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明星、口に堕つ ― 空海、消えた七年  作者: KAMUI
1章 讃岐の麒麟児
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第8話 寺の門前

大学の学びに、真魚は、倦み始めていた。


覚え、解し、作る。学問の段は、もう登りきった。その先にあるのは、位のきざはしだけ。何百の学生が声を揃えて昇ろうとする、あの階だけだった。真魚の探すものは、そこにはなかった。


いつからか、真魚は、講のあいまに、寮を抜け出すようになっていた。


足が向くのは、きまって、あの寺だった。いつか帰り道に、読経の声を聞いた、あの寺。儒の斉誦とはまるで違う、底の見えぬ声のした場所。門は、相変わらず、半ば閉じていた。けれど真魚は、その門前に立って、内から流れてくる経の響きを、ただ聞いていた。


なぜ、この寺なのか。真魚自身、うまくは言えなかった。ただ、ここの読経だけは、何度聞いても、底が見えなかった。儒の書のように、覚えれば解け、解せば尽きる、とはならない。聞くたびに、まだ奥がある、と思わせる。それが、学問に倦んだこの男には、妙に、慕わしかった。


誰に許されたわけでもない。大学寮の学生が、講を抜けて、寺の門前にぼんやり立っている。咎められれば、それまでだった。それでも真魚は、来た。来て、立った。覚えるだけでは足りぬものの気配が、もしこの世にあるのなら、それは、こういう場所の、こういう声の、奥にこそ、ひそんでいる気がしたからだ。



その日も、真魚は、寺へ来ていた。


秋の夕暮れだった。鐘が一つ撞かれて、その余韻が、境内の木立に、長く尾を引いて消えた。読経は、もうんでいた。あたりは、静かだった。


ふと、回廊の隅に、人がいるのに気づいた。


ひとだった。


質素な装いをしていた。寺に身を寄せる者の、目立たぬ衣。だが、その立ち居の、どこか、袖の引き方、首をかしげる角度の、ほんのわずかなところに、この寺には不似合いな、品のようなものが滲んでいた。長い黒髪を、ただ束ねただけの横顔は、まだ若い。真魚と、さほど変わらぬ歳に見えた。


その女は、誰を見るでもなく、暮れてゆく空を、見ていた。


世を、たのんでいない目だった。何かを待つでも、求めるでもない。ただ、諦めることに慣れた者の、静かな目。真魚は、なぜか、その目から、目が離せなかった。音で世界を受け取ってきたこの男が、初めて、ひとつの姿を、目で捕らえて、放せなくなっていた。


どれほどの間、そうしていたか。声をかけることも、立ち去ることもできず、真魚は、ただ、その横顔を見ていた。日が、少しずつ、傾いていく。女の輪郭が、夕映えのなかで、淡く縁取られていた。その姿は、寺の景色の一部のようでいて、どこか、この世のどこにも根を持たぬ人のようにも、見えた。



女が、低く、何かを口ずさんだ。


経の一節だった。さきほどまでされていた、あの経の、続きのところ。声は、小さい。風に紛れて、消えてしまいそうなほど。


真魚の耳は、いつものように、それを拾った。一度で、焼き付けた。一字もたがえず。、そのはずだった。


だが、おかしなことが起きた。


拾ったのに、その声が、手のなかに、収まらないのだ。覚えた。たしかに覚えた。なのに、それは、すり抜けもせず、かといってつかめもせず、ただ、胸の奥で、鳴り続けていた。覚えた声が、鳴りやまない。こんなことは、初めてだった。


いつもの真魚なら、覚えたものは、覚えた、と内に畳んで、それきりだった。畳めば、もう、手を離れる。だが、この声は、畳もうとしても、畳めなかった。畳んだはずの隅から、ひとりでに、また鳴り出す。低い、消え入りそうな、あの一節が。真魚は、自分の耳を、もてあました。生まれて初めて、自分の覚えのよさを、ぎょしきれなかった。


覚えてしまったものは、もう、自分のものではない、ずっと、そう思ってきた。覚えた途端に、すり抜けていくものばかりだった。だが、この声は、違った。覚えたのに、自分のものにならず、それでいて、消えもしない。手に入らないのに、手放せない。



そのとき、女が、ふいに、こちらを向いた。


目が、合った。


真魚は、とっさに、何か言おうとした。言葉なら、いくらでも出てくる男だ。詫びでも、問いでも、挨拶でも。だが、出てこなかった。


女は、真魚を見て、何も言わなかった。ただ、静かに、見ていた。その目は、真魚の、利発そうな身なりも、いかにも物を言いそうな口もとも、通り越して、もっと奥の、真魚自身にも、うまく名づけられぬ、あのくぼみのあたりを、すっと見透かしたように思えた。


言葉の達者なこの男が、生まれて初めて、誰かの前で、言葉を失っていた。


言葉は、真魚の武器だった。唐の文人の詩を諳んじ、博士を唸らせる対策を綴り、人を動かす一文を、いくらでも繰り出せた。だが、その言葉のありったけが、この女の、ただひとつの眼差しの前では、根こそぎ、役に立たなかった。覚えた言葉を、どれほど積み上げても、この沈黙には、届かない。届かせる言葉を、真魚は、一つも持っていなかった。


女は、やがて、かすかに目を伏せた。会釈のような、あるいは、ただ視線を解いただけの、小さな動き。そして、衣の裾を引いて、回廊の奥へ、消えていった。


あとには、鐘の余韻が引いたあとのような、静けさだけが、残った。



真魚は、しばらく、その場を動けなかった。


やがて、通りかかった寺の老僧に、声をかけた。柄にもなく、声が、わずかに上ずっていた。


「あの……いまの方は」


老僧は、真魚の見ていた方をちらと見て、それから、おだやかに、けれど、きっぱりと言った。


「あのお方のことは、お尋ねなさいますな」


「……は」


「わけあって、こちらに身を寄せておられる。それだけのことにございます。年若いお方が、立ち入ってよい話では、ございませぬ」


真魚は、なお、食い下がろうとした。「では、せめて、いつもこちらに、おいでなのですか」


「さあ」老僧は、やんわりと遮った。「あのお方が、いつ来て、いつ去られるかは、誰にも分かりませぬ。風のような方にございます。、若いお方。あのお方のことは、忘れておしまいなさい。そのほうが、おたがいのために、よろしゅうございます」


忘れておしまいなさい。


その言葉ほど、真魚に効かぬ言葉も、なかった。なにしろ、真魚は、一度耳に入れたものを、生涯、忘れられぬ男なのだ。僧は、それ以上は何も言わず、ほうきを手に、堂の方へ去っていった。真魚も、もう、訊けなかった。訊けば、いま胸の奥で鳴っているものの正体に、自分で触れてしまいそうな気が、なぜか、したからだった。



寺を出ると、日は、すっかり暮れていた。


帰り道、真魚の胸の奥では、まだ、あの声が鳴っていた。低く口ずさまれた、経の一節。覚えたのに掴めず、消えもしない声。そして、あの、世を恃まぬ目。利発な身なりの奥の空っぽを、見透かした目。


名も知らぬ。素性も知らぬ。言葉ひとつ、交わしてはいない。


なのに、もう、消せなかった。一度入った声は消えぬこの男のうちに、その声と、その目とは、ほかの何千の声とは違う重さで、沈んでいた。


真魚は、ずっと、覚えても掴めぬものを探してきた。讃岐の浜で。海の上で。都の市で。書物の海で。大学寮の、あの整った階で。、どこにも、それは、なかった。


なのに。


探すのをやめて、ただ寺の門前に立っていた、その夕暮れに。


覚えても掴めぬものは、真理の顔ではなく、ひとりの、名も知らぬ女の顔をして、現れた。


道を求めて故郷を出てきた男の前に、いちばん最初に現れた「掴めぬもの」が、真理ではなく、人であったこと。、それは、これから始まる長い物語の、最初の皮肉であり、そして、最初の傷でもあった。


それが、自分の生涯を、どれほど長く、どれほど静かに鳴らし続けることになるか。このときの真魚には、まだ、知るよしもなかった。



その日から、真魚は、たびたび、あの寺の門前に立つようになった。


たいていは、誰もいなかった。回廊の隅も、暮れてゆく空の下も、ただ、がらんとしていた。それでも真魚は、立った。立って、内から流れてくる読経に、あの声が、まじってはいないかと、耳を澄ませた。


一度だけ、聞こえた気がした。大勢の僧の誦経の、そのいちばん底のほうに、低く、消え入りそうな、あの一節が。真魚は、門前で、息を止めた。だが、確かめるすべは、なかった。門は、相変わらず半ば閉じたまま。その奥へは、入れなかった。


学問の外を求めて寮を抜け出す足は、いつのまにか、あの底の見えぬ読経の方へ、いや、その経を低く口ずさんだ、名も知らぬ女のいる方へと、向かうようになっていた。覚えるだけでは足りぬものを求める心と、鳴りやまぬあの声と。二つは、これから先、この男のなかで、幾度も、せめぎ合うことになる。


色か、道か。


まだ、その言葉さえ知らぬ若い真魚の。これが、長い長い物語の、ほんとうの始まりであった。

第8話で、第一章「讃岐の麒麟児」は、ひとまず幕です。


讃岐の浜で「覚えても掴めぬもの」を探し始めた少年が、海を渡り、都に学び、学問の天井を見て、そして最後に出会ったのは、探していたはずの「真理」ではなく、一人の名も知らぬ女でした。覚えてしまったのに掴めない。すり抜けもせず、消えもしない。手に入らないのに、手放せない。彼がずっと探してきた「すり抜けぬ何か」が、よりにもよって、人の顔をして現れてしまったのですね。


言葉ひとつ交わしていません。なのに、何でも一度で覚えるこの男は、もう、その声を消せない。雄弁な天才が、ただ一人の前でだけ、言葉を失う、この物語の芯が、ここで初めて、小さく芽を出します。


彼女が何者なのか、名は何というのか。それは、まだ伏せておきます。次のアークから、二人の、長いすれ違いが始まります。「色か、道か」、どうぞ、引き続きお付き合いください。

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