第10話 覚えられぬもの
真魚が口にしたのは、詩でも、気の利いた挨拶でもなかった。
「……いまの、経の一節を」と、真魚は言った。声が、われながら、みっともなく掠れていた。「どうしても、耳から、離れぬのです」
言ってしまってから、真魚は、うろたえた。何百の典拠を諳んじ、博士を唸らせる男が、たったこれだけの言葉を、しどろもどろに継いでいる。ほかの誰の前でも、こんなことは、なかった。
女は、すぐには答えなかった。ただ、真魚を見た。
やがて、問うた。
「あなたは、いつも、そうして人の声を覚えるのですか」
低く、澄んだ声だった。咎める響きはない。ただ、真魚の奥を覗きこむような問いだった。
「……はい」
真魚は、正直に答えた。
「一度、耳に入ったものは、消えませぬ。経も、漢籍も、人の話も。覚えようとせずとも、勝手に、残ってしまうのです」
そこまで言って、真魚は、いつもの癖で、言葉を継ぎ足しかけた。この耳の業がいかに珍しいか、旅の僧が驚き、都の博士が舌を巻いたか―そういう、人を感心させる一節を。だが、女の目を見て、途中で、やめた。この人の前で、そんな飾りを並べても、意味がない。そう思わせる何かが、その眼差しにはあった。
女は、真魚が言葉を呑んだのを、見ていた。そして、また問いを重ねた。
「では、覚えたものは、あなたのものに、なりますか」
真魚は、息を呑んだ。
誰にも、そんなことを訊かれたことはなかった。覚えのよさを、人は羨むか、褒めるか、恐れるかした。「宝じゃ」「末が恐ろしい」―そう言った者は、いくらでもいる。
だが、「それは、おまえのものになるのか」と問うた者は、ただの一人も、いなかった。
「……なりませぬ」
真魚は、低く言った。「覚えた途端に、すり抜けてゆきます。手に入った気が、いたしませぬ。ずっと、そうでした」
女は、うなずきもしなかった。ただ、真魚を見ていた。その沈黙は、真魚の言葉の一つひとつを、そのまま受け止めて、底へ沈めていくようだった。言葉の巧みさよりも、その言葉の下にあるものを、聴いているようだった。
そして、言った。
「あなたは、覚えられぬものが、欲しいのですね」
真魚は、その場に、立ち尽くした。
*
蝉の声が、遠のいた。
生涯かけても、言葉にできなかった。讃岐の浜の夜からずっと、胸の底に抱えてきた、名のない窪み。覚えても掴めぬもの。すり抜けぬ何か。真魚は、それを、いくつもの言い方でなぞろうとしては、そのたびに、うまく言えずにきた。雄弁なはずの自分が、その一点だけは、どうしても言葉にできなかった。
それを、この女は―名も知らぬ、寺の隅の女が、たった一息で、言い当てた。
覚えられるものではなく、覚えられぬものが欲しい。真魚がずっと欲しがってきたのは、まさに、それだった。誰にも見えなかった胸の窪みの形を、この人は、こともなげに、言葉で象ってみせた。
真魚は、初めて、見られた、と思った。覚えのよさではなく、その奥の空っぽを。羨まれるのでも、恐れられるのでもなく、ただ、正しく、見られた。
*
「……なぜ、お分かりになったのです」真魚は、ようやく訊いた。「私の、その、胸の裡のことが」
女は、しばらく、暮れてゆく空へ目をやっていた。
「あなたの言葉は、たくさんで、巧みでした」と、女は言った。「けれど、たくさん喋る人ほど、いちばん言いたいことを、言わずにおくものです。わたくしは、その、言われなかったところを、聞いておりました」
言われなかったところを、聞く。―真魚は、胸を突かれた。自分は、一度聞いた言葉を、片端から覚える。だがこの女は、言われなかった言葉のほうを、聴くのだ。ちょうど、逆の耳を持っているように。
「あなたは、覚える人。わたくしは、聞かぬ声を、聞く女」女は、かすかに笑った。「似たような、はぐれ者どうしかもしれませぬ」
*
「……あなたは、どなたなのです」
ようやく、真魚は訊いた。声が、また掠れた。
女は、答えなかった。代わりに、かすかに口もとをゆるめた。初めて見せた、笑みらしきものだった。
「名乗るほどの者では、ございませぬ」と、女は言った。「世に出ることを、許されぬ身です。それだけの女です」
その一言の底に、深いものが沈んでいるのを、真魚の耳は感じ取った。だが、それが何であるかは、読めなかった。ちょうど、旅立ちの朝に聞いた母の声の底が、読めなかったように。訊いてはならぬ、と、そのおだやかな目が言っていた。
世に出ることを許されぬ、とは、どういう来し方なのか。真魚には、想像もつかなかった。ただ、この女の静けさが、生まれ持ったものというより、何かを諦めきった果てに得たものであることだけは、その声の底から、伝わってきた。
「わたくしのことは、よいのです」女は続けた。「それより―あなたは、その『覚えられぬもの』を探しに、この都へ来られたのでしょう」
図星だった。真魚は、まだ、讃岐のことも、大学寮のことも、ひとことも話してはいない。なのに、この女は、真魚の来た道を、まるで見てきたように言い当てる。
「……佐伯、真魚と申します」
せめて、名だけでも。そう思って、真魚は名乗った。
女は、その名を、口の中で一度だけ、なぞったようだった。だが、自分の名は、言わなかった。
*
どこか、堂の奥のほうで、女を呼ぶ声がした。年老いた尼のような、低い声だった。
女は、目を伏せ、音もなく立ち上がった。
立ち居のひとつひとつに、やはり、この寺には不似合いな品があった。世に出ることを許されぬ、と女は言った。だが、その所作は、むしろ世の中心にいた者のものだ―真魚は、そう感じた。感じたが、口には出さなかった。
去り際、女は、一度だけ振り返って、言った。
「覚えられぬものは、たぶん、覚えようとするうちは、見つかりませぬ」
真魚が、その意味を問い返すより早く、女は、衣の裾を引いて、回廊の奥へ消えた。
あとには、蝉の声と、鐘の余韻の名残と―もう一つ、真魚の耳の裡に、新しい声が残された。
「あなたは、覚えられぬものが欲しいのですね」
その一言は、あの経の一節と同じように、いや、経よりも深く、鳴りやまなかった。覚えたのに掴めず、消えもしない。手に入らないのに、手放せない。真魚が、この寺で、二度目に持ち帰る「掴めぬもの」だった。
*
寺を出ると、日は、暮れかけていた。
真魚は、大路を、ゆっくりと歩いて帰った。頭のなかでは、女の言葉が、幾度も繰り返されていた。覚えられぬものは、覚えようとするうちは、見つからぬ。
妙な言葉だった。真魚は、生まれてこのかた、覚えることでしか、ものに触れてこなかった。覚えて、諳んじて、解して、また覚える。それが、真魚の世界の触れ方だった。その、覚えるという手つきそのものを、あの女は、そっと止めてみせた。―覚えようとするな、と。
では、どうすればよいのか。覚えるという手を止めて、いったい、何を。
ふいに、母の声が、遠くでよみがえった。「覚えるのではなく、身に、宿すのです」。
あの言葉と、いまの女の言葉とが、真魚のなかで、重なった。仏間の母。書物の山の大足。そして、寺の隅の、名も知らぬ女。三人が、まるで示し合わせたように、同じ一点を指していた。覚えることの、その先。覚えようとしては、掴めぬもの。
ただ、母や大足と、あの女とでは、ひとつだけ、違うところがあった。母は仏の道を、大足は学問を―真魚の外にある何かを指し示した。だが、あの女は、言葉で何かを指すというより、ただ、真魚自身を見た。道を示すよりも、その道を求める男のほうを、見透かした。その眼差しだけが、覚えても掴めぬもののように、真魚の裡で、いつまでも鳴りやまなかった。
*
名も知らぬ。素性も知らぬ。言葉を交わしたのは、ほんのわずかだった。
だが、生まれて初めて、誰かが、真魚の胸の窪みを、言葉にして見せた。覚えのよさを羨む者はいても、その奥の空虚を見た者は、母のほかに、いなかった。いや、母でさえ、それを名づけはしなかった。名づけたのは、あの女が、初めてだった。
真魚は、また来よう、と思った。
あの声を、もう一度聞くために。あの女が、次は自分の何を見透かすのかを、確かめるために。栄達の道も、後ろ盾も、位の階も―そのどれもが遠ざかり、真魚の心は、あの寺の、あの静かな目のほうへ、まっすぐに傾いていた。
それが、いつか、道を求める心と正面からぶつかることになるとは―このときの真魚は、まだ、思ってもみなかった。
ただ、その夏、真魚は、幾度も寺へ通った。そして、女もまた、幾度か、あの回廊の隅にいた。
二人の、長いすれ違いは、この夏から、始まった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第10話で、ついに二人が言葉を交わします。雄弁な真魚が、詩でも挨拶でもなく、みっともなく掠れた一言しか継げない―その不器用さこそ、この物語の芯です。彼は、誰の前でも言葉に困らない男が、この人の前でだけ、言葉を失う。途中で「珍しい才」を並べて感心させようとして、やめてしまう。飾りが通じない相手だと、直感したのですね。
そして彼女は、真魚が生涯かけて名づけられなかった胸の窪みを、たった一息で言い当てます。「あなたは、覚えられぬものが欲しいのですね」。覚えのよさを羨まれることはあっても、その奥の空虚を見抜いた人は、母のほかにいなかった。しかも母でさえ、名づけはしなかった。彼女だけが、名づけた。
去り際の「覚えられぬものは、覚えようとするうちは、見つかりませぬ」は、母の「身に宿す」と、静かに響き合います。覚えることでしか世界に触れてこなかった真魚に、初めて、覚えるという手を止める人が現れた。名も素性も、まだ伏せておきます。次話、世に出られぬ者どうしの、奇妙な共鳴が始まります。




