第78話 帰山を促す手紙
経珍は、日の落ちるまで山門の外にいた。
暮れ方に、空海は縁から見た。石から腰を上げ、山門のほうへ一礼して、それから坂を下りていった。返事は、渡らなかった。持ち帰る役だと言われて来た男が、手ぶらで七年ぶんの坂を下りていく。その背が杉の間に消えるまで、空海は立っていた。
文を読んだ日から、泰範は変わった。
行は続けていた。続け方が変わった。それまでの行は、登る行だった。深みへ向かう足取りが、傍から見ても分かった。文のあとの行は、沈む行だった。同じ座り方、同じ声。それなのに堂の空気が違う。逃げ込むための行と向かうための行は、同じ形をしていても匂いが違う。
食が細くなった。
膳の減り方でそれは分かった。房の灯は夜半を越えて点り、朝に房の前を通ると反故が増えていた。雨の降った翌朝は、丸めた紙が湿って、ひとりでに開きかけていた。書こうとしては、いる。書きかけては丸め、また書きかけている。言い切れない男が、生涯でいちばん言い切りの要る返事の前に座り続けていた。
山のみなも気づいていた。気づいて、いつものとおり誰も口にしなかった。若い弟子たちは薪の束を音を立てずに置き、膳を運ぶ足音を落とした。誰の差配でもなく、山全体が声をひとつ小さくしていた。
空海は、待った。
七日、待った。せかす言葉はひとつも掛けなかった。掛ければ、あの反故の山がまたひとつ増えるだけである。五月の雨が幾夜か、房の屋根を低く叩いて過ぎた。夜が更けるたび、山の闇はあの房の灯をひとつ残して深くなった。八日目の夜、房の外に足音が来た。
「夜分に、恐れ入ります」
泰範だった。手に、あの厚い文を持っていた。声を掛けるまでに、廊で長く立っていたらしい肩をしていた。
「お読み、いただけましょうか」
人の文を師に見せることがこの生真面目な男にとってどれほどの覚悟か、差し出す手の硬さが語っていた。空海は黙って受け取り、灯を寄せた。開けた戸の外から、雨あがりの土の匂いが入ってきていた。
*
端正な字だった。
その端正な字が、いつもよりわずかに乱れていた。急いで書いた乱れと違う。抑えて書いて、抑えの利かなかった乱れである。字が人なら、この字は正座を崩すまいとして肩の震える人だった。
文は、長かった。
劣を捨てて勝を取るのは世の習いだけれども、と書いてあった。法華の一乗と真言の一乗に、何の優劣があろうか。ひとつの乗り物の、ふたつの呼び名にすぎぬ。同法同門、まさに善友と名づくべきもの。ならば共に、この国の法のために働こう。山はあなたを待っている。堂も学生たちもあなたの席も、あの頃のままにしてある、と。
生年すでに半ばを過ぎ、と終わりのほうに書いてあった。
余命は、多くない。命のあるうちに、法のかたちを整えたい。あなたの力が、要る。
帰れ、とは書いていなかった。
帰ってくれ、と書いてあった。命じる形の一行もない。一宗を興した人が、ひとりの弟子に、位も体面も脇に置いて頼んでいる。五十を数えた人の、これは恥を捨てた手紙だった。恥を捨てられるほど、切実だった。
そして、恨み言がひとつもなかった。
三年である。三年、この弟子は返事らしい返事をよこしていない。一行の近況で三年の沈黙を通した弟子に、恨みの一字がない。責めるどころか、なぜ帰らぬのかと問うてさえいない。ただ待っている、力が要る、と。
恨み言のないことが、この手紙のいちばん重いところだった。
読みながら、紙を繰る手が重くなった。義理を知らぬ者が読めば、ただの長い便りである。泰範には、刃のない刃物である。そして、おのれには。
責める手紙なら、防ぐ場所がある。責めの一句に傷ついてみせるのが、こちらの盾だった。この手紙には、盾を当てる場所がどこにもない。全面が、まことでできている。
*
読み終えて、空海はもうひとつのことに気づいた。
この手紙は、泰範ひとりに宛てられたものと違う。
法華の一乗と真言の一乗に、何の優劣があろうか。その一句は弟子への説得の形をして、高雄の山主への問いでもあった。顕と密に浅深あり。それが、おのれの立場である。理趣の釈を断った書も、その立場の上に立っていた。優劣なし、とあの人は書く。ならば真言の山に留まる理由はない、比叡に帰っても失うものはない、と。弟子への頼みの中に、あの人は最後の問いを埋めてきた。
答えれば、論争になる。
答えなければ、黙認になる。
あの人の誠実は、追い詰める気など髪の先ほども持っていない。持っていないまま、その誠実の全部がこちらの喉元に届いている。誠実と誠実の間で、根だけが静かに伸びていた。
*
文を膝に置くと、泰範が畳に手をついた。
「書けませぬ」
声が、低かった。
「幾晩も、書きました。書いては、破りました。帰れませぬ、とだけ書けば、この御文への答えになりませぬ。理由を書けば、比叡と、高雄を……比べる言葉になりまする。比べる言葉だけは、書けませぬ。ですが、書かねば」
言葉が、そこで途切れた。
「書かねば、何です」
と、空海は言った。突き放す気はなかった。この男が自分の口で言い終えるところまでは、連れていきたかった。
泰範は畳に目を落としたまま続けた。
「拙僧の言葉では、師を、これ以上傷つけずに断る道が、見つかりませぬ」
語尾が、折り返らなかった。この男の語尾が最後まで届くのを聞くのは、二度目である。一度目は、あちらでは学びました、こちらでは触れてしまったのです、と言った日だった。口でなら、この男は比べる言葉を一度、言い切っている。書けぬと言っているのは、筆でだけだった。
そして、頭を下げた。
「お願いに、上がりました。返事を、書いていただけませぬか。拙僧の名で」
*
空海は、すぐに答えなかった。答えられなかった。
返事は、あなたが書くように。
三年前、この弟子にそう言った。比叡から帰山の日取りを問う文が来て、空海が文をそのまま渡したときである。預かりものの去就は、預けた人と預かりものの間で決めることだと思っていた。間に立つ者が代わりに書いてよい返事ではない、と。恋文の代筆で生きた男だから、それを言う資格があると思っていた。人の名で書く言葉の重さも、届く力も、届いたあとに残るものも全部知った上で、この弟子にはおのれの言葉で立ってほしかった。
あのとき泰範は、はいとだけ言った。短い返事だった。その夜、房の灯は遅くまで点いていた。翌朝、書けましたかと問うと、いま少しと言った。その語尾が手前で折り返した。
教えたのは、こちらなのである。
おのれの言葉で立て、と。その教えのとおりに立とうとして三年立ち尽くした男が、いま目の前で頭を下げている。
断れば、どうなるか。泰範は書けないまま、沈黙が続く。沈黙は初めは待たれ、やがて訝しまれ、いつかそれ自体がいちばん残酷な返事になる。恥を捨てて頼んだ人が、返事の来ない月日をひと月ふた月と数えていく。あの端正な人に、それをさせるのか。
書いたときのことも、見えていた。
泰範の名で、断りの文が行く。あの人は読む。読めば、分かる。字は変えられても、文は隠せない。言葉の運び、理の立て方、断りの形。三年沈黙していた弟子が、突然、整った断りを書けるはずがない。誰の筆かを、あの人は読みはじめてすぐに知る。知って、断られたのが弟子からだけでないことも知る。
おのれの手で、金蘭に最後の釘を打つことになる。
「三日、いただけますか」
と、空海は言った。泰範は深く頭を下げて、房を出ていった。
*
三日、考えた。
考えの半分は、断る理屈を探していた。
これはあなたの言葉で書くべきだ。三年前に一度言ったことを、もう一度言うだけである。筋は通る。通した先に見えたのは、畳に手をついたまま一字も書けずにいる男の、明日と、その次の日だった。
ならば、こちらの名で書けばよい。高雄の空海として、泰範は当山に留まりますと書く。あの男は一字も書かずに済む。そこまで組み立てて、筆の見当が狂った。山主が山主に宛てて弟子の去就を書けば、それはもう弟子の返事ではない。山と山の話になる。あの人が弟子への頼みの中に埋めてきた問いに、こちらから声を出して答えることになる。
理屈は、いくらでも立った。立てた理屈を泰範の顔に当てはめると、ひとつ残らず崩れた。あの男は、書けない。書けない者に書けと言い続けることは、教えと違う。突き放しである。
三日のあいだ、灯は毎晩点いていた。こちらの灯ではない。廊の先の泰範の房が同じ刻限に点り、同じ刻限を過ぎても消えなかった。
理屈の合間に、代筆の夜々が幾度も戻ってきた。
二十歳の頃、都の片隅で字の書けない人々の言葉を書いた。恋文。詫び状。別れの文。泣きながら喋る女の言葉を、泣いていない字で書いた夜がある。言えずにいる男が言い終えるのを、灯を細くして待った夜もある。筆一本で人の間に立つことの重さは、あの頃から知っていた。
考えのもう半分は、沈黙の行方を見ていた。
言葉にしないことで、守れるものがある。それは知っている。生涯、それで幾つかのものを守ってきた。だが、言葉にしないことで壊れるものもある。この沈黙は、後者だった。泰範の沈黙は、泰範を守って、あの人を壊す。壊れ方も見えていた。待っていた、が、あとから、拒まれていた、に変わる。過ぎた分まで変わる。
ならば、誰かが言葉にしなければならない。
泰範には、書けない。おのれの名で書けば、答えが声になる。弟子の名でなら、声にはならない。誰の筆かは知られても、山が山に答えたことにはならない。隔ては紙一枚ぶんである。その一枚ぶんだけが、こちらに選べるものだった。
書ける者がこの山に、ひとりだけいる。泰範の名で書ける者が。
三日目の夜、空海は廊へ出た。
泰範の房の前に、丸めた紙がひとつ落ちていた。八日のあいだに出たものの、拾い残りである。開いてみると、拙僧は、の三字のあとが白かった。幾晩も同じ三字で止まってきた男の白さだった。
その紙を持って房に戻り、皺を伸ばした。この筆が斬るものを、そこで数えた。数え終えても、手は止めなかった。
筆を、執った。
またも、人の名で。




