第7章 線香花火の青年
第7章 線香花火の青年
「虹、見えた?」
晴彦が指さした先で、小さな虹が消えていく。
エナは、晴彦の顔を見つめた。
「今の言葉、どこかで聞いたことがありますか?」
「虹、見えた?って?」
「はい」
「いや。虹が出ていたから、聞いただけだけど」
「そうですよね…」
未来の乗り物のモニターに表示された言葉。
『1975年8月15日』
『虹、見えた?』
晴彦が偶然、同じ言葉を口にしただけなのだろうか。
エナが川のほうへ目を向けると、対岸に1人の青年が立っていた。
白い開襟シャツに、黒いズボン。
背筋をまっすぐに伸ばし、こちらを見ている。
「あの人…」
「知り合い?」
「いいえ」
晴彦も青年を見た。
風が吹き、川沿いの柳が大きく揺れた。
葉の隙間から、夏の光がこぼれる。
次の瞬間、青年の姿は消えていた。
「いない…」
「木の陰に入ったんじゃない?」
晴彦はそう言ったが、声には自信がなかった。
対岸には、誰もいない。
ただ、川面に太陽の光が揺れていた。
2人が家へ戻ると、縁側にそうめんが用意されていた。
ガラスの器の中で、白い麺と氷が涼しげに浮かんでいる。
「おかえり。ちょうど茹で上がったところよ」
3人で縁側に座り、そうめんをすする。
幸子のつゆは、出汁のいい香りがして、心のこもった味がした。
「おいしい…手作りのつゆって初めて食べました」
「たくさん食べてね。夕方からはお祭りだから」
祭りという言葉を聞いた途端、エナの胸が弾んだ。
昼食のあと、エナは縁側で少しだけ眠った。
目を覚ますと、幸子が淡い水色の浴衣を広げていた。
白い朝顔の花が、布の上に咲いている。
「この浴衣、私が若い頃に着ていたものなの」
「幸子さんの?」
「おじいさんと初めてお祭りへ行ったときにも着たのよ」
幸子は懐かしそうに浴衣を撫でた。
「おじいさん、何か言いましたか?」
「私を見るなり、黙り込んじゃってね。しばらくして、やっと『きれいだ』って」
「素敵ですね」
幸子はすこし恥ずかしそうに笑いながら、エナに浴衣を着せた。
腰に帯を巻き、背中で形を整える。
髪も高い位置でまとめ、朝顔の髪飾りを挿してくれた。
「はい、できた」
鏡の中には、いつもと少し違う自分がいた。
淡い水色の浴衣が、夕暮れ前の空の色に見えた。
「すごい。別人みたいです」
「とってもきれいよ」
玄関から足音が聞こえた。
振り返ると、紺色の浴衣を着た晴彦が立っていた。
エナを見るなり、動きを止める。
「どうしました?」
「いや…」
晴彦は何かを言おうとして、口を閉じた。
エナは思わず笑った。
「幸子さんのおじいさんと同じになっていますよ」
「何が?」
「黙り込んで、しばらく何も言えなくなるところ」
晴彦は照れたように頭をかいた。
「きれいだよ」
その言葉は、小さかった。
けれど、エナにははっきり聞こえた。
「ありがとう」
エナも小さな声で答えた。
幸子が2人を交互に見て、満足そうにうなずいた。
「おじいさんよりは、早く言えたわね」
出かける前に、3人で記念写真を撮ることになった。
晴彦がフィルムカメラのセルフタイマーを設定し、急いでエナと幸子の隣へ戻る。
カシャッ。
乾いたシャッター音が、夕暮れの庭に響いた。
「今、撮れたんですか?」
「たぶん」
「確認できないんですね」
「現像するまでのお楽しみ」
エナは、ついスマホを取り出しそうになった手を止めた。
すぐに確認できない写真。
どんな顔で写っているのかわからない時間まで含めて、1枚の思い出になるのかもしれない。
「写真ができたら、見せてください」
「もちろん」
晴彦は、当たり前のように答えた。
それまで自分がこの時代にいられるのか、エナにはわからなかった。
けれど今は、その約束を信じることにした。
神社へ続く道には、提灯が並んでいた。
屋台から漂う焼きそばのソース、焼きとうもろこしの醤油、綿あめの甘い匂い。
太鼓の音と、子どもたちの笑い声が重なっている。
「すごい…」
エナは目を輝かせた。
「まず、何を食べる?」
「じゃがバターと、チョコバナナと、ベビーカステラ」
「全部?」
「1つに選べとは言われていません」
「昨日からずっと食べてるよね」
「1975年を味覚でも記録しているんです」
「便利な言い方だな」
2人は笑いながら、じゃがバターを買った。
屋台の主人が、じゃがいもの上へバターを載せる。
熱々のじゃがいもを2人で分けて食べた。
エナが次の屋台を見つけ、晴彦の袖を引く。
「あっ、チョコバナナも食べたい」
晴彦が、少しうれしそうに笑った。
「敬語、なくなったね」
「え?」
「今、『食べたい』って言った」
エナは少し照れながら、チョコバナナの屋台へ目を戻した。
「…これから、少しずつ」
「うん。そのほうがいい」
提灯の灯りに照らされ、2人の歩幅が自然とそろっていった。
盆踊りの輪では、浴衣姿の人たちが太鼓に合わせて踊っていた。
「入ってみる?」
晴彦が尋ねる。
「踊り方、わからない」
「僕も、毎年見よう見まねだよ」
2人は輪の後ろへ加わった。
エナは前の人をまねて手を上げたが、1人だけ逆の方向へ進んでしまう。
「エナ、そっちじゃない」
「えっ、どっち?」
「今、1人だけ別の祭りを始めてたよ」
「教えてよ」
晴彦が笑いながら、エナの手の向きを直す。
「右を上げて、次に左」
「右って、こっち?」
「それは左」
「踊りになると、左右が逃げるの」
「左右は逃げないよ」
何度か繰り返すうちに、少しずつ動きが合ってきた。
太鼓の音。
下駄の音。
浴衣の袖が触れ合う音。
知らない人同士が、同じ輪の中で笑っている。
エナは、祭りを外から眺めるのではなく、自分もその中にいることがうれしかった。
盆踊りが終わる頃、夜空に大きな花火が開いた。
ドン、という音が、胸の奥まで響く。
エナと晴彦は人混みを離れ、川沿いの土手へ向かった。
少し離れた場所に腰を下ろし、並んで空を見上げる。
赤い花火。
青い花火。
金色の火花が、星のように降り注ぐ。
「夢みたい」
エナがつぶやいた。
「エナといると、時間がゆっくり進む気がする」
「それ、褒めてる?」
「かなり褒めてる」
「私の時代は、何でも速いから」
「未来なら、花火も速く上がるの?」
「花火は同じ。でも、撮影したり、投稿したり、見ている最中も忙しいの」
「もったいないね」
「うん。今は、見るだけにする」
エナはスマホを取り出さず、空を見つめた。
記録に残らなくても、この光景は忘れない気がした。
大きな花火が開いた瞬間、エナの手と晴彦の手が触れた。
どちらも手を引かなかった。
指先が、ほんの少し重なったまま、2人は空を見上げていた。
花火が終わると、人々は少しずつ家路についた。
「もう少し、ここにいない?」
エナが言った。
「僕も、そう思ってた」
晴彦が屋台で買った線香花火を取り出した。
川辺にしゃがみ、1本ずつ火をつける。
小さな火の玉から、細い光が静かにこぼれ落ちる。
「線香花火って、切ないね」
「終わるのがわかっているからかな」
「それでも、最後まで見ていたくなる」
火花が小さくなり、ぽとりと落ちた。
そのとき、背後から足音が聞こえた。
振り返ると、白い開襟シャツを着た青年が立っていた。
昼間、川の向こうにいた青年だった。
「こんばんは」
青年は、丁寧に頭を下げた。
「こんばんは」
エナと晴彦も頭を下げる。
青年は、燃え残った線香花火を見つめた。
「きれいですね」
「一緒にやりますか?」
エナが線香花火を差し出すと、青年は戸惑いながら受け取った。
「ありがとうございます」
晴彦がマッチで火をつける。
青年は、手の中で咲く小さな火花を、食い入るように見つめていた。
「祭りへ来ていたんですか?」
晴彦が尋ねた。
「祭りというものを見るのは、久しぶりです」
「この町の人?」
「昔、この近くに住んでいました」
青年は少し考えてから、エナたちを見た。
「今は、昭和50年なのですね」
晴彦の表情が変わった。
「どうして、それを?」
「神社の掲示に書いてありました」
「今が何年か、わからないんですか?」
青年は、線香花火へ目を落とした。
「僕がいたのは、昭和20年の夏です」
風が止まったように感じた。
昭和20年。
1945年。
日本の戦争が終わる年だ。
「名前を聞いてもいいですか?」
エナが尋ねる。
「航といいます。海を航る、の航です」
「何歳?」
「19歳です」
エナは息をのんだ。
晴彦と1歳しか違わない。
「昭和20年に、何をしていたの?」
「九州の航空基地にいました」
航の言葉は穏やかだった。
けれど、その指はわずかに震えていた。
「最後に覚えているのは、飛行場の空です。夕立がやんで、虹が出ていました」
「虹…」
「虹を見ていたら、急に周りの音が消えて。気がつくと、この川辺に立っていました」
エナと晴彦は顔を見合わせた。
「虹、見えた?」
あの言葉と、つながっている。
航が尋ねた。
「戦争は、まだ続いているのですか?」
晴彦は、すぐには答えられなかった。
エナが静かに口を開く。
「1945年8月15日に終わりました」
「では、今は…」
「終戦から30年後の、1975年8月15日です」
航は、遠くの祭りの灯りを見つめた。
「30年…」
子どもたちの笑い声が、風に乗って聞こえてくる。
消されることのない提灯。
空襲警報を恐れずに上がる花火。
航は、その光景を長いあいだ見つめていた。
「こんな夜が、来たんですね」
声がわずかに震えた。
「みんなが灯りをつけて、笑っている夜が」
そのとき、航のお腹が鳴った。
静かな川辺に、思いのほか大きな音が響く。
航は、恥ずかしそうにうつむいた。
「すみません…」
晴彦が吹き出した。
「腹、減ってる?」
「いつから食べていないのか、よくわからなくて」
晴彦は立ち上がり、航へ手を差し出した。
「うちへ来なよ」
「でも」
「今を生きてる人間は、まず飯を食べないと」
航は差し出された手を見つめた。
やがて、ゆっくりとその手を握った。
家へ戻ると、幸子は驚くこともなく、3人を迎え入れた。
「ただいま。お腹を空かせた人を連れてきた」
晴彦が言う。
「あら。ちょうど今ご飯が炊けたところよ」
幸子は航が誰なのか、どこから来たのかを尋ねなかった。
炊きたてのご飯を取り、手に塩をつけて握り始める。
「まずは食べなさい。話は、お腹が落ち着いてからでいいの」
航の前に、大きな塩むすびが置かれた。
白い湯気が、ゆっくりと立ち上がる。
「いただきます」
航は両手で塩むすびを持ち、ひと口かじった。
しばらく動かなかった。
「どう?」
幸子が尋ねる。
「おいしいです」
もうひと口、かじる。
「本当に、おいしいです」
航はうつむいたまま、何度も塩むすびを口へ運んだ。
涙が1滴、手の甲へ落ちた。
幸子は何も言わず、2つ目の塩むすびを皿へ載せた。
「遠慮しないでね。ご飯は、食べる人がいると喜ぶから」
エナは、塩むすびを食べる航を見つめた。
予科練生。
戦争を生きた若者。
教科書の中では、たった数文字で説明される存在。
けれど今、目の前にいる航は、お腹を空かせ、温かいご飯を食べて涙を流す、19歳の青年だった。
1945年と1975年と2025年。
3つの時間が、まあるいちゃぶ台を囲んでいた。




