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僕らの夏には虹があった  作者: 海月繭


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第9章 虹のつづき

第9章 虹のつづき


 白い光がほどけると、エナは列車の座席に戻っていた。


 向かい側には晴彦。その隣には航が座っている。


 3人とも、まだ手をつないだままだった。


「おかえりなさい」


 あの女性型アンドロイドが、通路に立っていた。


 変わらない穏やかな顔で、3人を見つめている。


「今日は、何年の何月何日?」


 エナが尋ねた。


「2025年8月15日です」


「私がここを出てから、どのくらい経ったの?」


「3分18秒です」


「3日間が、3分18秒…」


 エナがつぶやくと、晴彦は腕時計とアンドロイドを交互に見た。


「時間の進み方が違うのか。それとも、空間そのものが…」


「晴彦、考えるのはあと」


「でも、すごく重要なことだよ」


「未来へ来て最初にすることが、研究なの?」


「アンドロイドの構造も見たい」


 晴彦が立ち上がり、アンドロイドへ顔を近づけた。


「触ってもいいですか?」


「どうぞ。ただし、分解はお断りします」


「まだ何も言ってないのに」


「晴彦、顔に書いてあるよ」


「見るだけだよ」


「その目が、もう分解してる」


 アンドロイドは、わずかに首を傾げた。


「晴彦、困らせないで」


「困ってはいません」


 アンドロイドが答えた。


「観察は可能です。分解はできません」


「わかりましたよ…」


 2人のやり取りを見て、航が小さく笑った。


 列車の扉が開く。


 外から、たくさんの人の話し声が流れ込んできた。


 3人が降り立ったのは、2025年の万博会場だった。


 色鮮やかな建物の間を、大勢の人が行き交っている。


 外国語を話す家族。


 車椅子で展示を見て回る人。


 ロボットに手を振る子どもたち。


 空を、旅客機が横切っていった。


 航が反射的に空を見上げる。


 けれど、誰も身を伏せなかった。


 子どもたちは笑いながら走り続け、音楽も途切れない。


「飛行機が飛んでいるのに、誰も怖がっていない」


「あれは、人を遠い町へ運ぶ飛行機だよ」


 エナが言った。


「爆弾を落とすためじゃない」


 航は、青い空を見つめた。


「本当に、戦争は終わったんですね」


「日本では…ね…」


 エナは答えた。


「世界のどこかでは、今でも…」


「そうですか…」


 航は少し目を伏せたあと、もう1度空を見た。


「それでも、こんな空があることを知れてよかったです」


 晴彦は、会場を走る小型バスや案内用ロボットを見るたびに足を止めた。


「これ、どうやって動いてるんだろう」


「置いていくよ」


「待って。今、ロボットが自分で人を避けたよ!」


 晴彦は目を輝かせていた。


 エナは笑いながら、その背中を追った。


 1975年の晴彦にとって、ここは夢の先にある世界なのだ。


 けれど航は、機械よりも人を見ていた。


 食べ物を分け合う親子。


 肩を寄せて写真を撮る若者たち。


 ベンチで眠っている老人。


 そのどれもが、航には不思議な光景に見えるらしかった。


「みんな、明日のことを考えている顔をしています」


 航が言った。


「明日?」


「はい。帰ったあと何を食べようとか、次はどこへ行こうとか」


 航は、人々の顔を眺めた。


「明日が来ることを、疑っていない顔です」


 エナは返す言葉を見つけられなかった。


 会場の一角に、白い建物があった。


 入口には、


『記憶の灯館――戦後80年、記憶を未来へ』


 と書かれている。


 航は足を止めた。


「ここは?」


「戦争と、そのあとの時代を伝える場所」


 エナが答えると、航はしばらく入口を見つめた。


 けれど、中へは入らなかった。


「見なくていいの?」


「今は、こちらを見ていたいです」


 航は、会場を歩く人々へ目を向けた。


「僕たちの時代の先に、こういう日が来たことを覚えていたい」


 エナはうなずいた。


「うん」


 アンドロイドが、3人のそばへ歩いてきた。


「帰還の時間です」


 その言葉を聞いた瞬間、晴彦の表情が曇った。


「もう?」


「それぞれの時間へ戻っていただきます」


 3つの乗車口が、静かに開いた。


 アンドロイドが航を見る。


「帰還先を確認します。お名前をお願いします」


「山下航です。1945年から来ました」


「確認しました」


 次に、晴彦へ顔を向ける。


「朝比奈晴彦。1975年です」


「確認しました」


 最後にエナを見る。


「エナ様は、2025年に残ります」


 航は、開いた扉の前に立った。


 その向こうには、白い光しか見えない。


「戻れば、またあの時代です」


 航の声が震えた。


「怖い?」


 エナが尋ねる。


「はい」


 航は、正直に答えた。


「でも、あの海と虹を知る前の僕とは、少し違います」


 晴彦が、航に右手を差し出した。


「忘れないから」


 航はその手を見つめ、自分の手を重ねた。


 2人は、強く手を握り合った。


「何十年かかっても、必ず君を見つける」


「僕を?」


「君が生きていた証を、ちゃんと見つけ出す」


 航は、握った手に少しだけ力を返し、笑った。


 それからエナをまっすぐ見つめて、


「僕がいたことを、覚えていてくれますか?」


「もちろん!…忘れるわけないよ…」


 エナは答えた。


「全部、映画にするから」


「映画に?」


「たくさんの人に見てもらうの。航が『戦争の中にいた人』という一言ではなくて、生きたいと願っていた19歳の青年だったことを伝える」


 航は目を伏せた。


「ありがとうございます」


 扉の向こうから、やわらかな風が吹いてきた。


「楽しかった、ありがとう」


エナは航に右手を差し出した。


「僕も、とても楽しかったです」


 航は、すぐにその手を取った。


 意外なほど華奢な手だった。


 指は長く、手のひらには、わずかな震えとやさしいぬくもりがあった。


 こんなにも繊細な手で、戦闘機の操縦桿を握り、空へ向かわなければならないのか。


 胸の奥が、ぎゅうっと締めつけられた。


 エナは、航の手を両手で包んだ。


「ありがとうございました」


 丁寧にお辞儀をして、航は白い光の中へ歩いていった。


 その姿が消える直前、もう1度こちらを振り返った。


 今度は、自然に笑っていた。


 残った晴彦は、ポケットからポケベルを取り出した。


「これ、エナが持ってて」


「晴彦の物でしょう?」


「返してもらったけど、もう1度預ける」


 エナは、手のひらにのせられた小さな機械を見つめた。


 裏には、朝比奈晴彦と書かれている。


「でも、1975年と2025年じゃ、連絡できないよ」


「何が起きるかわからないのが、未来だろ?」


 晴彦は笑った。


「50年後に、また会おう」


そう言って差し出された晴彦の手を、そっと握るエナ。


大きくて厚みがあって、頼もしい手をしている。


エナは胸が苦しくなった。


「晴彦にとっては、50年後なんだね」


「エナにとっては、すぐかもしれないね」


「50年も、私のことを覚えていられる?」


「忘れられると思う?」


 晴彦は、まっすぐエナを見た。


 エナは何も言えなくなった。


 晴彦は、そんなエナに優しく微笑んで、


「帰って、写真を現像するよ」


 と、自分の乗車口へ足を向けた。


「晴彦」


「うん?」


「またね」


「またね、エナ」


 扉が閉じる。


 座席に着いた晴彦の隣へ、アンドロイドが座った。


「お元気で」


 アンドロイドはそう言って、晴彦へウインクした。


「やっぱり、君には感情があるんじゃないの?」


「ご想像にお任せします」


 晴彦は楽しそうに笑った。


 列車が、光の中へ滑り込んでいく。


 エナは、見えなくなるまで手を振り続けた。


 ひとりになったエナは、しばらくその場から動けなかった。


 ポケベルを握る。


 晴彦にとっての50年が、今、この瞬間にも流れ始めている。


 エナは顔を上げ、『記憶の灯館』へ向かった。


 建物の中は、最初に訪れたときと何も変わっていなかった。


 焼け焦げた弁当箱。


 色褪せた手紙。


 戦地から家族へ送られた葉書。


 けれど、そこに書かれている文字が、今は以前とは違って見えた。


 その向こうに、お腹を空かせた人がいる。


 会いたい人がいる。


 生きて帰りたいと願った人がいる。


 展示の奥に、海軍航空隊の若者たちを紹介する一角があった。


 壁に並ぶ写真の中に、見覚えのある顔があった。


 白い帽子をかぶり、背筋を伸ばしている。


 まっすぐこちらを見ている。


 それは、確かに航だった。


『山下航 19歳』


 その下に、短く記されていた。


『1945年、戦死』


「航…」


 声が震えた。


 たった2行だった。


 その2行からは、塩むすびを食べて涙を流したことも、卵かけご飯を怖がったことも、


 虹の前で笑い方がわからなかったことも伝わらない。


 けれどエナは知っている。


 写真の中の青年が、本当はもっと生きたかったことを。


「忘れてないから」


 エナは、航の写真へ向かって言った。


「本当に、すぐ会えたね」


 背後から声が聞こえた。


 振り向くと、白髪の男性が立っていた。


 70歳くらいだろうか。


 穏やかな目と、少し照れたような笑い方。


 年齢を重ねていても、すぐにわかった。


「晴彦…?」


 男性は笑った。


「君には、ほんの数分。僕には50年ぶりだ」


「晴彦さん…」


 エナは、言葉を失った。


 晴彦は胸ポケットから、小さな封筒を取り出した。


「ずっと、渡す日を待ってた」


 中には、1枚の写真が入っていた。


 海にかかる大きな虹。


 その下に、エナと晴彦と航が並んでいる。


 航は少し困った顔をし、エナは笑い、晴彦はへ戻るのが間に合わなかったのか、体が少し傾いていた。


「ちゃんと写ってたんですね」


 エナは写真を両手で持った。


 今にも、3人の笑い声が聞こえてきそうだった。


「1975年へ戻って、すぐに現像した。航の名字と年齢を手がかりに、何年もかけて記録を探したよ」


 晴彦は、壁の写真を見た。


「見つけたときは、つらかった。だけど、航を『戦死した隊員』という言葉だけで終わらせたくなかった」


「だから、この展示に?」


「うん。準備に関わった人たちへ、航のことを話した」


 晴彦は、エナの持つ虹の写真へ目を落とした。


「塩むすびを何個も食べたことも、虹を見て笑ったこともね」


 エナの目に涙がにじんだ。


「幸子さんは?」


「あれからますます元気になって、長生きしたよ」


 晴彦は笑った。


「エナのことも覚えてたよ」


「私のことを?」


「塩むすびにぎりながら『未来から来たあの子は、ちゃんとご飯を食べてるかねえ』って、よく言ってた」


 エナは涙を拭きながら笑った。


「あはは、幸子さんの料理、また食べたいなあ…」


「そうだね…」


 展示室の外を、あの女性型アンドロイドが通り過ぎた。


 晴彦は、その姿を見送った。


「あのアンドロイドの開発に、僕も関わったんだ」


「晴彦さんが?」


「あの夏、未来で彼女に出会ったことが、すべての始まりだったんだ」


「…私が会ったあのアンドロイドは、晴彦さんが…」


「…そう、僕が作ったから、あの日、僕たちは会えた。あの日に会えたから、僕は作った」


「どちらが先なんでしょう」


「さあ」


 晴彦は肩をすくめた。


「時間は、案外きれいな輪になっているのかもしれない」


 エナは、手の中の写真を見た。


 1945年。


 1975年。


 2025年。


 離れていた3つの時間が、1枚の写真の中に並んでいる。


「そうだ。あのレコードも、まだ持ってるよ」


「『シクラメンのかほり』?」


「うん。いつでも聴きにおいで」


 その言葉は、1975年の晴彦が言ったときと、少しも変わらなかった。


 万博から戻った翌朝、さっそくエナは映像の編集を始めた。


 のんびり休んでいる気にはなれなかった。


 あの夏の記憶が薄れてしまう前に、形にしておきたかった。


 タイトルは、


『僕らの夏には虹があった』


 万博で撮った映像。


 戦争と戦後を伝える展示。


 青い海。


 幸子が塩むすびを握る手。


 風に揺れる稲。


 そして、虹の下に並ぶ3人の写真。


 映像に合わせて、自分で弾いたピアノ曲を重ねた。


 何度も編集し直した。


 説明しすぎると、航の声が遠くなる気がした。


 きれいにまとめすぎると、あの夏の体温が消えてしまう気がした。


 だから、エナは自分の言葉で語った。


「戦争を知ることは、起きた出来事を覚えることだけではありません。


 そこにいた1人ひとりにも、食べたいものがあり、会いたい人がいて、


 続いてほしい明日があったと想像することだと思います。


 私は、とある19歳の青年と出会いました。


 彼は、お腹を空かせ、塩むすびを食べて涙を流しました。


 虹を見て、笑いました。


 そして、本当はもっと生きたいと言いました。


 その気持ちを、私は未来へ残したいと思います」


 文化祭当日。


 視聴覚室の照明が落ちた。


 エナの映像が、スクリーンに映し出される。


 教室に、風鈴の音が響いた。


 田んぼを渡る風。


 波の音。


 幸子の塩むすび。


 最後に、海へかかる虹と、3人の写真が映った。


 画面の中央に、題名が浮かぶ。


『僕らの夏には虹があった』


 映像が終わっても、しばらく誰も声を出さなかった。


 やがて、後ろの席から拍手が起こった。


 それが少しずつ広がり、視聴覚室いっぱいに響いた。


 照明がつく。


 エナが振り返ると、佐久間先生が立っていた。


「見つけたな」


「何をですか?」


「昭和のかほり」


 エナは笑った。


「先生。あれは、古い電話やレコードの匂いではなかったんですね」


「やっと気づいたか」


「万博まで行きましたから」


 佐久間先生は、スクリーンに残っている3人の写真を見た。


「いい映画だ」


「ありがとうございます」


 スクリーンの中では、17歳のエナと、20歳の晴彦と、19歳の航が、今も虹の下で笑っていた。


 僕らの夏には、確かに虹があった。


(完)


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