第9話 俊才
都で認められれば認められるほど、胸の窪みは、大きく鳴った。
真魚には、それが、どうにも解せなかった。
*
その日、大学寮の詩会で、真魚は一篇を課された。
題は「秋思」。漢詩の伝統的な題のひとつで、意味は「秋の物思い」。ありふれた題だ。だが真魚が詠み上げると、座は、しんと静まった。月を、雁を、都の秋を、たった数句のなかに畳み、しかも一字の飾りもない。読み終えても、しばらく誰も口をきかなかった。
「……見事な」と、年長の博士が、ため息のように言った。
「明経の学生が、文章道の者を越える詩を詠むか。佐伯、おまえは末が恐ろしい」
同輩たちが、いっせいに真魚を見た。羨望と、値踏みと、かすかな嫉みの混じった目で。
大学寮に入って、一年あまり。明経の講で博士が一句を問えば、真魚は即座にその底を解いてみせる。詩を詠めば、座が静まる。諸国から集まった俊才のなかで、讃岐から出てきた田舎者は、いつのまにか頭ひとつ、抜けていた。
望んでいたことのはずだった。学問で身を立て、位を得、佐伯の名を中央へ返す。それが一族の願いであり、真魚に懸けられた荷であった。その荷を、真魚は着実に、しかも軽々と、担ぎ上げつつあった。
なのに―担ぎ上げるほどに、胸の底のあの窪みは、ひやりと露わになっていく。
*
夏のはじめ、阿刀大足が、めずらしく改まった顔で、真魚を呼んだ。
「よい話がある」と大足は言った。「さる卿が、おまえの詩才に目を留められた。後ろ盾になろう、と仰せじゃ」
真魚は、その意味を、すぐに解した。
後ろ盾。―蔭位を持たぬ地方の出にとって、それがどれほどの意味を持つか。有力者の庇護があれば、任官の道は一気にひらける。寮試も、省試も、その先の位階も。讃岐の田舎者が望みうるかぎりの、上の上まで。
「果報なことじゃ」と大足は続けた。「学問で身を立てる者には、才のほかに、引き上げてくれる手が要る。おまえは、その手を、早くも掴んだ。一族が夢に見た『家の名を中央へ返す』が、いよいよ現になろう。―喜べ、真魚」
「……ありがとうございます」
礼を言う声が、自分でも、思ったより静かだった。
大足は、ふと目を上げて、真魚を見た。その目に、いつか讃岐の浜の夜に見せた、あの何かを惜しむような色が、また過った。
「浮かぬ顔じゃな」
「いえ」
「隠すな。わしは、いつぞや言うたな。おまえの渇きは、官の道では癒えぬかもしれぬ、と」大足は、低く言った。「あれから一年。おまえは、都でも、やはり同じ顔をしておる。位が近づくほど、遠い目をするようになった」
真魚は、答えられなかった。図星だったからだ。
「……叔父上」ようやく、真魚は言った
。「後ろ盾をいただき、位を得て、その先に、私は何を掴むのでしょう」
大足は、しばらく黙っていた。それから、諭すというより、独り言のように言った。
「それを、わしに訊くな。訊くべき相手は、たぶん、わしではない」
*
その夜、真魚は寝つけなかった。
後ろ盾を得る。位を得る。父が、母が、一族が胸を撫でおろす顔が、目に浮かぶ。それは、よいことだ。疑いようもなく、よいことのはずだった。
なのに、なぜ、窪みは鳴りやまないのか。
真魚は、ようやく、ひとつのことに気づきかけていた。望んだものが近づくほど、それが自分の探しものだとは、どうしても思えなくなる。位も、後ろ盾も、栄達も―手に入るとわかった途端、覚えた経のように、するりと色を失う。手に入るものは、手に入る前から、もう、掴めぬものに似ていた。
覚えられるものを、私は信じない。
いつか浜の夜に芽ばえた思いが、いまは、はっきりとした形をとりかけていた。覚えられるもの、手に入るもの、位に換えられるもの―そういうものの、ことごとくが、真魚には、信じるに足りなかった。
*
同輩たちの目も、変わっていた。
讃岐の田舎者が、蔭位<律令制の用語で、父や祖父の位階に応じて、その子や孫が最初から一定の位階を与えられる制度>の子らを追い抜き、有力者に見出された。あるとき、以前「どうせ位はいただける」と言った、あの人の好い同輩と、廊で行き合った。
「聞いたぞ。後ろ盾がつくそうだな」と、その同輩は言った。笑ってはいたが、目は笑っていなかった。
「たいしたものだ。田舎から出てきて、一年で、私たちを追い抜くとは」
「……運がよかっただけです」
「運、か」同輩は、少し黙った。
「おまえは、欲がないような顔をして、いちばん上まで行く。……羨ましいよ、まったく」
そう言い置いて、行ってしまった。真魚は、その背を見送りながら、また、あの音を聞いていた。羨まれている。追い抜いた。―なのに、胸の窪みには、何も届かない。届くのは、まるで別の音だった。
*
後ろ盾の話は、ほどなく、かたちを取り始めた。真魚は、その卿の邸で催された詩宴に招かれた。
初めて見る、上つ方の世界だった。灯がふんだんに焚かれ、都に名の知れた文人や貴族が、盃を交わしている。誰かが詩を詠めば、すかさず別の誰かが機知で応じ、座がどっと沸く。褒め、褒められ、その合間に、位の噂、縁組の噂、誰がどの卿に取り入ったという話が、絶え間なく行き交った。
真魚も、詩を求められた。詠めば、案の定、絶賛された。
「これはこれは」
「末恐ろしい」
称賛の声が、耳に心地よく降り積もる。
だが、盃を手にしたまま、真魚は、ひとつのことに気づいていた。
ここは、大学寮を、そのまま大きく、きらびやかにした場所だ。覚え、諳んじ、機知を返し、位の階を昇る。集まった誰もが、その階を昇ることに、露ほどの疑いも抱いていない。昇ることが、そのまま生きることだと、信じきっている。
その輪の中心で、真魚は、ひとり、場違いだった。称賛が耳に降り積もるほど、胸の窪みは、深くなった。ここにも、私の探すものは、なかった。むしろ、いちばん遠かった。
*
その音が鳴りやまなくなったのは、いつからだったろう。
あの、寺の門前で聞いた、低い経の一節。世を恃まぬ目をした女が、誰にともなく口ずさんだ、あの声。覚えたのに掴めず、消えもしない声。真魚は、いまでも、講のあいまに寮を抜けては、あの寺の門前に立っていた。
なぜ通うのか、自分でもうまく言えなかった。ただ、後ろ盾の話を聞いたその日から、足は、いっそう頻繁に、そちらへ向いた。栄達が近づくほど、あの鳴りやまぬ声のほうへ、逃げるように。
あの詩宴の帰りも、そうだった。きらびやかな邸を出て、大路を折れ、小路を抜けるうち、あたりは急に静かになる。灯の代わりに、月。機知の応酬の代わりに、どこかの寺から渡ってくる、低い読経。同じひとつの都が、裏返しのように、二つの世界を抱えていた。称賛の降り積もる世界と、掴めぬ声のする世界と。真魚の足は、いつも、後の世界を選んだ。
*
夏の盛りだった。
蝉の声が、都の甍の上に、幾重にも降り積もっている。真魚は、いつものように寺の門前に立って、内から流れてくる読経に、あの声が混じっていないかと、耳を澄ませていた。
その日、門は、半ば開いていた。
―境内の奥に、人影が見えた。
あの女だった。
回廊の隅で、誰を見るでもなく、夏の空を見上げている。束ねた黒髪。世を恃まぬ、あの目。真魚の足が、勝手に、半歩、門の内へ入りかけた。
女が、こちらを向いた。
目が、合った。
今度は、逃げなかった。逃げてはならぬ、と、なぜか思った。栄達の話も、後ろ盾も、位の階も―そのすべてを一年かけて手繰り寄せておきながら、真魚がいま、ほんとうに知りたいのは、この、名も知らぬ女の口ずさむ声の、ただそれだけだった。
真魚は、一歩、進み出た。
言葉なら、いくらでも操れる男だ。詩も、対策も、人を動かす一文も。だが、この女の前で口をひらくのは、生まれて初めて、恐ろしかった。覚えても掴めぬものに、自分から手を伸ばす、ということが。
女は、逃げも、招きもしなかった。ただ、真魚を見ていた。その静けさは、いつかと同じように、真魚の利発な身なりも、物を言いそうな口もとも通り越して、もっと奥の―名づけようのないあの窪みのあたりを、そっと見ているようだった。
真魚の耳が、自分の鼓動を拾った。幼いころ、母に抱かれて聞いた、あの速い鼓動を思い出すほどの。何でも一度で覚えるこの耳が、いまは、自分の胸の音にすら、追いつけずにいた。
気の利いた詩の一句なら、いくらでも出る。だが、それではいけない、と思った。この沈黙の前で、覚えた言葉を並べたてれば、きっと、すべてが台無しになる。
それでも―というより、だからこそ、真魚は、口をひらいた。
*
都で認められれば認められるほど、胸の窪みは鳴る。その音の行き着く先に、この女がいることを、真魚はまだ知らない。
知らぬまま、真魚は、栄達のほうにではなく、掴めぬ声のほうへ、たしかに一歩を踏み出していた。
蝉の声が、ふいに、遠くなった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。第二章「京の出会い」の始まりです。
第9話は、逆説から始めました。都で認められれば認められるほど、真魚の胸の窪みは大きく鳴る―。詩会で博士を唸らせ、後ろ盾の話まで舞い込み、蔭位を持たぬ地方の出には望外の栄達の道が、一気にひらけます。一族が夢に見た未来が、手の届くところへ降りてきた。なのに、当の本人だけが、浮かない顔をしている。
叔父・大足の「訊くべき相手は、わしではない」という言葉が、この回の鍵です。学問でも、位でも、後ろ盾でも答えの出ない渇きを、真魚はもう、自分でも隠せなくなっている。
そして彼の足は、栄達ではなく、あの寺の門前へ向かう。鳴りやまぬ、名も知らぬ声のほうへ。雄弁なこの男が、生まれて初めて、自分から沈黙に言葉をかけようとする―次話、二人はついに言葉を交わします。彼女の、静かな一言から。




