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【完結】白苑後宮の薬膳女官  作者: 絹乃
二章

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7、侍女、宋舞

 葉青の部屋の前で、瑞雪は騒ぐ声を聞いた。


「やめてください。ぼくのだいじな子なんです!」


 悲鳴のように文護が叫んでいる。


「おねがい、ソンウー。ティエンレイをかえして」


 今にも泣きそうな葉青の声が届く。けれど宋舞は「なりません」と冷たく返した。


「飛仙は地精、つまり霊力が強いということ。お嬢さまに召し上がっていただき、御身にその力を宿していただきます」

「ちが……、ティエンレイはそんなのじゃない」


 葉青は声を震わせた。

 天雷を食べさせる? 正気なの? 瑞雪は扉の陰で立ちすくんだ。


「違いません! お嬢さまはこれが地精であると、あの薬命司に憑いていると仰ったじゃありませんか。これは薬食くすりぐいなのです」


 恐る恐る部屋を覗き込んだ瑞雪の目に、宋舞に首を掴まれた天雷の姿が飛び込んできた。宋舞に反抗するでもなく、体を垂れさせている。

 わざと捕まったのだとすぐに気づいた。俊敏な天雷なら、足の悪い宋舞から逃れるのは容易なはず。


(炊事場にいるわたしに目が向かないように)


 瑞雪は唇を噛みしめた。


「この飛仙を捌いて焼いて、お嬢さまに召し上がっていただきます」


「ひっ」という短い悲鳴が、葉青の喉の奥で上がる。駆ける足音が聞こえた。軽い、文護が宋舞の手から天雷を奪おうとしているのだろう。文護の後を追う重い足音は護衛のものだ。


「冗談じゃないわ。天雷は食材じゃないのよ!」


 身を潜ませているのも忘れ、瑞雪は部屋に勢いよく飛び込んだ。


「ルイシュエさんっ」


 文護が目に涙を浮かべながら、振り返った。相手が皇帝だというのに、宋舞はその手が届かぬように腕を高く掲げている。宋舞は相当引っかかれたのだろう。手首には血が滲んでいた。

 首の毛皮を掴まれた天雷はぐったりとしている。


「天雷、聞こえるよね。目を開けて!」


 黒い衣を抱えたまま、瑞雪は宋舞に体当たりした。相手が初老でも、足が悪くても。それを考慮していては天雷が殺されてしまう。

 毛皮を剥がれ、捌かれ、茹でられてしまうのだ。絶対にさせない、そんなこと。


 ドンッという衝撃と共に、よろけた拍子に宋舞は天雷を放り投げた。すかさず護衛が宋舞を床に倒して確保する。


「おいで、天雷」


 瑞雪は文護を小脇に抱えて、右手を上げた。黒水晶の瞳が瑞雪を捉える。天井近くで身を翻して天雷は落ちてきた。瑞雪のてのひらへと。

 柔らかくてしなやかで、温かくて。しっかりとした重みを瑞雪は受け止めた。瑞雪の手首に爪を立てることもなく、身を任せてくれる。


「にゃ……にゃあ」


 猫の真似ではなく、もうその体に猫の鳴き方が染みついているのだろう。懐かしい天雷の声が聞こえた。


 勇ましくて可愛い天雷。もう離さない。

 ふかふかの被毛で覆われたその美しい体を、瑞雪は抱きしめた。


「く、くるしいです。ルイシュエさん」

「あっ」


 しまった。天雷だけじゃなく、文護ごと抱擁してしまっていた。


「その飛仙を返せぇ」


 床に倒れた宋舞が、それでもなお手を伸ばした。結った髪は乱れ、交領こうりょうの襟もはだけてしまっている。


「私を白苑後宮に……もう一度」


 足が思うように動かない宋舞は、腕を使って床を這う。


「お嬢さまには皇后になっていただかなければ。この宋舞を後宮に戻していただかなければ。宋舞はそのためだけに生きているのです!」


 宋舞の目は血走っている。まるで牙を剥くように歯を見せながら、にじり寄ってくる。

 なんという執念。そんなにも白苑後宮に未練があるのか。


 皇帝が代替わりをして、まだ妃嬪もおらぬというのに。女官や宦官、宮女たちを再び一から集めて教育しなくてもいいようにと後宮が残されているだけだというのに。

 天雷を抱きしめながら、瑞雪は背中で葉青を隠した。文護は部屋にいる護衛に任せた。


 瑞雪は息を整えた。そして床に伏したままの宋舞を見据える。


「宋舞さん、あなたですね。葉青さまに必要以上の生薬を与えたのは」


 炊事場に毒となるものはなかった。ただ大量に購入した当帰と川芎が目立っていただけだ。


「陛下がお見えになるから、もっと溌溂としたお嬢さまをお目にかけたかった。それの何が間違っているというのか」


 間違いだらけだ。瑞雪は天井を仰いでため息をこぼした。

 当帰も川芎も用法を間違えると毒になる。だからこそ薬命司の自分が管理しなければならないのに。


「あれは安全な薬だと私は聞いた。けれどお前みたいな薬命司は信用できない、できるはずがない。私にあんなことをしでかしておいて、今度はお嬢さまを利用しようとして……」


 宋舞は譫言のように繰り返す。

 話が繋がらない。瑞雪は怪訝に目を細めた。その時、再び宋舞と目が合った。


璠欣然ファンシンラン! 今更どの面下げて現れた。また私に毒を盛りに来おったのか」


 再び宋舞が叫んだ。宋舞は空中を搔きむしるように指をばらばらに動かし、眉間に深いしわを刻む。

 もしかすると——


 瑞雪の頭の中で朧気で《おぼろげ》であった線が結びついた。


「この私を誰と思っておる。華麗なる皇后、その侍女の宋舞なるぞ」


 仰々しい物言いに、部屋にいた誰もがしんと静まり返る。池を渡る風に吹かれた菖蒲の尖った葉がさわさわと鳴る音が聞こえた。


「こうごう? イェチンじゃなくて、おかあさまの、じじょ?」


 ぽつりとこぼした文護の声だけが、やけに大きく聞こえた。


「先代の薬命司は、侍女に毒を盛った罪を被せられました。宋舞さん、あなたがその侍女なんですね」


 宋舞は皇后の侍女として狙われた。皇后本人ではなく。

 なぜ侍女を狙った? なぜ薬命司を陥れた? ずっと引っかかっていた疑問だ。

 それが今、解けた。

 瑞雪は実家である璠が取り扱う川芎を握り締めた。


「毒? そう、毒だ。璠欣然、お前のせいで私の足が、足がぁ!」


 宋舞は自分の左足を叩いた。バシバシと憎しみを込めて。


「お前が体にいいと作った甜品てんぴんを、疑いもせずに食べた私が愚かであった。杏仁汁粉きょうにんじるこが咳に効く、藍苺らんめいが目の疲れに効く。尤もらしい御託を並べて私を騙しおって」


 宋舞がこんなにも錯乱したのを目にしたことがないのだろう。葉青は怯えて、瑞雪の背中にしがみついている。

 すぐに邸の警護人たちが飛んできた。そして宋舞を床に押さえつける。


「お前のせいで、私の足はこんなだっ」


 床に伏したまま、宋舞は瑞雪を睨みつける。警護人から逃れようと派手に動く右足と違い、左足の動きは鈍い。


「何をしている。おい、宋舞。これはどういうことだ」


 重い足音をさせながら、葉青の父親が離れに駆けつけた。文護をかばう護衛に、豹猫を抱えながら葉青を守る瑞雪。そして警護人に取り押さえられた侍女の宋舞。

 たとえ娘の侍女であろうが、元凶が宋舞であることは明らかだ。


 離れの惨状に、出入りを禁じた薬命司が入り込んでいることに父親は気が回らぬようだ。


「宋舞を連れていけ。こいつは酒に酔って暴れただけ、ここに陛下はいらっしゃらない。六扇門りくせんもんの捜査官がうちに入らぬよう、事を大きくするな」


 葉青の父親の言い分に、瑞雪は眉根を寄せた。

 確かに文護に被害はないけれど、葉青同様に幼い皇帝をも軽んじているのが伝わってくる。

 けれど文護は、瑞雪が考えているほど子供ではなかった。


「ナンのおじさま」と、文護が声をかける。皇帝直々に話しかけられて、葉青の父親は畏まり揖礼をする。


「あのじじょは、もうイェチンをせわできませんよね」

「無論です。すぐにも新しい侍女を見つけましょう」

「じゃあ、ぼくがここにいなかったことにしていいので。おねがいをきいてくれますか?」

「は?」


 交換条件を提示され、父親は弾かれたように顔を上げた。


「はい、何なりとお申し付けください。皇后候補の侍女に危険人物を雇っていたなど南家の恥でございます。陛下の広いお心に感謝いたします。金銀がよろしいでしょうか、それとも十数年も醸した美酒がよろしいでしょうか」

「ぼく、おさけはのめないなぁ。それにきんもぎんもいらないよ?」


 文護は苦笑すると、葉青の父親の前に歩み出た。だが、すぐにその表情が引き締まる。細いあごを上げて、黒い瞳は父親を見据えている。瞬きすらせずに。


「イェチンがげんきになるために、ルイシュエさんにおりょうりを作ってもらってもいいですよね」

「ですが……」

「ちんが命じた、ただ一人のやくめいしですよ?」


 文護は小さいのに、葉青の父親は圧倒されてしまっている。何かを言おうとして口を開いては、すぐに閉じてしまった。


「おとうさま、わるいのはソンウーよ。ね、ルイシュエさん」


 葉青に話を振られて、瑞雪は天雷を抱きしめたままうなずいた。もう宋舞がいないので、天雷が捕まることはないだろうけれど。それでも安心はできない。


「葉青さまのお加減が悪くなったのは、生薬を大量に摂取なさったからです。私が書き残しておいた分量をはるかに超える量が使用されていました」


 瑞雪は懐から当帰と川芎の塊を取り出した。


「これらはどちらも適切な量であれば、虚弱な体質を改善する薬となります。ですが長期にわたる服用や大量摂取をすれば、体に害を及ぼします」


 たとえば胃腸障害、嘔吐に下痢だ。それらは昨夜の葉青の症状と重なる。

 宋舞が葉青を一刻も早く健康にしたいという気持ちに嘘はなかっただろう。それ故、規定量を超えた生薬を与えてしまった。

 ただしそれは自己判断ではない。誰かの入れ知恵があってのこと。そう、薬命司である瑞雪を陥れるために。


 天雷をぎゅっと抱きしめながら、瑞雪は瞼を閉じた。


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