第3章 1975年、夏
第3章 1975年、夏
蝉の声が、青空いっぱいに響いている。
エナは乗り物から、そっと地面へ降りた。
肌にまとわりつく湿気。
むせ返るような草と土の匂い。
目の前には、青々とした田んぼがどこまでも広がっている。
さっきまで見ていた空中都市も、光の軌道も、どこにもなかった。
振り返ると、エナが降りてきたはずの乗り物は、もう消えていた。
「嘘でしょ…」
残っているのは、古びた木造のバス停だけだった。
手書きの時刻表。
木のベンチ。
錆びた丸い看板。
スマホを取り出してみると、画面には「圏外」と表示されている。
「帰り方、聞いてないんですけど…」
あのアンドロイドの、涼しげなウインクが頭に浮かんだ。
どう考えても、「いってらっしゃい」の一言で送り出していい場所ではない。
遠くに、白い壁と瓦屋根の小さな建物が見えた。
入口には「朝日町公民館」と書かれた木の札がかかっている。
人がいるかもしれない。
エナは、ポケベルを鞄に入れ、公民館へ向かった。
引き戸を開けると、ひんやりとした畳の匂いがした。
木の梁がむき出しになった天井。
裸電球。
壁には、手書きの町内会のお知らせや、子どもたちが作った折り紙が貼られている。
部屋の隅では、大きな扇風機が首を振りながら、ブーンと低い音を立てていた。
エナは、壁にかけられたカレンダーを見た。
『昭和50年 8月』
「昭和50年…」
急いで頭の中で計算する。
「1975年?」
15日の欄には、赤い丸がつけられていた。
その横に、小さな字で、
『終戦の日』
と書かれている。
エナは息をのんだ。
ポケベルと車内モニターに表示された日付と、同じだった。
1975年8月15日。
終戦から30年目の夏。
エナがやってきた2025年から、ちょうど50年前だ。
「本当に、過去に来ちゃったの…?」
そのとき。
ジリリリリリリリ!
「わっ!」
部屋中に、けたたましい音が鳴り響いた。
机の上に置かれた黒電話が、震えるように鳴っている。
ドラマや展示では見たことがある。
けれど、実際に鳴っている黒電話を見るのは初めてだった。
ジリリリリリリリ!
「どうすればいいの、これ…」
ボタンらしいものはない。
受話器を取ればいいのだろうが、間違って過去を変えてしまったらどうしよう。
「電話に出ただけで歴史は変わらないよね…?」
エナが黒電話とにらみ合っていると、入口の引き戸が開いた。
「おや、電話が鳴っとるよ」
帽子をかぶったおじいさんと、数人のおばあさんが入ってきた。
手には、ゲートボールのスティックを持っている。
一人のおばあさんが、立ち尽くすエナを見て首をかしげた。
「お嬢ちゃん、電話に出てくれる?」
「えっと…これ、どうやって出るんですか?」
「どうやってって…」
おばあさんは驚いたように目を丸くしたあと、ふんわりと笑った。
「受話器を持ち上げて、『もしもし』って言えばいいんだよ」
「あ、持ち上げるだけなんですね」
「ほかに何をするつもりだったの?」
「暗証番号とか、顔認証とか…」
「かおにんしょう?」
「いえ。なんでもありません」
エナは、おそるおそる受話器を持ち上げた。
見た目よりずっしりと重い。
「も、もしもし。朝日町公民館です」
「すみません、朝比奈ですけど、ばあちゃん、いますか?」
若い男性の声だった。
エナは後ろを振り返る。
「朝比奈さんという方から、おばあちゃんにお電話です」
「おばあちゃんじゃ、全員振り向くよ」
おじいさんが笑った。
たしかに、その場にいた女性たちが、全員こちらを見ている。
受話器の向こうから声がした。
「幸子ばあちゃんです」
「幸子さーん。お孫さんからよ」
「あら、晴彦ね」
白髪をきれいにまとめたおばあさんが、エナから受話器を受け取った。
「もしもし。どうしたの」
短いやり取りのあと、幸子は電話を切った。
「孫の晴彦、また忘れ物をしたみたい。ポケットベルをここに置いていなかったかって」
「ポケットベル…?」
エナは、鞄の中の黒い端末を取り出した。
裏側には、手書きで名前が記されている。
『朝比奈晴彦』
「もしかして、これですか?」
幸子は、端末をのぞき込んだ。
「あらまあ。晴彦のだわ。どこにあったの?」
「それが…」
未来の乗り物の中です、とは言えない。
「ちょっと、説明が難しくて…」
「そうなの」
幸子は、深く追及しなかった。
代わりに、汗ばんだエナの顔を見て言った。
「まあ、そんなことより、暑かったでしょう。麦茶を飲んでいきなさい」
「え。でも…」
「遠慮すると、余計に喉が渇くよ」
その言葉に押され、エナは畳の部屋へ上がった。
ちゃぶ台を囲み、おじいさんとおばあさんたちが腰を下ろした。
幸子が、使い込まれたアルミのやかんから麦茶を注いでくれる。
トポトポ…。
厚みのある湯呑に、琥珀色の麦茶が満ちていく。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
ひと口飲むと、香ばしい冷たさが喉を通った。
「おいしい…」
「ただの麦茶よ」
「でも、すごくおいしいです」
「よっぽど喉が渇いてたんだねえ」
ちゃぶ台には、塩せんべいと、切り分けた羊羹が並んでいる。
「お嬢ちゃん、どこから来たの?」
おじいさんに尋ねられ、エナの手が止まった。
「えっと…遠いところから」
「東京かい?」
「まあ…東京より、もう少し遠いというか…」
「外国?」
「時間的に遠いです」
「時差があるのか」
「そんな感じです」
おじいさんは納得したようにうなずいた。
納得していいのだろうか。
幸子は笑いながら、エナの前へ羊羹を置いた。
「迷子になったの?」
「たぶん…かなり大きな意味では」
「それなら、晴彦に町を案内させればいいわ」
「いえ、そこまでしていただかなくても…」
「ポケットベルを届けてくれたんだから、それくらい当然よ」
名前も、どこから来たのかも、詳しく聞かない。
けれど、困っていることだけは、ちゃんと見てくれている。
畳の感触。
扇風機の音。
湯呑を置く音。
誰かの笑い声。
特別なことは何もないのに、エナの胸は不思議と落ち着いていった。
佐久間先生の言っていた「昭和のかほり」とは、これなのだろうか。
古い物の匂いではなく、このおばあちゃんが注いでくれた麦茶のようなもの。
エナがそんなことを考えていると、入口の風鈴が、ちりん、と鳴った。
「ばあちゃん、ポケベルあった?」
白いシャツを着た青年が、汗を拭きながら入ってきた。
少し日焼けした肌。
肩にかけた白いタオル。
風に乱れた黒い髪。
幸子が呆れた顔をする。
「あったわよ。また忘れて」
「やっぱり、ここだったか」
「ここにはなかったよ。このお嬢さんが届けてくれたの」
晴彦と呼ばれた青年が、エナを見た。
エナは鞄からポケベルを取り出し、差し出した。
「これですよね」
晴彦の目が大きく見開かれた。
「あっ、これです。ありがとうございます」
受け取ると、ほっとしたように笑う。
「よかった。これ、大事なものなんです」
「まだ珍しいものなんですか?」
「珍しいっていうか…持っている人は、そんなに多くないと思います」
「写真も撮れないし、メッセージも送れないのに?」
「写真?」
「いえ。なんでもありません」
晴彦は、ポケットベルを裏返して確かめたあと、ふと首をかしげた。
「これ、どこに落ちていました?」
「えっと…」
エナは言葉に詰まった。
西暦2125年行きの乗り物の中に落ちていました。
それを拾ったら、あなたが生きている1975年へ連れてこられました。
正直に話したところで、信じてもらえるはずがない。
「ごめんなさい。ちょっと、うまく説明できなくて…」
晴彦は不思議そうにエナを見た。
けれど、問い詰めることはしなかった。
「そうですか。変なことを聞いて、すみません」
「見つかったんだから、どこでもいいのよ」
幸子が2人の間に入る。
「晴彦。きちんとお礼をしなさい」
「もちろん。何をすればいいですか?」
「この辺りを案内してあげなさいよ。このお嬢さん、遠いところから来たんだって」
「遠いところ?」
「時間的に遠いらしいよ」
おじいさんが教えた。
「時間的に?」
晴彦が聞き返す。
「そこは、あまり掘り下げないでください」
エナが言うと、晴彦は小さく笑った。
「わかりました。じゃあ、町を案内します」
「でも…」
「僕も、何かお礼をしたいので」
まっすぐな目を向けられ、エナは少し迷った。
この時代のことを、何も知らない。
晴彦と一緒なら、帰る方法を探す手がかりも見つかるかもしれない。
「…では、お願いします」
「決まりね」
幸子がうれしそうに麦茶を注ぎ足した。
「その前に、2人とも羊羹を食べていきなさい。若い人は、すぐお腹が空くんだから」
「ばあちゃん、僕の分もある?」
「忘れ物をする人には、端っこの小さいやつ」
「厳しいなあ」
晴彦のぼやきに、ちゃぶ台を囲んだ全員が笑った。
そのとき、棚の上のラジオから、落ち着いた声が流れてきた。
『今日、8月15日は、終戦から30年の節目の日です――』
部屋の笑い声が、少しだけ静かになった。
晴彦は、ポケットベルを握ったまま、ラジオへ目を向けた。
エナも、その横顔を見つめる。
この人たちにとって、戦争は教科書の中の出来事ではない。
たった30年前の記憶なのだ。
2025年の夏には、終戦から80年。
そのあいだに流れた50年という時間が、急に重さを持った気がした。
ラジオの声を聞きながら、幸子が静かに麦茶を飲んだ。
やがて晴彦が、エナへ向き直る。
「行きましょうか」
「はい」
エナは立ち上がり、公民館の人たちへ頭を下げた。
「麦茶、ごちそうさまでした」
「またいつでもおいで」
幸子が、当たり前のように言った。
エナは一瞬、返事に困った。
自分がこの時代に、いつまでいられるのかはわからない。
それでも、
「…はい」
とうなずいた。
引き戸を開けると、真夏の光が差し込んできた。
晴彦が先に外へ出る。
エナも、そのあとを追った。
1975年の空は、
驚くほど澄んでいて、
驚くほど、青かった。




