第5章 幸子さんの塩むすび
第5章 幸子さんの塩むすび
喫茶店を出ると、日差しは少しだけやわらいでいた。
「もう少し、歩いていく?」
晴彦が尋ねる。
「はい。もっと昭和の…あ、この町のこと知りたいです」
「敬語は?」
「それは、もう少し時間をください」
「ナポリタンとプリンだけじゃ足りなかったか」
「食べ物で距離を縮めようとしすぎです」
エナが笑うと、晴彦も笑った。
2人は駅前の商店街を抜け、住宅街を歩いた。
家々が途切れた先には、田んぼが広がっていた。
青々とした稲が風に揺れ、葉と葉が触れ合うたび、さわさわと音を立てている。
あちこちから、低い鳴き声が聞こえた。
「この声、何ですか?」
「カエル」
「カエルって、こんなに大勢で鳴くんですね」
「今、会議中なんじゃないかな」
「何の会議ですか?」
「田んぼの水加減について」
「ずいぶん真剣な会議ですね」
「夜になると、もっと議論が白熱するよ」
エナは耳を澄ませた。
ゲコゲコという声が、田んぼの向こうから重なって聞こえてくる。
2025年の東京では、車の音や電車の音に囲まれていた。
これほどたくさんの生き物の声を、一度に聞いたことはなかった。
「きれい…」
見渡す限りの緑に、エナは目を細めた。
「この田んぼ、うちのなんだ」
晴彦が言った。
「じいちゃんとばあちゃんが、戦後からずっと米を作ってきた。じいちゃんが亡くなってからは、ばあちゃんと僕で守ってる」
「晴彦もお米を作るんですか?」
「大学が休みの日だけだけどね。水を見たり、草を取ったり」
晴彦は、田んぼの縁にしゃがみ、稲の葉へそっと触れた。
「でも最近は、米を作りすぎるなって言われてる」
「作りすぎるな?」
「米が余っているから、田んぼを減らせって。国の政策なんだ」
「そんなことがあるんですか?」
「うちも、一部を別の作物に変えるように言われてる。ばあちゃんは、ずっと嫌がってるけど」
晴彦は困ったように笑った。
「米が余って困るなんて、変な話だよね」
エナは、風に揺れる稲を見つめた。
2025年。
スーパーの棚から米がなくなり、入荷日には人が並んだ。
値札を見るたび、ため息をつく人がいた。
「未来では…」
口にしてから、エナは言葉を止めた。
「未来?」
晴彦が振り返る。
「いえ。将来、もし米が足りなくなったら、どうするんだろうと思って」
「米が足りなくなる?」
「たとえば、50年後とか」
晴彦は笑った。
「50年後なら、きっと米を作る機械も進歩してるよ。人が何もしなくても、全部やってくれるかもしれない」
「機械があっても、田んぼがなくなったら作れません」
思わず強い口調になった。
晴彦は少し驚いたようにエナを見る。
「そうだね」
それから、もう一度田んぼへ目を向けた。
「田んぼは、1度やめたら、簡単には元に戻せないから」
風が吹き、稲が一斉に揺れた。
まるで、その言葉にうなずいているようだった。
「うちの米、すごくおいしいんだ」
晴彦がぽつりと言った。
「ばあちゃんが握る塩むすびは、最高においしい」
「そんなことを言われたら、食べたくなります」
「じゃあ、食べていく?」
「いいんですか?」
「ポケットベルのお礼が、ナポリタンだけじゃ足りなかったみたいだから」
「今度は、塩むすびで距離を縮めるつもりですね」
「ばれたか」
晴彦は笑って、田んぼの向こうにある家を指さした。
晴彦の家は、瓦屋根の古い平屋だった。
庭には柿の木があり、縁側には風鈴が下がっている。
門の脇に、きゅうりと茄子へ割り箸を刺したものが置かれていた。
「これ、何ですか?」
「精霊馬。お盆だから」
「きゅうりと茄子が、馬なんですか?」
「きゅうりは馬で、茄子は牛。ご先祖様に早く帰ってきてもらって、帰りはゆっくり戻ってもらうんだ」
「行きと帰りで、乗り物が違うんですね」
「帰りまで急がせたら、かわいそうだから」
エナは、きゅうりの馬を見つめた。
自分も、未来から不思議な乗り物に乗ってきた。
けれど、帰りの乗り物が用意されているのかはわからない。
「どうしたの?」
「いえ。帰りの乗り物は大切だなと思って」
「精霊馬に乗りたいの?」
「さすがに小さすぎます」
縁側から、幸子が顔を出した。
「あら。2人とも、おかえり」
「ただいま。エナに、うちの米を食べてもらおうと思って」
「まあ、それはいいわね」
幸子は、エナに向かって目を細めた。
「暑かったでしょう。上がって、麦茶を飲みなさい」
「ありがとうございます」
また、あの麦茶が飲める。そう思うと、エナの頬がほころんだ。
縁側で冷たい麦茶をひと口飲むと、田んぼ道を歩いて火照った体が、すうっと落ち着いていった。
台所で、幸子が米びつの蓋を開けた。
「去年、あの田んぼで採れた米よ」
白い米粒が、升の中へさらさらと落ちていく。
「エナさんも、研いでみる?」
「やってみたいです」
エナは袖をまくり、幸子の隣に立った。
「最初の水は、すぐ捨てるの。米は乾いているから、最初の水をよく吸うのよ」
「お米って、そんなに急いで水を吸うんですね」
「喉が渇いてるのよ。さっきのエナさんと一緒」
幸子は笑った。
エナも、水の中へ手を入れた。
米粒が指の間をすり抜ける。
力を入れすぎると、幸子がやさしく止めた。
「ゴシゴシしなくていいの。米は逃げないから」
「すみません。私、何でも力が入りすぎるみたいで」
「力を入れるより、手をかけるほうが大事なのよ」
幸子の手が、水の中でゆっくりと米を回す。
長い年月、毎日のように繰り返してきた動きなのだろう。
無駄がなくて、静かだった。
洗った米を、幸子はアルミの羽釜へ移した。
「今日は、お客さんがいるから、これで炊こうかね」
蓋を閉め、火にかける。
しばらくすると、台所に米の甘い匂いが漂い始めた。
「いい匂い…」
「まだ食べちゃだめよ」
「匂いだけで食べそうに見えました?」
「さっき、喫茶店でお腹を鳴らしたって、晴彦から聞いたから」
エナは晴彦を見る。
「言ったんですか?」
「町では、秘密は夕飯までに伝わるって説明したよね」
「自分から広めてるじゃないですか」
「ばあちゃんには秘密にできないんだ」
「いい心がけね」
幸子が満足そうにうなずいた。
やがて羽釜の蓋が開けられた。
白い湯気が、一気に立ち上がる。
つやのある米粒が、ふっくらと炊き上がっていた。
「きれい…」
「ご飯を見て、きれいって言う人は初めてだねえ」
「本当に、光って見えます」
「じゃあ、光っているうちに握ろうか」
幸子は手を水で濡らし、塩をなじませた。
炊きたてのご飯を手に取り、軽く形を整えていく。
「熱くないんですか?」
「熱いよ」
「平気そうに見えます」
「長く生きてると、熱いものの持ち方も覚えるの」
晴彦も手を濡らし、ご飯を取った。
「僕も作るよ」
「晴彦のは大きすぎるのよ」
「大学生だから、これくらい食べる」
「誰と戦うつもりなの」
晴彦の手の中には、塩むすびというより、小さな山ができていた。
エナは吹き出した。
「それ、1人分ですか?」
「もちろん」
「未来でも、その大きさは1人分じゃありません」
「未来基準でも大きいのか…」
エナも、幸子をまねてご飯を取った。
「熱っ」
思わず手を離しかける。
「だから、力を入れないの」
幸子が、エナの手をそっと包んだ。
「転がすように、やさしく。壊れないくらいにね」
幸子の手の中で、エナの塩むすびが少しずつ丸くなっていく。
形は不格好だった。
けれど、自分で握ったものだと思うと、愛おしく見えた。
夕食には、塩むすびのほかに、茄子と豆腐の味噌汁、川魚の塩焼き、きゅうりの漬物が並んだ。
3人でちゃぶ台を囲む。
「いただきます」
エナは、幸子が握った塩むすびを手に取った。
ひと口かじる。
米の甘みが、ゆっくりと口の中に広がった。
塩は、米の味を消すのではなく、ひと粒ずつの甘さを引き出していた。
「おいしい…」
思わず、もうひと口食べる。
田んぼの風景が浮かんだ。
晴彦が触れていた稲。
米を研ぐ幸子の手。
羽釜から立ち上がった白い湯気。
全部が、この1つの塩むすびにつながっている。
「こんなにおいしいお米、初めてです」
「大げさねえ」
幸子は笑った。
けれど、その顔は少し誇らしそうだった。
「未来では…」
また、その言葉が口からこぼれた。
晴彦が顔を上げる。
「さっきも言ってたね。未来では、って」
エナは、塩むすびを持ったまま動けなくなった。
これ以上、ごまかすことは難しい。
自分がどこから来たのかもわからないのに、幸子は家へ迎え、食事まで作ってくれた。
晴彦も、何も問い詰めずに町を案内してくれた。
嘘をつき続けることのほうが、苦しくなっていた。
エナは塩むすびを皿へ戻した。
「信じてもらえないと思います」
「うん?」
「私…2025年から来ました」
味噌汁の湯気が、3人の間をゆっくりと上っていく。
遠くで、カエルが鳴いた。
晴彦は箸を持ったまま、目を見開いている。
幸子は、しばらくエナを見つめたあと、静かにうなずいた。
「それは、ずいぶん遠いところから来たのねえ」
「そこ、信じるんですか?」
「エナさんが、嘘をついてる顔には見えないもの」
「でも、50年後ですよ?」
「東京より遠いって言ってたでしょう」
「時間的に遠いとおっしゃっていましたね」
公民館にいたおじいさんの解釈が、まさか正しかったとは思わなかった。
「ちょっと待って」
晴彦がようやく声を出した。
「2025年って、本当に?」
「はい」
「じゃあ、今から50年後?」
「そうです」
「未来から来たの?」
「だから、そう言っています」
晴彦は立ち上がりかけ、ちゃぶ台へ膝をぶつけた。
「痛っ」
「落ち着いてください」
「落ち着けるわけないよ!」
晴彦の目が、喫茶店のゲームを動かしていたとき以上に輝いている。
「未来って、どんな世界? 車は空を飛ぶ? テレビ電話はある? 人間は月に住んでる?」
「1度に聞かないでください」
「あ、ごめん」
「あと、月にはまだ普通に住めません」
「まだ、ってことは、計画はあるんだ」
「そこから食いつくんですね」
晴彦は座り直したものの、興奮を隠せない様子だった。
「何か、未来から来た証拠はある?」
エナは迷ってから、バッグの中のスマホを取り出した。
「これです」
「小さなテレビ?」
「スマホです」
「すまほ?」
「電話もできます。写真も動画も撮れます。音楽も聴けて、地図も見られて、買い物もできます」
晴彦は、恐る恐るスマホを手に取った。
画面に触れた瞬間、光がつく。
「うわっ」
危うく落としそうになり、エナが慌てて支えた。
「落とさないでください。未来でも高いんです」
「これが電話なの?」
「電話でもあります」
「電話でもある?」
「ほかのことをする時間のほうが長いです」
「電話なのに?」
「未来では、電話をかけるのが苦手な人も多いです」
「電話なのに?」
晴彦は、よほど納得できないらしい。
幸子が横から画面をのぞき込んだ。
「その中に、人が入ってるの?」
「入ってはいません」
「小さすぎるものねえ」
エナは、スマホに残っていた虹の写真を表示した。
海の上に、大きな虹がかかっている。
「きれい…」
幸子が目を細める。
晴彦は、画面を見つめたまま動かなくなった。
「虹…」
「どうしました?」
「いや。あのポケットベルのことを思い出して」
晴彦は、ポケットから端末を取り出した。
「エナが拾ったとき、文字が表示されたんだよね?」
「ポケベルじゃなくて、乗り物のモニターに出たんです。『1975年8月15日』『虹、見えた?』って」
晴彦の表情が変わった。
「僕のポケットベルは、文字なんて表示できない」
「え?」
「これは、大学の研究室から借りている試作機なんだ。呼び出し音が鳴るだけで、メッセージを表示する機能はない」
「では、あの言葉は誰が?」
「わからない」
晴彦は、スマホの中の虹と、手元のポケットベルを交互に見た。
「でも、僕の名前が書かれた端末が50年後にあって、それをエナが拾った。そして、今日ここへ来た」
「偶然ではない、ということですか?」
「偶然にしては、出来すぎてる」
エナは、塩むすびを見つめた。
自分をこの時代へ送ったのは、あのアンドロイドなのか。
ポケットベルなのか。
それとも、まだ会ったことのない誰かなのか。
「難しい話は、ご飯のあとにしなさい」
幸子が言った。
「塩むすびが冷めるよ」
晴彦とエナは、同時に塩むすびを見た。
「ばあちゃん、今、大事な話をしてるんだけど」
「ご飯が冷めるのも大事な話よ」
幸子は、自分の塩むすびをひと口食べた。
「未来の話は冷めないでしょう?」
エナは思わず笑った。
「そうですね」
塩むすびを手に取り、もう1度かじる。
さっきよりも少し冷めていた。
冷めるとさらに、米の甘さと、幸子の手のぬくもりを、より強く感じた。
2025年と1975年。
50年離れた2つの時間が、今、ちゃぶ台1つ分の距離まで近づいていた。




