた。
*
その日から、俺は三時に起きるのをやめた。
二時四十分に起きるようにした。
二十分ぶん、余裕が増える。
*
*
六月十三日。
目が覚めた。
目覚ましは、鳴っていなかった。二つとも、鳴り終わったあとだった。
時計を見る。
三時十二分。
起きるはずの時刻から、三十二分。
俺は布団を蹴って立った。
顔を洗う時間を削った。積載表の確認を、歩きながらにした。台車のベルトを一本省いた。
走った。
四十歳の身体で、荷を積んだ台車を押して走るのは、初めてだった。
ガラガラガラガラ。
車輪が跳ねる。荷が鳴る。角を曲がるたび、荷が右へ寄っていく。
止まって直すべきだった。
直さなかった。
*
入口に着いた。
窓口で券を出す。真木さんが受け取って、時刻を記録した。
記録簿に書き込まれた数字を、俺は横から見た。
――五時十二分。
「新藤さん」
「はい」
「十二分です」
「はい」
真木さんは、それだけ言った。
止めもしなかったし、何も訊かなかった。
俺は頭を下げて、縦穴へ向かった。
十二分。
前後十五分以内なら、道は崩れない。そう思っていた。
三分、残っている。
大丈夫だ。
――そう思ったのは、地上にいるあいだだけだった。




