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明星、口に堕つ ― 空海、消えた七年  作者: KAMUI
1章 讃岐の麒麟児
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第6話 大学寮の門

大学寮の門をくぐったのは、数え十八の年であった。


阿刀大足の家に寄寓して、三年が過ぎていた。素読から始まり、一句ごとに意味を問われ、割られ、やがて詩を作り、文を綴ることまで大足の薫陶は、容赦がないかわりに、確かだった。覚えるだけだった真魚は、この三年で、覚えたものを「解する」すべを、ひととおり身につけた。


寮試りょうしは、難なく通った。明経みょうぎょうの科に入る。毛詩もうし尚書しょうしょ春秋左氏伝しゅんじゅうさしでん五経を講じ、官人を養成する、その道であった。



大学寮は、音の建物だった。


門をくぐると、いくつもの曹司ぞうしから、経を読む声が、重なって流れてきた。学生たちが、声を揃えて、一句ずつ素読する。その斉誦せいしょうの声が、廊を伝い、庭を渡り、建物じゅうに低く響いていた。讃岐の浜の音にも、都の市の喧騒にも似ぬ、整った、ひとつの大きな声。


真魚は、その音に、しばらく聴き入った。


ここでは、何百という若者が、同じ書を、同じ節で、声に出して読んでいる。それは、壮観だった。これだけの数が、学問へと向かっている。ならばこの奥に。難波で、都で、幾度もかすめたあの予感が、また胸をよぎった。



学びの日は、判で押したように過ぎた。


明け方から素読、昼に博士の講、午後には学生どうしの論議ろんぎ。十日に一度、旬試しゅんしがあって、覚えのほどを試される。春と秋には、釈奠せきてんといって、学問の祖たる孔子を祀る儀もあった。すべては整い、滞りなく回っていた。よく回る、大きな車輪のように。


その車輪の上で、真魚は、たちまち目立つ存在になった。



だが、数日のうちに、真魚は気づいた。


学生たちの多くは、貴族の子弟だった。


彼らの大半は、父祖の位によって、いずれおのずと官位を得る身であった。蔭位おんいという。五位以上の家に生まれれば、子は学ばずとも、ある位から官人として歩み出せる。彼らにとって、大学寮は、いわばはくをつける場所にすぎなかった。


真魚は、違った。


佐伯は、地方の豪族。郡司ぐんじの家柄ではあっても、蔭位の届く家ではない。真魚が官人になるには、学問で、試で、ひとつずつ、位のきざはしを勝ち取るほかなかった。だからこそ一族は、家の力のありったけを注いで、この子を都へ送ったのだ。


同じ曹司に座っていても、彼らと自分とでは、賭けているものが違った。



ある日、一人の同期が、真魚に声をかけてきた。


五位の家の子だという。物腰の柔らかい、人の好い若者だった。悪気は、まるでなかった。


「讃岐の出だそうだな。遠いところから、大儀なことだ」とその同期は言った。「しかし、おまえはよく励むな。私など、どうせ位はいただけるのだから、ここはほどほどでよいのだが」


どうせ位はいただける。


その一言を、真魚は、いつものように、一字も違えず内に焼き付けた。悪意はない。ただ、事実だった。この若者は、学ばずとも官人になる。自分は、学ばねば、何者にもなれない。


「励まねば、私には、何も残りませぬので」と真魚は言った。


同期は、はは、と軽く笑った。「殊勝なことだ」とだけ言って、行ってしまった。真魚の言葉の底にあったものには、たぶん、気づかぬまま。



学問そのものは、真魚を、すぐに頭角へ押し上げた。


博士が一度講じたことを、真魚は一度でそらんじた。そのうえ、大足に仕込まれた解釈の眼で、句の底を読んでみせた。明経の博士が、この讃岐の学生に目を留めるのに、時はかからなかった。


「佐伯の真魚と申したか」とある日、博士が言った。「おまえの覚えと解は、群を抜いておる。このまま励めば、寮試も省試しょうしも、おそらく難なく通ろう。位も、地方の出としては、望外のところまで昇れるやもしれぬ」


褒め言葉だった。同期たちの、羨むような、あるいは醒めたような視線が、ちらと集まった。


位も、望外のところまで。


真魚は、深く礼をした。けれど、その胸の底でまたあの、名のないくぼみが、ことりと鳴った。



あるとき、講経の席で、真魚は、博士に問うた。


その日の講は、尚書の一篇古いにしえの聖王が、いかに天下を治めたかを説くところであった。真魚は、すでにその篇を、隅々まで諳んじ、解していた。だから問うたのは、書のなかみではなかった。


「博士に、お尋ねしてもよろしいでしょうか。聖人が学を修めたのは、何のためで、ございましょう」


「何のため、とは」博士は、けげんな顔をした。「むろん、身を修め、家をととのえ、国を治めるためじゃ。学んで官に就き、世を治める。それが、聖人の道であろう」


「では、世を治め、位を極めたなら人は、満たされるのでございますか」


曹司が、しんとした。同期たちが、いっせいに真魚を見た。妙なことを訊く、という目だった。


博士は、しばらく真魚を見てから、ふっと笑った。


「真魚。それは、学問の問いではない。こころみには、出ぬぞ」


学生たちの間に、低い笑いが起きた。博士に、悪気はなかった。ただ、真魚の問いは、この場所の問いでは、なかったのだ。ここは、世を治める術を学び、位を得るための場所。「位を得て、満たされるのか」などという問いは、はじめから、誰の念頭にもなかった。


真魚は、礼をして、引き下がった。試には、出ぬ。その一言が、いつものように、内に焼き付いた。



夜、寄宿の部屋で、真魚は考えた。


昼の博士の言葉が、耳に残っている。位も、望外のところまで昇れる。それは、一族が、まさに望んでいることだった。佐伯の名を、中央へ。真魚が位を得るたびに、家の灯は、明るくなる。父も、母も、喜ぶだろう。


なのに、なぜ、窪みは鳴るのか。


真魚は、ようやく、ひとつのことに気づき始めていた。


大学寮は、覚えたものを、位に換える場所だった。経を覚え、解し、試に通り、階を昇る。誰もが、その階を、ひたすら昇ろうとしている。蔭位の子は箔のために、自分のような者は位そのもののために。だが誰ひとり、その階のいちばん上に何があるかを、問うてはいなかった。


昇りつめた先に、何があるのか。位を極めた人は、満たされているのか。それとも、そこにもまた、この窪みが、口を開けて待っているのか。


誰も、それを問わない。問うのは、自分だけだった。


遠い讃岐で、母は今朝も、潮の底で経を誦しているだろう。父は、息子が位を得る日を、静かに待っているにちがいない。その願いに、背くつもりは、なかった。位は、得る。得てみせる。ただ、それで終わりにできるとは、どうしても思えなかった。位の階を昇りながら、自分はきっと、別の何かを横目で探し続ける。そんな予感が、寝床のなかで、静かに濃くなっていった。



ふと、いつか大足が言った言葉を、思い出した。


おまえが欲しがっておるのは、どうやら、階の上ではないらしい。


あのときは、半ばしか分からなかった。いまは、少し分かる。皆が昇ろうとしている、この位の階。自分は、その階のいちばん上にあるものを、欲しいのではない。階そのものとは、まるで別の場所にある何かを、探している。


だが、それが何なのかは、まだ分からなかった。大学寮の、この整った斉誦の声のなかには、それは、なかった。覚えても、解しても、つかめぬもの。位の階を昇っても、たぶん、届かぬもの。


真魚は、まだ、それを探しあぐねていた。



大学寮の日々は、過ぎていった。


真魚は、与えられた書を、片端から覚え、解していった。毛詩も、尚書も、春秋左氏伝も。覚えるそばから、それらは、すらすらと身のうちに収まった。収まりすぎる、と言ってもよかった。


学問は、確かに、覚えるだけではなかった。解する深みがあった。だが、その深みもまた、真魚にとっては、いつか底の見えるものだった。一年が過ぎるころには、明経の道のひととおりを、真魚は見渡せるようになっていた。見渡せて、しまった。


覚えられるものは、やはり、覚えられてしまう。


そして、覚えられてしまうものの先にはあの窪みが、相変わらず、口を開けていた。


大学寮の門は、確かに、ひとつの世界へ通じていた。だがそれは、真魚が探していた世界では、なかったのかもしれない。


斉誦の声が、今日も、寮じゅうに響いていた。何百の若者が、同じ書を、同じ節で読んでいる。その整った声の、どこにも、真魚の問いに答えてくれるものは、なかった。

第6話、いよいよ大学寮です。何百人もの学生が声を揃えて経を読む「斉誦」の壮観そこに足を踏み入れた真魚が、すぐに気づくのは、賭けているものの違いでした。


当時、五位以上の貴族の子は「蔭位」といって、学ばずとも自然に官位を得られました。彼らにとって大学寮は箔づけの場。一方、地方豪族の子である真魚は、学問で一階ずつ位を勝ち取るしかない。同じ部屋に座っていても、まるで違う場所に立っているのですね。「どうせ位はいただける」と悪気なく言う同期に、真魚は何も言い返せません。生まれたところだけは、いくら覚えても手に入らないからです。


そして真魚は、学問でたちまち頭角を現しながら、こう気づきます。ここは「覚えたものを位に換える場所」だ。誰もが位の階を昇ろうとして、その階の上に何があるかは、誰も問わないと。問うのは、自分だけ。次話、その違和が、はっきりとした幻滅へと変わっていきます。「覚えられるもの」の、その先へ。

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