第8話 寺の門前
大学の学びに、真魚は倦み始めていた。
覚え、解し、作る。学問の段は、もう登りきった。その先にあるのは位の階だけだ。何百の学生が声を揃えて昇ろうとする、あの階。真魚の探すものは、そこにはなかった。
いつからか、真魚は講のあいまに寮を抜け出すようになっていた。足が向くのは、きまってあの寺だった。いつか帰り道に読経の声を聞いた、香染寺という小さな寺である。儒の斉誦とはまるで違う底の見えぬ声がした場所。門は相変わらず、半ば閉じていた。けれど真魚はその門前に立って、内から流れてくる経の響きをただ聞いた。松の脂の匂いをふくんだ風が、立ち尽くす袖を抜けていく。
なぜ、この寺なのか。真魚自身、うまくは言えなかった。ただ、ここの読経だけは何度聞いても底が見えない。儒の書のように、覚えれば解け、解せば尽きるとはならない。聞くたびに、まだ奥があると思わせる。それが、学問に倦んだこの男には妙に慕わしかった。覚えるだけでは足りぬものの気配がもしこの世にあるのなら、それはこういう場所の、こういう声の奥にこそひそんでいる気がした。
*
その日も、真魚は寺へ来ていた。
秋の夕暮れだった。鐘が一つ撞かれ、その余韻が境内の木立に長く尾を引いて消えた。読経はもう止んでいる。あたりは静かで、堂の軒で風鐸がときおり小さく鳴った。
ふと、回廊の隅に人がいるのに気づいた。
女だった。
質素な装いをしていた。寺に身を寄せる者の、目立たぬ衣。だがその立ち居のどこか、袖の引き方や首をかしげる角度のほんのわずかなところに、この寺には不似合いな品が滲んでいた。膝の上にそろえた手は白く、節の目立たぬ指をしていた。水仕事も畑仕事も知らぬ手だと、真魚は思った。質素な衣の内に、その手だけが、隠しきれずに出所を語っている。長い黒髪をただ束ねただけの横顔は、まだ若い。真魚とさほど変わらぬ歳に見えた。
その女は誰を見るでもなく、暮れてゆく空を見ていた。世を恃んでいない目だった。何かを待つでも、求めるでもない。ただ、諦めることに慣れた者の静かな目。真魚はなぜか、その目から目を離せなかった。音で世界を受け取ってきたこの男が、初めてひとつの姿を目で捕らえて放せなくなっていた。
どれほどの間、そうしていたか。声をかけることも立ち去ることもできぬまま、真魚はその横顔を見ていた。日が少しずつ傾いていく。女の輪郭が夕映えのなかで淡く縁取られる。境内の白砂が、残り火のような光を鈍く照り返していた。その姿は寺の景色の一部のようでいて、どこにも根を持たぬ人のようにも見えた。
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女が低く、何かを口ずさんだ。
経の一節だった。さきほどまで誦されていたあの経の、その続きのところ。声は小さい。風に紛れて消えてしまいそうなほど。かすれて、それでいて芯のある低い声だった。
真魚の耳はいつものように、それを拾った。一度で焼き付けた。一字も違えず。そのはずだった。
だが、おかしなことが起きた。
拾ったのに、その声が手のなかに収まらない。覚えた。たしかに覚えた。なのにそれはすり抜けもせず掴めもせず、ただ胸の奥で鳴り続けている。指を握っても、握った先に何もない。それでいて、声だけが確かに残っている。
いつもの真魚なら、覚えたものは内に畳んでそれきりだった。畳めば、もう手を離れる。だがこの声は、畳もうとしても畳めなかった。畳んだはずの隅から、ひとりでにまた鳴り出す。低い、消え入りそうな、あの一節が。真魚は自分の耳をもてあました。生まれて初めて、自分の覚えのよさを御しきれなかった。
覚えてしまったものはもう、自分のものではない。ずっとそう思ってきた。覚えた途端にすり抜けていく、そんなものばかりだ。だが、この声は違った。覚えたのに自分のものにならず、それでいて消えもしない。手に入らないのに、手放せない。
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そのとき、女がふいにこちらを向いた。
目が、合った。
真魚はとっさに、何か言おうとした。言葉なら、いくらでも出てくる男だ。詫びでも問いでも、挨拶でも。口はわずかに動いた。だが喉の奥がひとつも鳴らない。声にすべき言葉がありったけ揃っているのに、その一つも口の外へ出てこなかった。
女は真魚を見て、何も言わなかった。ただ静かに見ていた。その目は、真魚の利発そうな身なりも、物を言いそうな口もとも通り越していた。もっと奥の、真魚自身にもうまく名づけられぬ、あの窪みのあたりを、すっと見透かしたように思えた。
言葉は、真魚の武器だった。唐の文人の詩を諳んじ、博士を唸らせる対策を綴り、人を動かす一文をいくらでも繰り出せた。だが、その言葉のありったけが、この女のただひとつの眼差しの前では根こそぎ役に立たない。覚えた言葉をどれほど積み上げても、この沈黙に届かせるすべを、真魚は一つも持っていなかった。
女はやがて、かすかに目を伏せた。会釈のような、ただ視線を解いただけの小さな動き。そして衣の裾を引き、回廊の奥へ消えていった。白い指が最後にひとたび、束ねた髪にふと触れて、それも闇に紛れた。
あとには、鐘の余韻が引いたあとのような静けさだけが残った。築地塀の裾で、虫の音だけが細く続いていた。
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真魚はしばらく、その場を動けなかった。
やがて、通りかかった寺の老僧に声をかけた。柄にもなく声がわずかに上ずった。
「あの……いまの方は」
老僧は箒を使う手を止め、真魚の見ていた方をちらと見た。それからおだやかに、けれどきっぱりと言う。皺の奥の目は、それ以上訊くなと告げていた。
「あのお方のことは、お尋ねなさいますな」
「……は」
「わけあって、こちらに身を寄せておられる。それだけのことにございます。年若いお方が立ち入ってよい話ではございませぬ」
真魚はなお、食い下がろうとした。「では、せめて、いつもこちらに」
「さあ」老僧はやんわりと遮った。「あのお方がいつ来て、いつ去られるかは、誰にも分かりませぬ。風のような方にございます。若いお方、あのお方のことは忘れておしまいなさい。そのほうが、おたがいのためによろしゅうございます」
忘れておしまいなさい。
その言葉ほど真魚に効かぬ言葉もなかった。なにしろ真魚は、一度耳に入れたものを生涯忘れられぬ男なのだ。僧はそれ以上は何も言わず、箒を手に堂の方へ去っていった。真魚も、もう訊けなかった。訊けば、いま胸の奥で鳴っているものの正体に、自分で触れてしまいそうな気がしたからだった。
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寺を出ると、日はすっかり暮れていた。西の空にだけ、まだ薄い茜が残っている。
帰り道、真魚の胸の奥ではまだあの声が鳴っていた。低く口ずさまれた経の一節。覚えたのに掴めず、消えもしない声。そして、あの世を恃まぬ目。利発な身なりの奥の空っぽを見透かした、あの目。
名も知らぬ。素性も知らぬ。言葉ひとつ交わしてはいない。なのに、もう消せなかった。一度入った声は消えぬこの男の裡に、その声とその目とは、ほかの何千の声とは違う重さで沈んでいた。
真魚はずっと、覚えても掴めぬものを探してきた。讃岐の浜でも海の上でも、都の市でも。書物の海をさらい、大学寮のあの整った階を登りきってなお、それはどこにもなかった。
なのに。探すのをやめて、ただ寺の門前に立っていた、その夕暮れに。
覚えても掴めぬものは、真理の顔ではなく、ひとりの名も知らぬ女の顔をして現れた。道を求めて故郷を出てきた男の前に、いちばん最初に立ちはだかった「掴めぬもの」が、よりにもよって人であったこと。真魚は帰る足を止めて、暮れゆく空をひとしきり仰いだ。胸の奥ではまだ、あの声が低く鳴りやまない。皮肉とも、傷ともつかぬその疼きを、この男はまだ、うまく名づけることができなかった。
*
その日から、真魚はたびたびあの寺の門前に立つようになった。
たいていは、誰もいなかった。回廊の隅も、暮れてゆく空の下も、ただがらんとしていた。それでも真魚はその門前にとどまり、内から流れてくる読経にあの声がまじってはいないかと、耳を澄ませた。
一度だけ、聞こえた気がした。大勢の僧の誦経の、そのいちばん底のほうに、低く消え入りそうなあの一節が。真魚は門前で息を止めた。耳だけが、閉じた門の奥へ吸い込まれていくようだった。だが、確かめるすべはない。門は相変わらず半ば閉じたまま。その奥へは、入れなかった。
学問の外を求めて寮を抜け出す足は、いつのまにか、あの底の見えぬ読経の方へ向かうようになっていた。そしてその足が本当に向かっていたのは、経を低く口ずさんだ、あの名も知らぬ女のいる方だった。覚えるだけでは足りぬものを求める心と、鳴りやまぬあの声と。その二つがいま真魚の胸のなかで、初めて低くせめぎ合っている。
――色か、道か。
まだその言葉さえ知らぬ、若い真魚であった。




