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僕らの夏には虹があった  作者: 海月繭


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第4章 ナポリタンとプリンアラモード

第4章 ナポリタンとプリンアラモード


 公民館の引き戸を開けると、真夏の光が一気に差し込んできた。


 畳と麦茶の香りが、まだエナの体に残っている。


「こっちです」


 晴彦が振り返り、歩き始めた。


 公民館の前では、さっきのおじいさんたちが、木陰で将棋を指していた。


「お、晴彦。もう彼女ができたのか?」


「違いますよ!」


「そういうときは、だいたい違わないんだ」


「今日、初めて会ったんですって」


「初めての日が、いちばん大事なんだよ」


「もう、放っておいてください」


 晴彦の耳が少し赤くなった。


 エナは、こらえきれずに笑った。


「すみません。なんだか、にぎやかですね」


「いつもこんな感じです。みんな、人のことを自分のことみたいに心配するんですよ」


「心配というより、楽しんでいるように見えましたけど」


「それも半分くらいあります」


 2人は並んで歩き出した。


 道の両側には、瓦屋根の家が並んでいる。


 軒先の風鈴が、ちりん、と鳴った。


 自転車に乗った子どもが2人の横を通り過ぎ、少し先で振り返る。


「晴彦兄ちゃん、デート?」


「違う!」


 晴彦がすぐに否定すると、子どもたちは笑いながら走り去った。


「町じゅうに知られているんですね」


「小さい町ですから。秘密は、その日の夕飯までに全員に伝わります」


「早いですね」


「新聞より早いですよ」


 晴彦は困ったように笑った。


 けれど、その表情はどこかうれしそうでもあった。


 しばらく歩くと、駅前の商店街に出た。


 八百屋の店先にはスイカが積まれ、肉屋からは揚げ物の匂いが漂ってくる。店の人と通りを歩く人が、あちらこちらで声を掛け合っていた。


 誰もが誰かの名前を知っている。


 エナのいた2025年では、同じ建物に住んでいても、顔を知らない人がいる。


 けれど、この町では、人と人とのあいだに見えない糸が張り巡らされているようだった。


「この先に、僕の好きな喫茶店があります」


「喫茶店?」


「ポケットベルのお礼です。お腹、空いていませんか?」


 そう言われた途端、エナのお腹が小さく鳴った。


 晴彦が立ち止まる。


「今の、蝉ですか?」


「私です…」


「よかった。蝉にしては近すぎると思った」


「聞かなかったことにしてください」


「難しいです」


 晴彦は笑いながら、少し先にある店を指さした。


 深緑色の看板に、金色の文字で、


『ミルクホール』


 と書かれている。


 木の扉を開けると、カラン、と鈴が鳴った。


「いらっしゃい」


 カウンターの奥から、銀髪の男性が声を掛けてきた。


 白いシャツに黒いエプロン。目尻に刻まれた深いしわが、笑うとさらにやわらかくなる。


 壁にはレコードジャケットが並び、天井からは色ガラスのランプが下がっていた。


 店の奥から、静かなピアノ曲が流れている。


「晴彦、珍しいね。女の子を連れてくるなんて」


「今日は、町を案内しているだけです」


「なるほど。町を案内すると、喫茶店まで来るのか」


「マスターまでやめてください」


 晴彦の耳が、また赤くなった。


 マスターは楽しそうに笑い、窓際の席を示した。


 そのテーブルには、普通の喫茶店には似つかわしくない、黒い画面と操作レバーが埋め込まれていた。


「これ、何ですか?」


「テレビゲームの試作機です」


 晴彦は少し得意そうに答えた。


「マスターと一緒に作ってるんです。まだ、ちゃんとは動かないけど」


「晴彦君が?」


「僕、大学で工学を勉強してるんです。機械をいじるのが好きで」


 エナは黒い画面をのぞき込んだ。


 2025年のゲーム機とは比べものにならないほど単純な装置に見える。


 けれど、まだ誰も知らない未来が、その暗い画面の奥で眠っているようだった。


「何を食べますか?」


 晴彦がメニューを差し出した。


「おすすめは?」


「ナポリタンです」


「じゃあ、それにします」


「即決ですね」


「お腹が鳴った人間には、迷っている時間がありません」


 晴彦は笑い、マスターに注文した。


「ナポリタンを2つお願いします」


「食後は?」


 マスターが尋ねると、晴彦は少し迷った。


「プリンアラモードも、2つ」


「えっ、私もですか?」


「嫌いでした?」


「大好きです。でも、晴彦さんも食べるんですね」


「男がプリンを食べたら変ですか?」


「変じゃないです。ちょっと、かわいいです」


「かわいいと言われるとは思わなかったな…」


 晴彦は照れたようにメニューで口元を隠した。


 やがて、鉄板に載ったナポリタンが運ばれてきた。


 ジュウジュウという音とともに、甘酸っぱい香りが広がる。


 赤い麺の中には、玉ねぎ、ピーマン、斜めに切られたソーセージ。


「熱いので気をつけて」


 晴彦に言われ、エナは慎重に麺を巻いた。


 ひと口食べる。


 ケチャップの甘さと酸味、少し焦げた麺の香ばしさが口いっぱいに広がった。


「おいしい…!」


「よかった」


「ナポリタンって、2025年にもありますけど、全然違います」


 晴彦のフォークが止まった。


「2025年?」


「あっ…」


 エナは自分の口を押さえた。


「2025円でも食べたいくらい、おいしいという意味です」


「ずいぶん高いナポリタンですね」


「それくらい、おいしいです」


 晴彦は不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。


 エナは胸の中で小さく息をつく。


 この時代に来たことを、いつまで隠し通せるのだろう。


「晴彦さんは、どうして機械が好きになったんですか?」


 話題を変えるように尋ねると、晴彦は少し考えた。


「5年前に、大阪の万博へ行ったんです」


「大阪万博…」


「動く歩道とか、外国の建物とか、見たことのない機械がたくさんあって。未来は本当に来るんだって思いました」


 2025年の万博から、1975年へ来たエナ。


 1970年の万博を見て、未来に憧れた晴彦。


 同じ「万博」という言葉を話しているのに、2人が見ている時間は、まるで反対方向だった。


「晴彦さんにとって、未来ってどんなものですか?」


「今より便利で、みんなが自由に話せる世界かな」


「遠くの人とも?」


「顔を見ながら話せたら、すごいですよね。小さな機械を持ち歩いて、どこにいても連絡できたり」


「それは…便利だと思います」


 エナはバッグの中のスマートフォンを思い浮かべた。


 晴彦が夢見ている未来を、自分は当たり前のように生きている。


 けれど、その未来で人々が今より深くつながっているかと聞かれたら、すぐには答えられなかった。


 ナポリタンを食べ終える頃、プリンアラモードが運ばれてきた。


 銀色の器の中央に、大きなプリンが堂々と座っている。


 その周りには、桃、バナナ、みかん、真っ赤なさくらんぼ。白い生クリームが、波のように添えられていた。


「わあ…」


 エナは思わず声を上げた。


 反射的にスマホを取り出しかけ、慌ててバッグを閉じる。


「どうしました?」


「いえ。食べる前に、なぜか記録を残したくなって」


「絵でも描きますか?」


「食べ終わる頃には、溶けちゃいます」


「じゃあ、目に焼きつけるしかないですね」


 エナはプリンアラモードを見つめた。


 果物の赤や黄色、クリームの白、プリンの琥珀色。


「虹みたい」


 エナがつぶやくと、晴彦が顔を上げた。


「虹?」


「いろんな色が一緒にあるから」


「なるほど。そんなふうに見たことなかったな」


 晴彦は、プリンの上のさくらんぼを見つめた。


「僕には、ただのおいしいものにしか見えてなかった」


「それで十分じゃないですか」


「エナさんは、物の見方が面白いですね」


「映像を作っているからかもしれません。何でも、どう見えるか考える癖があって」


「映像?」


 しまった、とエナは思った。


 けれど、映像制作そのものは、この時代にも存在する。


「学校で、映画みたいなものを作っています」


「すごいですね」


「まだ、半分もできていませんけど」


「どんな映画ですか?」


「昭和をテーマにした作品です」


 晴彦が笑った。


「昭和にいるのに?」


「本当に、そうですよね…」


 エナも笑った。


 笑いながら、ふと気づく。


 自分は今まで、昭和を古い映像や物の形として見ていた。


 けれど、目の前には、プリンを食べて笑う晴彦がいる。


 この時代の人たちは、懐かしい風景の中に住んでいるわけではない。


 今日を生きているのだ。


 食後、晴彦がテーブルの端にあるスイッチを押した。


 黒い画面に、緑色の点が浮かび上がる。


「少しだけ、動かしてみます?」


「壊しませんか?」


「たぶん」


「たぶんなんですか?」


「試作機なので」


 晴彦は操作レバーを握り、画面の中の白い点を動かした。


 上から降りてくる光を、左右に避けていく単純なゲームだった。


「星みたいですね」


「敵のつもりなんですけど」


「敵なんですか?」


「宇宙から攻めてくる設定です」


「こんなにきれいなのに、かわいそう」


「そこに同情する人は初めてです」


 晴彦は笑いながら、操作をエナに代わった。


「やってみてください」


 エナがレバーを握ると、画面の点がぎこちなく動いた。


「あっ、ぶつかる!」


「右、右です」


「右に動きません!」


「それ、左に倒してます」


「どっちから見た右ですか?」


「エナさんから見た右です」


 光の点が衝突し、画面から消えた。


「あ…」


「最初はそんなものです」


「もう1回やります」


「負けず嫌いですね」


「ピアノも映像も、納得するまでやるタイプなので」


「じゃあ、このゲームが完成するまで帰れないかもしれませんよ」


「帰るという言葉は、今の私には少し重いです…」


 晴彦が不思議そうにエナを見る。


 エナは、すぐに画面へ視線を戻した。


「なんでもありません。もう1回お願いします」


 2人は交代しながら、何度もゲームを続けた。


 ピッ、ピッ、と鳴る電子音。


 晴彦の笑い声。


 カップを置く音。


 店内を流れるピアノ曲。


 それらが混ざり合い、ひとつの場面としてエナの中に刻まれていく。


 これは、教科書に載る歴史ではない。


 特別な事件でもない。


 けれど、きっとこういう時間の積み重ねが、誰かの記憶になるのだ。


「敬語、使わなくてもいいですよ」


 晴彦が画面を見ながら言った。


「でも、晴彦さんは年上ですよね?」


「僕は20歳。エナさんは?」


「17歳です」


「3歳しか違わないじゃないですか」


「3歳も違います」


「ナポリタンもプリンも一緒に食べたのに?」


「食べ物で距離を測るんですか?」


「この町では、同じちゃぶ台を囲んだら、だいたい仲間です」


 エナは少し迷ってから言った。


「じゃあ…晴彦さんも、敬語じゃなくていいです」


「わかった」


 晴彦が笑った。


「エナも、僕のことは晴彦でいいよ」


「それは、まだ難しいです」


「そこは、ゆっくりでいいか」


「はい。ゆっくりで」


 窓の外で、風鈴が鳴った。


 エナは、画面に浮かぶ小さな光と、その隣で笑う晴彦を見つめた。


 1975年は、もう遠い昔の風景ではなかった。


 晴彦たちが笑い、食べ、未来を夢見ながら生きている「今」だった。


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