第11話 弾かれた者たち
蝉の声が終わって、寺の境内には、秋の虫が鳴くようになった。
真魚は、あいかわらず通っていた。女がいる日と、いない日があった。いつ来て、いつ去るかは誰にも分からぬ、と老僧は言ったが、そのとおりだった。回廊の隅にあの姿を見つけられた日は、それだけで、一日の色が変わった。
いない日は、境内の音だけを聞いて帰った。読経、鐘、掃き寄せられる落葉。どの音もいつものとおりに耳へ入り、いつものとおりに残る。ただ、探している声だけが、そこにない。何百の音を拾える耳が、たった一つの声の不在ばかりを、拾ってしまう。覚えのよさとは、こういうときには、ただの拷問だった。
その日、門をくぐると、女は先にいた。そして、真魚が声をかけるより早く、こちらを見ずに言った。
「今日は、早うございましたね」
真魚は、足を止めた。まだ、砂利を踏む音しか立てていないはずだった。
「……なぜ、私と」
「足音で、分かります」女は、こともなげに言った。「あなたの足は、少し急いで、門の手前でわざわざ、ゆるめられますから」
真魚は、返す言葉を失った。足音で人を聞き分けるのは、幼いころからの、自分の癖だった。讃岐の館で、縁者たちの足を聞き分けていた、あの耳の業。それと同じことを、この女は、なんでもないことのように、していた。
―やはり、逆の耳だ、と真魚は思った。自分は、聞いたものを覚える。この女は、聞こえるものの底を、聴いている。
*
「今日は」と、女は言った。「大学の話を、してくださいまし」
女のほうから何かを請うたのは、初めてだった。
真魚は、少し驚き、それから、話した。飾らずに話せる相手は、この人しかいなかった。
入学の日の、束脩の礼のこと。十束の干し肉と壺の酒を捧げ、師には布を一端ずつ納め、皆で酒食を共にする、あの古めかしい儀式のこと。何百の学生が声を揃える斉誦のこと。十日ごとの試のこと。
「干し肉を、十束も」と女は言った。「先生がたは、そんなに召し上がるのですか」
「さあ。私の見たかぎり、博士がたは肉より、酒のほうを熱心に召されておりました」
女が、袖の陰で、小さく笑った。真魚は、われながら妙なことに気づいた。詩宴であれほど気の利いた句を並べても、誰かをこんなふうに笑わせたことは、一度もなかった。飾らない話のほうが、人を笑わせる。この人の前では、いつも、そうだった。
「面白いのは」と真魚は言った。「席次です。大学では、学生の座る順は、家の位ではなく、歳の順で決まるのです。長幼の序、と申します。五位の家の子でも、年下なら、私より下座に座る」
「まあ」
女が、小さく声を立てた。目が、わずかに見ひらかれていた。
「では―生まれは、席を決められないのですね。その場所では」
なんでもない相槌のようだった。だが、その声の底に、かすかに揺れるものがあるのを、真魚の耳は拾った。生まれが、席を決めない場所。それは、この女が、生涯入ることを許されぬ場所の話でもあった。生まれが、何もかもを決めてしまった人の前で、真魚は、自分の迂闊さに気づいた。
「……申し訳ありませぬ。私は」
「いいえ」女は、首を振った。「よい話を、聞きました。世のどこかに、そういう場所が一つでもあるのなら、世は、わたくしが思うているよりは、ましなのでしょう」
*
それから、女は、しばらく黙って、庭の秋草を見ていた。
やがて、問うでもなく、言った。
「あなたは、その大学がお嫌いなのに、なぜ、通っておいでなのです」
「嫌い、では―」言いかけて、真魚は、やめた。この人の前で、言い繕っても仕方がない。「……分かりませぬ。ただ、あそこにいると、息が詰まります。皆が同じ階を昇ろうとしていて、私も、その列に並ばされていて。列を離れる理由も、まだ、見つからぬのです」
「並ばされて」と、女は、その一語だけを、静かに繰り返した。
「あなたは、押し出されてゆく人なのですね」やがて、女は言った。「一族に、都へ。都で、位の階へ。世の真ん中へ、真ん中へと、押し出されてゆく。―わたくしは、逆です。生まれた時から、外へ、外へと、弾かれて。世に出ることを許されず、この寺の隅に、置かれている」
女は、そこで、ふっと真魚を見た。
「反対なのに、あなたは、わたくしと同じ顔をなさる」
「同じ、顔」
「ええ。自分の居場所を、自分で選んだことのない人の顔です」
真魚は、雷に打たれたように、その場に座っていた。
中へ弾かれる者と、外へ弾かれる者。押し出される者と、締め出される者。向きは逆でも、どちらも、おのれの足で立つ場所を、選べたことがない。讃岐の浜からずっと、家の名を負わされ、期待の風に押されて、ここまで来た。この女は、その逆の風に、吹き飛ばされて、ここにいる。
はぐれ者どうし、と、いつか女は言った。その意味が、いま、初めて、腑に落ちた。
*
日が傾いて、真魚が暇を告げようとしたときだった。
「あの―」
と言いかけて、真魚は、詰まった。
呼びかける名が、ないのだった。いつも、そうだった。「あの」「もし」―そのたびに、名のない呼びかけが、二人の間の距離を、そのままの形で突きつけてくる。名を知らぬ相手に、人は、どこまでも他人でしかいられない。
女は、真魚の詰まりの意味を、察したようだった。目を伏せて、言った。
「名は、申せませぬ。……申してよい身では、ないのです」
「存じております」真魚は言った。それから、思い切って、続けた。「本当の名でなくて、よいのです。ただ―私だけが呼ぶ名を、贈らせていただけませぬか」
女が、顔を上げた。
真魚は、その目を見て、言った。ずっと胸の中で、あたためていた言葉だった。
「汀、と。……お呼びして、よいでしょうか」
「みぎわ」
女は、その三つの音を、口の中で、ひとつずつ、なぞった。いつか真魚の名を受け取ったときと、同じ仕草だった。言葉を、味わうように。沈めるように。
「波が寄せて、返る、あの際の名です。私の生まれた家は、讃岐の、浜の近くにありました。幼いころ、覚えた字を、あの汀の砂に書いては―波に、消されました。何度書いても、消されました」
「……消されて、しまうのに」
「消されても、また書きたくなる場所でした」
言ってから、真魚は、自分がいま、何を言ったのかに気づいて、耳の先が熱くなった。だが、言い直さなかった。それは、たぶん、いままで口にしたどの言葉よりも、正直な言葉だった。
女は、しばらく、黙っていた。
それから―笑った。初めて見る、ためらいのない笑みだった。夕暮れの回廊の薄闇のなかで、その顔だけが、ふっと明るんだ。
「では」と、女は言った。「あなたの前でだけ、汀でおります」
その声を、真魚の耳は、拾って、焼き付けた。いつものなりわいだ。だが、今度のそれは、経の一節とも、詩の一句とも、違う音がした。低く、澄んで、そのくせ、どこか一箇所だけ、かすかに震えていた。喜びの震えか、別の何かか―例によって、声の底までは、読めなかった。読めなかったが、その震えごと、真魚の内に、深く沈んだ。
*
帰り道、真魚は、胸の中で、一度だけ、その名を呼んでみた。
汀。
呼べば、応える人がいる。それだけのことが、都じゅうの称賛よりも、重かった。
歩きながら、真魚は、奇妙なことに気づいていた。
言葉は、これまで、覚えるものだった。耳から入り、内に焼き付き、諳んじられ、並べられ、人を感心させる。詩も、対策も、みなそうだ。入ってくるものであり、使うものだった。
だが、今日の言葉は、違った。
贈ったのだ。生まれて初めて、言葉をひとつ、自分の手から放して、人に渡した。汀―あの一語は、もう自分のものではない。あの人のものだ。そして、不思議なことに、手放したはずのその言葉だけが、覚えたどの言葉よりも確かに、胸の内に残っている。すり抜けて、いかない。
覚える言葉は、すり抜ける。贈った言葉は、残る。
それが何を意味するのか、真魚には、まだうまく考えられなかった。ただ、大路の家々に、秋の灯がひとつ、またひとつと入ってゆくのを見ながら、思った。母の言う「宿す」に、今日、ほんの少しだけ、指先が触れたのかもしれない、と。
―あなたの前でだけ、汀でおります。
その言葉の、「あなたの前でだけ」の底に、何が沈んでいたのか。喜びと聞くには、あれは、少し静かすぎた。
真魚は、まだ、その意味を半分しか分かっていなかった。分からぬまま、秋の灯の連なる都を、寺とは逆の方角へ、歩いて帰った。懐のどこにも入れていないのに、贈った名だけが、行きよりも確かな重さで、胸のあたりにあった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第11話は、「弾かれた者たち」。世の真ん中へ押し出されてゆく男と、世の外へ弾き出された女―向きは真逆なのに、「自分の居場所を自分で選んだことのない人の顔」が同じだと、彼女は見抜きます。はぐれ者どうし、という前話の言葉が、この回でようやく腑に落ちる。
そして、名前です。本当の名を明かせない人に、真魚は、自分だけが呼ぶ名を贈ります。汀―波が寄せて返る、あの際の名。幼い彼が、覚えた字を書いては波に消された、あの場所の名です。「消されても、また書きたくなる場所でした」。これは、たぶん彼の生涯でいちばん正直な、告白のような一言でした。
覚える言葉はすり抜けるのに、贈った言葉は残る。何でも覚えてしまう男が、初めて言葉の別の使い方を知った夜です。ただ、彼女の「あなたの前でだけ」の底に沈んでいたものを、彼はまだ半分しか分かっていません。次話、彼女の側から、この日々がどう見えていたのかを、少しだけ。
汀の名を、どうぞ覚えてやってください。




