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空海の青春 ― 消えた七年  作者: KAMUI
1章 讃岐の麒麟児
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第7話 覚えられるもの

 大学寮に入って一年が過ぎ、二年が過ぎた。


 真魚はいよいよ抜きん出ていた。


 覚えるだけでは、もうなかった。大足に仕込まれたとおり句の底を解し、やがておのれの詩を作り、文をつづった。対策たいさくという、まつりごとの問いに答える試でも、その答案は博士たちを唸らせた。古今の典拠を自在に引き、理を尽くし、しかも文が美しい。覚え、解し、そして作る。大足が「そこまで行って初めて学問」と言った最上の段に、真魚はたやすく届いてしまった。


  *


 ある日、寮の詩会で真魚は一篇を詠んだ。


 題は秋の月。ありふれた題だった。だが真魚の詩は、その場の誰のものより澄んでいた。月の光を水に、霜に、人の心に映し替えてゆく句の運び。読み上げられると、座がしんとした。夜風が灯をゆらし、居並ぶ者の影が壁の上で細く伸びた。


 誰かが低くその一句を繰り返した。先ほどまで自分の詩を得意げに講じていた年長の学生までが、口をつぐんでいる。感嘆とばつの悪さの入りまじったが、座にしばらく続いた。


 真魚はそのの意味を耳でよく知っていた。讃岐の館で幾度も浴びた、あの感嘆と同じものだ。だが、都の俊才たちを黙らせてさえ、胸の底はしんとしたままだった。


「見事な」と博士の一人がため息のように言った。「この歳で、この詩境か。佐伯、おまえはいずれ文章博士もんじょうはかせも夢ではないぞ」


 真魚は礼を述べた。詩は確かにうまくできた。我ながらよい句だと思う。そう思うのに。


 詩を詠み終えた胸の底に、またあの見慣れたくぼみがことりと口を開けていた。


  *


 作っても同じだったのだ。


 覚えるだけでは足りぬと大足は言った。だから真魚は解した。解するだけで足りぬのならと、作ってみた。詩を作り、文を綴り、人を唸らせる言葉を生み出してみせた。大足の説いた学問の段を、真魚は一段も残さず登りきったのだ。


 なのに、窪みは埋まらなかった。


 作った詩さえ、覚えた経と同じようにすらりと手をすり抜けていく。よい句だ。それは分かる。だが、それを生み出した自分の内に何かが残り満ちたという心地は、ついぞなかった。


 大学寮の学問は、ここが天井だった。覚え、解し、作る。その先はもう、位のきざはしを昇るだけ。学問そのものが際限なく深まってゆく道ではなかった。


  *


 夏のはじめ、大きな対策があった。


 問いはこうだった。国を安んじ民を治めるには、何をもととすべきか。


 真魚は筆を執るとよどみなく書いた。いにしえの聖王の例を引き、礼と仁を説き、君に忠なるべきを論じ、官たる者の心得を整然と並べた。模範のような答案だった。書き終えてもなお、筆の先は迷いのひとつも見せなかった。提出すると、博士は一読して深く頷いた。


「非の打ちどころがない。佐伯、おまえの対策はそのまま朝堂で読み上げてもよいほどじゃ」


 また褒められた。


 だが、筆を置いた真魚の胸には薄い、けれど確かな白々しさが残っていた。


 いま自分が書いたのは、国を治める道ではなかった。官人として上に認められ、位を進めるための正しい言葉の並べ方だ。礼を説きながら、その実説いているのは「いかに仕えて、いかに昇るか」でしかない。問いも答えも、結局はあの位の階の上にある。


 どれほど筆を尽くしても、その言葉が連れていく先は、位の階のほかになかった。


  *


 そのころ、同輩の一人が任官の口を得て寮を去ることになった。


 めでたい話だった。本人は上機嫌で、別れの宴の席でこれからの出世の道筋を誰彼となく語っていた。まずどの省に入り、いかに上役に認められ、何年で位を進めるか。聞いている者たちも目を輝かせていた。次は自分だ、と。


「佐伯、おまえもじきだろう」とその同輩は言った。「おまえほどの才なら、わたしなどよりずっと上まで行く。羨ましいかぎりだ」


「ありがとうございます」と真魚は礼だけを述べた。


 出世の道筋を嬉々として語る同輩の顔を見ながら、真魚はひそかに思っていた。この人は位を得て満たされるのだろうか、と。


 いや、と思い直した。たぶん満たされる。この人にとっては位こそが求めるものなのだ。階を昇ること、それ自体が。だからこの人は幸せだ。羨ましいのはむしろ、自分のほうだった。


 階を昇ることが、そのまま喜びになる。そういう心を自分は持って生まれてこなかったらしい。


  *


 その帰り道のことだった。


 寮の近くの寺から読経の声が流れてきた。夕暮れの大路に人影はまばらで、声はよく通った。家々の軒の影が長く伸びて、道の土を半分ほど暗くしていた。


 儒の経を読むあの整った斉誦とは、まるで違う声だった。低くうねるような、意味よりも響きが先に身に触れてくるようなし方。真魚は足を止めて、しばらくそれを聞いていた。土塀の向こうに、堂の屋根が夕空を四角く切り取ってのぞいていた。


 何を誦しているのか、ことばは半分も分からない。だが不思議なことに、その分からなさが真魚には心地よかった。


 いつもの癖で真魚はその響きを耳で追い、なぞろうとして、果たせなかった。詞だけなら覚えられた。げんに流れてくる一節を、真魚はもう諳んじていた。けれど、声がただの音を超えて祈りになっているその肝心のところだけは、なぞってもなぞっても手のなかに残らなかった。


 儒の書は覚えれば解け、解せば底が見えた。だがこの声は、聞いても聞いても底が見えてこない。一度で何でも覚えてしまうはずの自分の耳が、その響きの奥を掴みあぐねていた。


 覚えられぬものが、あるのだ。


 真魚はその読経を聞きながら、初めてそう思った。覚えても掴めぬものとは、少し違う。覚えること自体を寄せつけぬもの。一度では、いや幾度誦しても底に届かぬほど深いもの。それはずっと探していた、あの「すり抜けぬ何か」にどこか似ていはしないか。


 だが、それきりだった。声はやがてんだ。真魚はまた歩き出した。寺の門は閉じていた。いまはまだ、その奥へ入ってゆく時ではなかった。


  *


 その夜、真魚は大足にだけ本心を漏らした。


「叔父上。私は大学寮で学ぶべきことは、もうあらかた学んでしまいました」


 大足は書見の手を止めた。「ほう。たいした自負じゃ」


「自負ではありませぬ。覚え、解し、作る。叔父上が仰せだった学問の段を、私はもう登りきってしまいました。なのに、何も満ちませぬ」


 大足はしばらく真魚を見ていた。やがて低く言った。


「やはり、おまえはそう来たか」


 咎める声ではなかった。いつか讃岐の浜の夜に「おまえが欲しがっておるのは階の上ではないらしい」と言った、あのときと同じ、何かを惜しむような響きだった。


「叔父上。学問のもっと奥は、ないのですか。覚えても、解しても、作っても掴めぬもの。それでもなお手を伸ばす値打ちのあるもの。そういうものは、この世のどこにあるのですか」


 大足はすぐには答えなかった。長い沈黙のあと、ぽつりと言った。


「わしには教えてやれぬ。それは学問の外にある。おまえはいずれ、そこへ行くのだろうな」


「学問の外、とは」


「さあな。経典のもっと向こうか、山の中か。わしの知らぬところじゃ。古来、官の道に背を向けてそういうものを求めた者もいたと聞く」大足は苦そうに笑った。「だが、真魚。覚えておけ。おまえには一族の願いが懸かっておる。位を得て佐伯の名を中央へ返す。それが、おまえを都へ送った者たちの望みじゃ」


「承知しております」


「承知しておって、なお外を見るか」


 真魚は答えなかった。答えれば嘘になりそうだったからだ。


 大足もそれ以上は責めなかった。ただ長いあいだ、灯を見つめていた。我が甥の才を官の道へ差し出さねばならぬ立場と、その才が官の道には収まらぬと見抜いている目。その二つが、この読書人のなかで静かにせめぎ合っているようだった。


 学問の外。


 真魚はその言葉を内に焼き付けた。昼に聞いたあの読経の声が、ふいによみがえった。聞いても底の見えなかった、あの響き。学問の外。もしかすると自分が探しているものは、そこにあるのかもしれない。


  *


 大学寮の門を、真魚はそれからも毎日くぐった。誰もが望む、官人への門。広く開かれ、その先には位の階がまっすぐに延びている。けれど、その門の内にもう探すものはない気がしていた。


 開かれた門の奥には、答えがない。閉じた門の奥にこそ、それはありそうな気がした。あの寺の、読経の声がした閉じた門。学問の外。まだ見ぬその方角へ、少年の心は少しずつ傾き始めていた。


 覚えても掴めぬものを探して、ここまで来た。その答えがもし学問の中になかったのなら、学問の外にこそあるはずだった。たとえそこへ行くために、いま登ってきた階をすべて下りることになろうとも。


 そう思うと、真魚の胸のうちで何かがひたと静まった。恐れに似た冷たさと、久しく忘れていたあの高鳴りとが、ひとつの息の下でわずかに拮抗していた。

 最後まで読んでいただきありがとうございました。


 第7話は、幻滅の回です。真魚は、大学寮で覚え・解し・作るの三段すべてに、易々と届いてしまいます。詩は博士に絶賛され、文章博士も夢ではないと言われる。なのに、詩を詠み終えた胸には、いつもの「窪み」が口を開けている。作ったものさえ、覚えた経と同じく、手をすり抜けていくのです。


 出世を嬉々として語る同輩に、真魚は何の軽蔑も抱きません。むしろ「階を昇ること自体が喜びになる心」を持って生まれた人を、羨ましいとさえ思う。自分には、それがない。


 そして帰り道、寺から流れる読経が、初めて彼の足を止めます。聞いても、聞いても、底が見えない。一度で何でも覚える耳が、その奥を掴みあぐねる。「覚えること自体を寄せつけぬもの」。ずっと探していた「すり抜けぬ何か」に、それは、よく似ていた。けれど寺の門は、まだ閉じています。次話、その門前で、真魚は、もう一つの「掴めぬもの」と、出会うことになります。

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