8、星宇の過去【1】
葉青の体調不良の原因が侍女の宋舞であると分かり、瑞雪は南家から追い出されることはなかった。
けれど不安は拭えない。離れにある客室で、瑞雪は卓についていた。
(宋舞さんは、天雷の……飛仙の肉を寄越せと言っていた。それほどに再び皇后の侍女になりたいという執念があったんだ)
黒檀の艶やかな卓上には、茶菓子として棒状に固めた山査子条が置いてある。そして琥珀色をした飴の粽子糖も。粽子糖は中に松の実が入り、薔薇の香りもする高級品だ。
「おちゃもおいしいね、ルイシュエさん」
「あの、陛下。やはりわたしは陛下と同席はできません」
恐れ多いことに瑞雪の向かいの席には、文護が座っている。人払いをしてあるので、護衛は部屋の外にいる。
「えー、なんで? いっしょにおかしをたべようよ。イェチンもねちゃったし、さびしいよ」
文護が手にした碗から、お茶が溢れる。瑞雪は慌てて立ち上がり、手を伸ばして布巾で文護の手を拭いた。
「火傷はなさっていませんか? 熱くありませんか?」
「うん、ちょっとだけだからへいき」
えへへ、と文護が照れ笑いをする。
「あのね、このおちゃはね『もうかい』っていうんだって。いみはね、けがにだよ?」
「毛蟹ですか? 変わっていますね」
「そう! おちゃなのに、かになんだって」
床に届かない足をぶらぶらとさせながら、文護は「かにのあじはしないよね?」と首をかしげながら碗に入ったお茶を飲んだ。
「茶葉の形や産毛が毛蟹のように見えるから、その名がついているのです」
カチャカチャと金属音を立てながら、部屋に入ってきたのは星宇だった。先ほどまで瑞雪が大事に抱えていた黒の衣をまとっている。
開いた紙窓から初夏の風が吹き込み、星宇の明るい色の髪をさらりと撫でる。
文護の背後に立つ星宇を、瑞雪はじーっと見つめた。
(やっぱりあの可愛い天雷が、こんな不愛想な星宇さんだと思えないんだけど)
天雷なら抱きしめて頰ずりをしたいが、星宇に頰ずりをしたいとは思えない。
「……分かるぞ、瑞雪。何か失礼なことを考えているだろう」
「うっ」
星宇の指摘が図星だったので、瑞雪までお茶をこぼしそうになる。
何から聞いたらいいのか分からない。混乱する頭を指で叩きつつ、瑞雪は考えをまとめた。
「あの、天雷はどうして人で居続けているの?」
いくら飛仙が地精であるといっても、うまく隠れることができたなら常に人として暮らす必要もない。などと、猫であることを命じた自分が言えた義理ではないけれど。
「厳星宇だ。これは南方で璠欣然殿がつけてくれた名だ」
「教えてあげてよ、シンユィ」と、文護が山査子条をつまみながら促した。息をついた星宇は主の命令に従った。
「いい思い出ではないのだが」
星宇は自分の過去——天雷の生い立ちを話し始めた。
◇◇◇
岷国の北の端、急峻な山を越えればそこは隣国という果てに天雷は生まれた。
その山の地面は水晶や翡翠が敷き詰められていた。名はなかった、誰からも呼ばれることがなかったからだ。
なのに不思議なもので、自分が飛仙とものであることは知っていた。
「私は普通の飛仙ではなかったのだろう。両親も数少ない仲間も黄金色の被毛を持っていたが、私は似ても似つかない白銀だ」
ある日、地面がキシキシと鳴った。狩人が山に入ったのだ。
『いたぞ、飛仙だ!』
『弓で射るな、皮膚が薄いんだ。傷がつくと毛皮の加工ができなくなる』
男たちは地面に棒を何本も立てて、その間を網で囲った。木の枝を激しく揺さぶり、驚いた飛仙が枝から飛んだらおしまいだ。
次々と父や母が、仲間が網へと突っ込んでいく。
——うそだ、こんなの。
絶叫してもがいても、誰も網から逃れられない。男たちの足元で澄んだ水晶や潤んだ翡翠が悲鳴のように音を立てている。
籠に押し込められる母の黒い瞳は、確かに枝に残った自分を見つめていた。父も、仲間たちも全員が見つめていた。
——お前だけでも生きておくれ。
——どうか逃げ切ってくれ。
自分が賊の男たちに飛びかかったところで、勝てるはずもない。獲物が一匹増えて、奴らが儲かるだけ。
その惨めさが、己の力のなさが苦しくて。ただ男たちが嬉しそうにはしゃぎながら山を下りるのを天雷は見送るしかなかった。
こんなにも非力で惨めで。飛仙は貴重だともてはやしているくせに、皮は剥がされ殺されて。
はっきりとした自我を得る前に、天雷はこの世の矛盾を知った。
ほんの一刻前までは美しい山であったのに、今は残酷な網や棒が散乱して。もうここには住めないのだと悟った。
もし普通のモモンガであったなら、何も悩まずに獲物を捕らえて過ごすだけで済んだのに。地精である飛仙、そのせいで普通の動物が持たぬ思考や感情に苦しんでしまう。
「自分が生き残ることが、両親や仲間にとっての希望なのだと——そう考えて山を下りたのだ」
枝から枝へと飛び移りながら。もうこの山に戻ることはない、と振り返ることはしなかった。
天雷は、はるばる京師である伊河へとやって来た。理由は分からない、ただ辿り着かねばならぬ場所があったように思えたからだ。
伊河の城市の外れまで来た時は、辺りの景色も見えぬほどに氷交じりの雨が降りしきっていた。
寒さには慣れているはずなのに。初冬の凍える風雨にさらされれば、自慢の暖かな被毛も役に立たない。
ずぶ濡れになりながら、天雷は雨宿りできる場所を探した。
門を越えて、ようやく軒先で氷雨を防ぐことはできても、地面から跳ね返る水しぶきを避けることはできない。
——さむいよ、つめたいよ。だれかたすけて。
どんなに呼んでも両親も仲間ももういない。すでに彼らの命すら奪われているかもしれないと分かっていても、訴え続けることしかできなかった。
だから小さな天雷は、必死で鳴き続けた。もし感情を涙で表すことができていたのなら、泣いていただろう。
『たいへん、たいへん。ちっちゃい子がいるよ!』
天雷の声が届いたのだろう。その家から幼い女の子が飛び出してきた。瑞雪だ。手には何本もの手巾を掴み、凍える天雷を包んでくれた。飛仙など見たこともなかろうに。
遅れて表に出てきた欣然に『この子、さむいってふるえているよ』と瑞雪は説明した。
雨と泥で薄汚れた天雷を撫でてくれる人などいなかった。抱きしめてくれる人は初めてだった。
『よしよし、いい子ね。おばさまが、やぎのちちをもってきてくれるって。それをのもうね』
いい子なのかな、ぼくは。
天雷はそう思ったけれど人語を発することができないので、瑞雪に尋ねることはなかった。
器に入れられた、それも山羊の乳を飲むのなんて初めてだった。水を飲むように舌を出すと、ぴちゃっと音がした。搾ったばかりで仄かに温かくて、微かに甘くて。天雷は夢中で飲んだ。
ただ乳を飲んだだけなのに、瑞雪も欣然も『すごい、すごい』『えらいねぇ』と喜んでくれたのだ。嬉しくて、天雷は尻尾をぴんと立てた。
璠家での暮らしは、天雷にとっては夢のようだった。
道の端に生えている猫じゃらしで遊んでくれる瑞雪がいる場所こそが、天堂だ。
屋根に上っては満月を眺め、薬草畑で虹のような尾を持つトカゲを見つけては瑞雪と天雷は一緒に追いかけた。
ドクダミを摘んだ瑞雪の手の匂いが苦手で、逃げ回ったこともある。
『おりてきてー。もうにおわないよ』
高い枝にいる天雷に向けて、瑞雪が両腕を広げる。
『ほら、ティエンレイ。おいで』
おずおずと姿を現した天雷は、モモンガと同じ皮膜を広げて枝から飛ぶ。着地するのは決まって瑞雪の頭の上だ。
『うわっ、なんでいつも頭なの?』
よろけながらも瑞雪は天雷が落ちないように支えてくれた。
——ルイシュエ、ルイシュエ。
瑞雪の頭から肩に降りた天雷は、親代わりの瑞雪の頰に顔をすり寄せた。
暑さに弱い天雷は、猛暑の夜には床で瑞雪と共に寝て。寒さも好きなわけではないので、冬は瑞雪と共に火鉢にあたり毛布にくるまった。
『ティエンレイ、だぁいすき』
鈴を転がすような声で、瑞雪がくれた名前を呼ばれるのが天雷は好きだった。
瑞雪にはいつも笑っていてほしかった。このままずっと日常が続くものだと思っていた。
けれど、平穏は突然破られた。




