第12話 言葉を失う
鐘がひとつ撞かれると、その余韻が消えるまで息を三つするほどの間がある。
汀は、それを知っている。この寺に来て、いくつめかの冬が近い。堂の雨戸が立てられる音、老尼たちの衣擦れ、夕べの勤行の声。この境内の音という音を、汀はもう聞き飽きるほど聞いた。音そのものよりも、音の引いたあとに残るもののほうを聴いて日々をやり過ごすことをいつからか覚えた。
世に出ることを許されぬ身に、待つものは何もない。求めず、待ちもしない。そう己に言い聞かせて、この静けさを住処にしてきたはずだった。
このごろ、汀の耳は勝手なことをする。
門のほうで砂利の鳴る音がすると、聴き分けようとするのだ。参詣の年寄りの重い足か。寺男の引きずる足か。それとも少し急いで、門の手前でわざわざゆるめられるあの足か。
あの足音であった日、自分の呼吸がわずかに変わることを、汀はもう知ってしまっている。
*
長く己を戒めてきたその言い聞かせが、いつ、どこから崩れ始めたのか。汀は幾度か考えて、そのたびにやめた。考えれば、認めることになる。認めれば、あとは坂を転がるだけだ。転がった先に何もないことを、この身の上はよく知っている。
それでも耳は待つ。
雨の日だった。朝から境内に人の気配は薄く、雨音だけが濃かった。軒先の雫が敷石の窪みに落ちて小さな輪をひろげては消えていた。蔀を打つ雨の音を聞きながら、汀は、今日はあの人は来ないと思った。思ってから来ないと当たり前に考えている自分に気づいて、針で刺されたようにうつむいた。
いつのまに、来ることが当たり前になったのか。
*
先だって、老尼に言われた。
「近ごろ、顔の色が、よろしゅうございますね」
何気ない一言だった。この寺で長く汀の世話をしてくれている、腰の曲がった、皺の中の目のやさしい人だ。他意など、なかったろう。それでも汀は返事に一拍遅れた。
「秋の気が、肌に合うのでしょう」
老尼はそれ以上、何も言わなかった。ただ湯呑みを置くその手つきが、ほんの少しだけゆっくりになった。気づかれている、と汀は思った。この人たちは、言わないだけだ。世に出られぬ客人の身に、何が起きてよくて、何が起きてはならぬか。この寺の誰よりも、よく知っている人たちだから。
顔の色に出るほどのことに、なっている。
その事実のほうが、老尼の言葉より汀にはこたえた。
*
あの人は、真魚さまは妙な人だ。
都で名を上げている俊才だと、老尼たちの噂で聞いた。詩を詠めば座が静まり、巨勢の卿が後ろ盾につくのだと。言葉の人なのだ。言葉で人を動かし、言葉で位の階を昇ってゆく人。
なのに、汀の前ではあの人は言葉が少ない。
無口な人、というのとは違う。大学の話も、讃岐の話も、頼めば飾らずに話してくれる。おかしな話で、笑わせてもくれる。けれど、肝心なところに来ると、言葉が止まる。言いかけて、やめる。掠れる。あれほど言葉を持っている人が、汀の前でだけ手ぶらになる。
そして汀は、その止まった言葉を聴いてしまうのだった。
人の言葉の、言われなかったところを聴くのは、幼いころからの汀のなりわいだ。大人たちが言葉の裏に隠すもの、笑みの下に沈めるもの。それを聴き分けなければ生きてこられない場所に、汀は生まれてしまった。だから、あの人の途切れの奥に何があるかも、耳が勝手に拾ってしまう。
塞ぎたくても塞げない耳だった。
あの言いかけの先にあるものは、たぶんわたくしに向けられた言葉だ。
それに、と汀は、認めたくないことをもうひとつ認める。
覚えてしまっている。あの人のことを。
話すとき、言葉を探して視線がわずかに左へ流れること。笑う前に一度、息を小さく呑むこと。讃岐の話になると、語尾にかすかに国の訛りが戻ること。帰り際、門を出る手前で一度だけ振り返りかけて、やめること。覚えようとしたわけでは、断じてない。なのに、残っている。ひとつ残らず。
あの人は、一度聞いたものを忘れられないと言っていた。それを、才と呼ぶ人も、業と呼ぶ人もあろう。けれど、いまの汀には分かる。覚えようとせずに覚えてしまうものとは、つまりそういうものなのだ。
*
その日、真魚さまは夕暮れ前に来た。
雨上がりの、濡れた砂利の音で分かった。軒の雫が、まだぽつぽつと石を打っていた。回廊の端に座って、いつものようにぽつり、ぽつりと話した。大学の試のこと。近ごろ読んだ書のこと。それから、ふいに話が途切れた。
「汀どの」
名を、呼ばれた。贈られた名をその人の声で呼ばれるたび、胸の奥の長く使っていなかった場所がきしむように動く。
「はい」
「……いえ」真魚さまは少し黙って、それから笑った。「何でも、ありませぬ。呼んでみたかっただけです」
嘘だ、と汀は思った。
いまのは、言いかけて、やめた声だ。呼んでみたかったのは、本当だろう。けれどその前に、何かが言葉になりかけて、呑み込まれた。その呑み込む音まで、汀の耳は拾ってしまった。
訊かない。
いま何を言いかけたのですか、と訊けば、あの人は答えてしまうかもしれない。言葉の人だ。訊かれれば、言葉にしてしまう。そして言葉になったら、もう戻れない。
だから汀は、言われなかった言葉を言われなかったまま、そっと受け取って沈めた。
「……変な方」
と、それだけを言った。真魚さまは、困ったように笑った。その笑い方がまた、胸のきしむ場所に触れた。
*
あの人が帰ったあと、汀はひとり回廊に残って、暮れてゆく空を見た。回廊の板は、衣を通してもう夜の冷えを含み始めていた。
贈られた名のことを思った。
汀。波が寄せて返る、際の名。消されても、また書きたくなる場所。あの人は、そう言った。あのとき、汀は自分の声が震えるのを抑えられなかった。名を持たぬ者として生きよ、と言われてきた身に、名をくれた人。それも、本当の名を訊き出そうとはせず、名を明かせぬ事情ごと包むような名のくれ方をした人。
嬉しかった。それは認める。
けれどあの晩に汀が「あなたの前でだけ、汀でおります」と言ったのは、喜びだけからではなかった。
あれは線を引いたのだ。この名は、あなたの前でしか生きられない。わたくしという者が、あなたの前でしか生きられないように。門の外の世で、あなたの隣に立つ日は来ない。それを、名を受け取るのと同じ息で自分に言い渡した。
*
なぜなら、聴こえているからだ。
あの人の底で鳴っているものが。
あの人はわたくしに言葉を失っているけれど、あの人の渇きは、わたくしよりもずっと遠いところを向いている。覚えられぬもの。覚えても掴めぬもの。あの人自身まだ名づけられずにいる、あの深い飢え。それは、女ひとりで満たせるようなものではない。あの人は、いつか行く。どこか、わたくしの知らぬ遠いところへ。
行くべき人なのだ。
もし、わたくしがこの想いを言葉にしたら。あの人は言葉の人だから、受け取ってしまう。受け取って、立ち止まってしまうかもしれない。この寺の隅の、世に出られぬ女のところで、あの大きな飢えごと足を止めてしまう。
それだけは。
誰かの道を、この身が曲げてしまうこと。それだけは、と汀は思う。生まれてこのかた、自分のためには何ひとつ願わずに来られた。けれどこれだけは、願いというより恐れだった。
だから言葉にしない。
言葉を失っているのは、あの人だけではない。わたくしも、失っている。いや、失っているのではない。手放さずに、握って、沈めている。あの人が言いかけてやめるたび、わたくしも言いかけずに、やめている。
二人とも、同じ沈黙を抱えている。
*
堂の奥で、老尼の呼ぶ声がした。灯明の支度の刻限が、もう来ていた。渡り廊の先から、灯心のにおいがかすかに流れてきていた。
汀は立ち上がり、衣の裾を直していつものように音もなく歩き出した。歩きながら、耳の底で今日の声をもう一度聴いた。
――呼んでみたかっただけです。
言われなかった言葉は、消えない。言われた言葉より、ずっと長く内で鳴り続ける。それを、汀は誰よりも知っている。
冬が近い。朝ごとに水瓶の水は冷たさを増している。
表の世は、あの人を放ってはおかないだろう。俊才には、俊才の道が敷かれる。後ろ盾、位階。それから、そういう歳の男に世が次に運んでくるものを、汀は知っている。
その日が来たら、わたくしはちゃんと笑えるだろうか。
求めず、待ちもしない。
長く自分を支えてきたその言葉を、汀は胸の中でもう一度唱えてみた。唱えて気づいた。言葉は同じでも、意味が変わってしまっている。前は盾だった。いまは祈りに近い。求めてはならない。待ってはならない。そう祈らねばならぬほどには、もう求めて、待っている。
鐘がひとつ鳴った。汀は足を止めず、ただその余韻が消えるまでの息三つ分の間だけ、目を閉じて歩いた。




