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僕らの夏には虹があった  作者: 海月繭


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第8章 3人で見た虹

第8章 3人で見た虹


 1975年に来て、3日目の朝だった。


 庭のラジオから、ラジオ体操の音楽が流れている。


 晴彦とエナが並んで腕を伸ばす横で、航は戸惑ったように2人の動きを見ていた。


「航もやってみる?」


「これは、何の訓練ですか?」


「訓練じゃなくて、体操」


「国民全員が、毎朝行うのですか?」


「全員ではないけど、夏休みの子どもはだいたいやるかな」


 晴彦に教えられ、航も両腕を上げた。


 姿勢がよすぎて、1人だけ点呼を受けているように見える。


「もう少し力を抜いて大丈夫だよ」


「力を抜く、というのが難しくて」


「ラジオ体操で、そんな深い悩みが出るとは思わなかった」


 エナが笑う。


 腕を回すと、エナの肩から、ぽきっ、と音がした。


 航が動きを止める。


「今、何か折れませんでしたか?」


「私の肩です。折れてはいません。肩こりです。」


「17歳なのに?」


「2025年の高校生は、いろいろ疲れているんです」


「未来は大変なんですね」


「そこだけ聞くと、夢がなくなるな」


 晴彦の言葉に、3人は顔を見合わせて笑った。



 体操を終えて家へ戻ると、朝食が用意されていた。


 炊きたての白いご飯。


 豆腐と茄子の味噌汁。


 焼き魚ときゅうりの浅漬け。


 今朝、畑で採れたばかりのトマトも、切らずに丸ごと並んでいる。


「たくさん食べてね」


 幸子が卵の入った小鉢を、航の前へ置いた。


 航は、不思議そうに卵を見つめた。


「これは、どうするのですか?」


「ご飯にかけるんだよ」


 晴彦が卵を割り、醤油を垂らして混ぜてみせる。


「生の卵を、そのまま?」


「おいしいよ」


「お腹を壊しませんか?」


「朝から不安になること言わないでよ」


 晴彦が先に卵かけご飯を食べる。


「ほら。大丈夫」


「まだ結果は出ていないのでは?」


「慎重だな」


 航も晴彦をまねて、卵をご飯へかけた。


 箸で混ぜ、恐る恐る口へ運ぶ。


 その目が、大きく見開かれた。


「うまい…」


「でしょう?」


「卵が、ご飯を包んでいます」


「感想が真面目だな」


 航はもう1口食べ、今度は声を出して笑った。


「本当に、うまいです」


「おかわりもあるからね」


 幸子が言うと、航は迷うことなく茶碗を差し出した。


 エナは、その姿を見ながらトマトをかじった。


 甘酸っぱい果汁が、口いっぱいに広がる。


 昨日まで、航は教科書の中にしかいない存在だった。


 けれど今は、卵かけご飯に驚き、おかわりをする19歳の青年として、同じちゃぶ台を囲んでいる。


「朝ご飯をこんなに食べたのは、久しぶりです」


 航が言った。


「食べられるときに、しっかり食べておきなさい」


 幸子は航の茶碗に、ご飯をよそった。


「お腹がいっぱいになれば、昨日より少し元気になれるからね」


 航は、湯気の向こうにいる幸子を見つめた。


「ありがとうございます」


 今度の声は、少し震えていた。


 誰も、その理由を尋ねなかった。


 晴彦が味噌汁をすすり、エナが浅漬けへ箸を伸ばす。


 いつもと変わらない朝食のように、3人は食べ続けた。



 食事を終えると、航が縁側から遠くを見つめた。


「海を見てみたいです」


「海?」


「はい。ここから、近いのでしょうか」


「歩いて行けるよ」


 晴彦が答えた。


「公民館へ行く前に、寄ってみようか」


 公民館は、エナが1975年へたどり着いた場所だった。


 帰る方法があるとすれば、あの場所だろう。


 晴彦はフィルムカメラを肩にかけた。


「写真も撮ろう」


「現像するまで見られない写真」


 エナが言うと、晴彦は笑った。


「それが普通なんだよ」


「未来に慣れると、待つのが苦手になるの」


「写真くらい、ゆっくり待てばいい」


「私も、そう思えるようになってきた」



 坂道を下りきると、目の前に海が広がった。


 青い空と、青い海。


 水平線の境目がわからないほど、同じ色が遠くまで続いている。


「わあ…」


 エナは思わず声を漏らした。


 風が髪を揺らし、潮の匂いが胸いっぱいに広がる。


 航は何も言わず、波打ち際まで歩いていった。


 白い波が足元へ寄せ、靴を濡らす。


 それでも、航は動かなかった。


「航?」


 晴彦が声をかける。


「同じ海なのに、音が違います」


「音?」


「僕が見ていた海には、戦闘機の音や、命令する声がありました」


「ずっと緊張してました」


 航は水平線を見つめた。


「こんなふうに、穏やかな気持ちで波の音だけを聞いたことはありませんでした」


 遠くで、子どもたちが笑っている。


 砂浜を走り、波から逃げていた。


 航は、その姿をまぶしそうに見つめた。


「海は、こんなに静かだったんですね」


「海は、何も変わっていないのかもしれない」


 晴彦が言った。


「変わったのは、海を見ている人間のほうで」


 航は、静かにうなずいた。



 エナは波打ち際にしゃがみ、小さな貝殻を拾った。


 薄い桃色の縁がついている。


「これ、幸子さんに持って帰ろうかな」


「喜ぶと思うよ」


 晴彦が答えた。


「ばあちゃん、きれいなものは何でも取っておくから」


「晴彦の小さい頃の石も、まだ持ってるかな」


「持ってるかも」


「石をあげたんですか?」


「幼稚園の頃、道で拾った石を宝石だと思って渡したらしい」


「素敵じゃないですか」


「きれいな石だったんだ」


「その思い出は、じゅうぶん宝石だよ」


 エナが言うと、晴彦は少し照れたように海へ目を向けた。



 そのとき、頬に冷たいものが触れた。


「雨?」


 青空の下で、細かな雨が降り始めていた。


 太陽は出ている。


 3人は雨宿りもせず、空を見上げた。


 雨は、ほんの数分で弱くなった。


 そして、海と空の境目に、淡い色が浮かび上がった。


「虹だ」


 晴彦が指さす。


 赤、橙、黄色、緑、青。


 大きな虹が、海の上に弧を描いていた。


 航は、息をすることも忘れたように見つめている。


「虹、見えた?」


 エナが尋ねた。


 航はゆっくりとうなずいた。


「はい。見えました」


 その笑顔は、初めて会った夜よりも、ずっと幼く見えた。


「3人で写真を撮ろう」


 晴彦がカメラを岩の上へ置き、セルフタイマーを設定する。


「急いで。もう動いてる」


「先に言ってよ」


 晴彦が2人のもとへ駆けてくる。


 航を真ん中にして、3人が肩を並べた。


「笑って!」


 エナが言う。


「どうすれば自然に笑えるんですか?」


「今それを聞く?」


 航が困った顔をした瞬間、シャッターが切れた。


 カシャッ。


「今の、絶対に航が困ってる顔だよ」


「すみません」


「それも思い出だよ」


 晴彦が笑った。


 エナは、海にかかる虹を見つめた。


 うまく笑えなかった顔も、濡れた髪も、慌てて並んだ瞬間も、そのまま残る。


 いつの日かまた、きっと虹だけではなく、今の笑い声まで思い出す気がした。



 午後、3人は公民館へ向かった。


 引き戸を開けると、畳とい草の匂いがした。


 エナが初めてこの時代に来たときと、何も変わっていない。


 机の上には黒電話があり、壁には8月のカレンダーがかかっていた。


 3人は畳の上に座った。


 外では蝉が鳴いている。


 航は天井の木の梁を見つめながら、静かに口を開いた。


「僕は、元の時代へ戻るのでしょうか」


 誰も、すぐには答えられなかった。


「戻りたい?」


 エナが尋ねる。


 航は、長いあいだ考えた。


「わかりません」


 それから、膝の上で手を握った。


「戻るのが、怖いです」


 初めて、はっきりと口にした。


「出撃を命じられています。戻れば、飛ばなければならないかもしれません」


 航の指先が震えていた。


「本当は、死にたくありません」


 晴彦が、航の隣へ座り直した。


「死にたくないのは、当たり前だよ」


「でも、僕の時代では、そんなことは言えません」


「今は言っていい」


 晴彦は航をまっすぐ見た。


「ここには、命令する人はいないから」


 航は、うつむいたまま唇をかんだ。


 エナも、その隣へ座った。


「2025年の日本では、戦争はしていないよ」


「本当ですか?」


「うん、本当だよ。…でも、世界から戦争はなくなっていない」


 航の表情が曇った。


「それでも、戦争を止めたいと思っている人は、たくさんいる。航たちの時代に起きたことを、忘れないように伝え続けている人もいる」


「僕たちのことも、残っていますか?」


「残ってるよ」


 エナはうなずいた。


「教科書には、戦争で何が起きたのかは書かれてる。でも、そこにいた1人ひとりが、何を怖がって、何を食べて、どんなふうに笑ったのかまでは、なかなか伝わらない」

 昨夜、塩むすびを食べて涙を流した航。

 卵かけご飯に驚いた航。

 虹の前で、どう笑えばいいのかわからずに困っていた航。

「私は、今ここにいる航を残したい」

「今の僕を?」

「『戦争の中にいた人』という一言じゃなくて、生きたいと願っていた、19歳の航を」


 航は、目を伏せた。


 涙が畳へ落ちた。


「ありがとうございます」


 外の蝉の声が、急に遠くなった。



 そのとき、晴彦のポケットの中で、ポケットベルが震えた。


 3人が同時に顔を上げる。


「誰も呼び出していないのに…」


 晴彦が端末を取り出した。


 次の瞬間、エナのバッグの中でスマホが光った。


 圏外だったはずの画面に、あの女性型アンドロイドが映っている。


『ご乗車の時間です』


「また、この人…」


 エナが画面を見つめる。


『お連れの方も、ご一緒にどうぞ』


 晴彦が身を乗り出した。


「これがアンドロイド?」


「そうです」


「本当に人間みたいだ」


 アンドロイドは、画面の中で晴彦を見た。


 それから、わずかに口元を緩めた。


「今、僕を見たよね?」


「晴彦、話はあと」


 航がスマホをのぞき込んだ。


「この先に、戦争の終わった時代があるのですか?」


「あります」


「行ってみたいです」


 航は、迷いのない声で言った。


「戦争のない空を、見てみたい」


 晴彦もポケットベルを握った。


「僕も、未来を見てみたい」


「アンドロイドを見たいだけでしょう?」


「それな」


 エナは思わず笑った。


その瞬間。


 畳の下から、風が吹き上がった。


 窓は閉まっているのに、カレンダーの紙が揺れている。


 スマホの画面から、白い光があふれ始めた。


「手をつないで」


 エナが右手を航へ、左手を晴彦へ差し出した。


 航と晴彦が、その手を握る。


 3つの時代を生きる3人が、畳の上で輪になった。


「行きますよ」


「うん」


「はい」


 光が、3人を包み込んだ。


 目を閉じたエナのまぶたの裏には、海にかかっていた虹が残っていた。


 3人で見た、あの虹が。


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