5、侵入
「星宇さん。あなたは陛下を護らなくていいの?」
門の外に残されたのは、星宇と瑞雪、そして三人の轎夫だ。
「大丈夫ですよ、薬命司さん。陛下と中に入られたのは侍衛親軍の護衛ですから」
「陛下は外出時には護衛を二人伴っているんです。大げさにならぬよう、一人は輿を担ぐのですが」
輿の周囲に立つ男性たちが説明する。
そうか、相手を警戒していると悟られぬよう、一見すると護衛に見えぬようふるまっているのか。瑞雪は納得した。
「璠瑞雪。我らも行くぞ」
星宇が瑞雪の本名を呼ぶ。その横顔は触れると指が切れそうに鋭い空気を纏っていた。
「行くっていっても。門を開けてもらえないわ」
「こちらからなら入れる」
星宇が指さす先には、ただ高い塀が続いている。もしかすると裏門を使うのだろうか。裏門番はおらずともきっと閂が掛かっている、外から開けるのは難しいだろうに。
長い塀沿いに進む星宇の後を、瑞雪は追う。
塀の向こうからざわざわと葉擦れの音が聞こえた。足元で土煙が舞う、風が強い。
ようやく角を曲がったところで、星宇は立ち止まった。そこに門扉などないのに、彼の身長よりも高い塀を見上げている。
「口を開くなよ。舌を噛むからな」
「え?」
少し腰を屈めると、星宇の腕が瑞雪の腰にまわった。そして膝を屈める。
「しっかりつかまっていろ」
たくましい左腕だけで抱えられた瑞雪は、突然足が道から離れた。体が浮いている、地面が遠い。
ふわりと宙に浮いた星宇は、塀の上部の瓦屋根に降り立った。重さを感じさせぬ動きだ、瓦は音もしない。腰に佩びた蟒の翡翠の房が、風を受けて揺れている。
どういうこと? なんでこんな跳躍力が?
こんな……こんな跳び方を人はしない。風を味方にし、身の丈よりも高い塀に跳ぶなんて、まるで——
瑞雪の目には南邸の庭と離れが映った。渡り廊下は見えないし、池も木に隠れている。
「ここからならクソ親父にばれずに、離れに忍び込める」
「待って、ちょっと訳が分からなくて」
「しゃべるな、もう一度跳ぶぞ」
星宇にまるで荷物のように抱えられたまま、瑞雪は塀の屋根から離れた。髪が風にあおられ、悲鳴を上げようにも声がかすれて出てこない。
草の生えた地面が近づいてくる。星宇は庭に降り立った。彼の脇に抱えられた瑞雪には衝撃も何も伝わってこない。ただ踏みつけられた夏草の青臭さを感じた。
池で飼っている観賞用の魚が跳ねた。
「歩けるか? 離れへ向かうぞ」
「は、はい」
さすが護衛というべきか。星宇の行動は速い。
木の茂みに翳った離れの裏手には、ドクダミが白い花を群れ咲かせていた。一歩進むたびに生臭いドクダミの匂いがして、星宇は手で鼻を押さえている。「この匂いはいかん」と呟きながら。
離れにはすでに文護と葉青の父親が到着していた。池に面した正面の隔扇門窗が開かれているので、声だけは聞こえる。
木立に隠れている瑞雪からは中を伺うことはできないが、どうやら寝台に伏した葉青が、文護に謝っているようだ。
「陛下のご紹介でしたから、あの薬命司を信用したというのに。粗野で、お嬢さまをすぐにお庭に連れ出すから困っていたのですよ」
「ソンウー、やめて。ルイシュエさんは何もわるくないわ」
文護に訴える侍女の宋舞を、葉青が止めている。風に乗って聞こえてくる葉青の声に力はない。
「いいえ、お嬢さま。薬命司をかばう必要はございません。昨夜はあんなにも具合が悪くていらっしゃったじゃないですか。あの女がお嬢さまを陥れようとしたのです」
まくし立てる宋舞の金切り声が響いている。瑞雪は両手で耳をふさぎたくなった。
自分を信頼してくれた葉青を苦しい目に遭わせるなんて。
「星宇さん。わたしは戻ります。葉青さまには後で謝罪の手紙を書きますから。皆さんに許してもらえるかは分かりませんが」
小さな声で言うと、瑞雪は裏門に向かって歩き始めた。そこから外に出られるはずだ。
葉青が瑞雪をかばう声も聞こえてくる。父親が「陛下もあの薬命司にいいように騙され利用されたのでしょう」と、さも文護を思いやるような言い方も。
(ごめんなさい、叔母さま。ダメでした、わたしではダメなんです)
薬命司と叔母の名誉を回復するという目的の優先順位が低くなってしまったからだろうか。まるで普通の女官のように、人と関わり誰かの役に立てるという喜びが勘を鈍らせてしまったのだろうか。
葉青と奥の宮で暮らす紅梅。二人の信頼を得て、調子に乗ってしまっていたのかもしれない。
(尚食の一桐さまに、心配をかけてしまう)
瑞雪は歩みを止めた。後ろをついてくる星宇が、瑞雪の肩に手をかけたからだ。
「このまま尻尾を巻いて逃げるのか? 璠欣然との約束を果たさぬままでよいのか」
——お願い、瑞雪。どうか薬命司の名誉を取り戻して。
星宇の言葉に、欣然の切なる訴えが重なった。
「……どうしてあなたが叔母さまのことを知っているの?」
瑞雪は尋ねた。
星宇と出会ったのは、つい最近のことだ。国外追放になる日の叔母との約束を知っているのは、叔母の友人である斉一桐だけ。
星宇は小さく息をつくと、自身の懐に手を入れた。中から小さな紙片を取り出して、それを瑞雪に渡す。
小さな穴が空いた紙は汚れ、端がぼろぼろだ。
「これって、天雷が体に隠していたのと同じ紙?」
瑞雪は恐る恐る紙片を開いた。中には小さな文字がびっしりと並んでいる。毛筆で書かれたものではない、おそらくは細い竹の端を削って筆の代わりにしたものだろう。
——便りをありがとう、瑞雪。幼いあなたに重責を背負わせてしまい、今は心苦しく思っています。いつか必ず私は戻ります。その時は互いに笑顔で会いましょう。天雷が無事であなたの元へ戻ることを願っています。
叔母だ。間違いなく、叔母の字だ。叔母の言葉だ。
紙を持つ瑞雪の指が震える。
「欣然殿は南国で暮らしていると知っているな?」
瑞雪はこくりとうなずいた。
「寒さに凍えることも飢えることもないのだが。かの地は湿地や水場が多く、蚊が発生しやすい。蚊は死に至る病を運ぶ」
南方に生息する蚊の危険性は周知している。
けれど、まるで見てきたように星宇は語った。それを不思議に思わないではなかったが、瑞雪は叔母の様子が目に浮かぶようだった。
家は簡素で、屋根は乾燥させた棕櫚の葉で葺いているかもしれない。
「叔母さまは、蚊から身を守ることはできているの? 対策はとってらっしゃるの?」
こくりと星宇はうなずいた。
「欣然殿は、水が停滞した場所にボウフラが湧くので、常に水を流すように心がけておられた」
確かにそうだ。北方に位置する伊河の城市ですら、ほんの少し水がたまった場所でも、ボウフラがうじゃうじゃと集まる。南方ならばなおさらのこと。
『ボウフラを放置すれば蚊が大発生するのよ。蚊が運ぶ病気は多いの。だから水を捨てたり流したりすることで病気が防げる。これも已病になる前の対策ね』
子供だった瑞雪は、叔母と一緒に桶に入れたきれいな水で澱みを流した。
「叔母さまなら、メダカを飼ってるかもしれませんね」と、瑞雪は呟いた。
メダカはボウフラを餌にする。しかもメダカは小さな幸せを運ぶ象徴でもあるのだから。
「詳しいな。確かにメダカが泳いでいたな。さらに蚊の嫌う植物と、海星を砕いたものを撒いておられた」
あれはとにかく臭かった、と星宇は眉をしかめて首を振った。
海星——そうだ、海辺で漁師たちが網にかかった魚の残骸を置いておくと、すぐに虫や獣が寄ってくるのに、網に海星も入っていると虫や獣が寄ってこないと聞いたことがある。
何の成分が効いているのか知らないが、叔母はその知識を活用しているのだ。
「あとは天井から漁網のようなものを吊るし、その中で眠っておいでだった。現地の住民も欣然殿を頼って蚊よけの術を教えてもらっていた」
不思議だ。葉青にも会わせてもらえず惨めに身を隠しているのに。星宇の話が諦めるなと背を押してくれる。
きっと星宇は実際に南国を見たのだろう、叔母に会ったのだろう。叔母ならば、蚊を避けるために何重にも予防を重ねるはずだから。
場所は変われど、職業も家族も失おうと、欣然は薬草と予防の知識で新しい生活になじんでいる。
ふっと瑞雪は笑みをこぼした。
(さすがだわ。さすがはわたしの叔母さまよ)
死を運ぶ虫と叔母は戦っている。ならば自分が挫けるわけにはいかない。毒を以て人を陥れる、姿を見せぬ敵と戦うしかない。
「星宇さん……いいえ、天雷。あなたがわたしの手紙を届けてくれたのね。叔母さまの元へ行くために、姿を消したのね」
長く危険な旅路の果てに、天雷は戻ってきてくれたのだ。
——飛仙は吉兆の象徴であり、尊崇される。
葉青が見せてくれた『岷国図経』に書かれていた文章を思い出す。
飛仙は邪を払い豊かさをもたらす。地仙や地精のような存在であるのなら、人の姿を取ることもできるのかもしれない。
「天雷、ありがとう。わたしの手紙を叔母さまに届けてくれて」
瑞雪は星宇にそう告げた。




