第75話 文字は糟粕
書き出しが、決まらなかった。
墨は磨り終え、紙は開いてある。筆は手の中にある。断ると決めてもいる。四日かけて決めた心である。その決めたはずのものが最初の一字の場所で止まっていた。
断りから書けば、断り状になる。
用件だけなら三行で足りる。理趣の釈経は貸せない、面授を要するゆえ、あしからず。三行の文は、三行の刃物である。四年の金蘭を三行で斬ることになる。断りの中身がどれほど正しくても、その断り方は嘘になる。この文が斬ってよいのは貸し借りの一件だけであって、友情まで斬る権利は、この筆にない。
比叡では、あの人が待っている。朝廷との折衝と山の経営の合間に、高雄からの便りを待っている。四年のあいだ、この山は悪い便りをひとつも送ったことがない。いつもの厚意の続きを疑わぬ手が、この文を解くのだ。そう思うと、筆を持つ指の先が冷えた。
灯の油が、半分になった。
*
夜半、書き出しが、来た。
友情から、書くのである。
止観座主、法友勝常。貧道とあなたは、契りを積んで年歳がある。膠と漆のように離れがたい交わりの香を常に思ってきた。松と柏が冬にも凋まぬことを、乳と水が別れぬことを、共に願ってきた。止観の翼を伸ばして高く飛び、多宝の座を分かって同じひとつの法を証そうと約した。この心、この契りを、誰が忘れ、誰が忍ぶことができようか。
世辞と違う。飾りとも違う。
これから断る相手が誰であるかを、先に書く。四年、文を交わした。季節にひとつが月にひとつになり、この夏からは月にふたつになった。経を貸した。問いに答えた。壇を分かち、雪の高雄で歴名にその名を書いた。貸した経の名は帳面が覚えている。百を超えた頃から数えるのをやめた。数えて返してもらう約束の貸し借りではなかった。その全部がまことであった。まことであったと、断りの前に書いておく。
断りは、この友情の中に置かれて初めて断り以上のものになれる。
友情の数行を書き終えたところで、筆がまた止まった。
ここまでは、書けた。誰にでも書ける数行を、誰よりも深い実感で書いただけである。問題は、その先だった。
*
なぜ貸せないかを、どう書くか。
崖の話を、書きかけた。この経には誤読の崖がある。写しが歩けば、人が落ちる。そう書いて、読み返して、捨てた。崖を見たことのない人に、崖の話は脅しに聞こえる。あるいは、おのれだけが崖を知るという驕りに聞こえる。
師の遺誡を、書きかけた。この経は面授で受けよと、師に言われた。書いて、捨てた。死んだ師を盾に取れば、権威で断ることになる。あの人は権威に頭を下げる人と違う。真理にだけ、頭を下げる人である。
法の定めを持ち出そうとして、それも捨てた。定めを言うなら、四年の貸し借りの全部が定めの外の厚意だった。いまさら定めを立てれば、四年が嘘になる。
反故が、増えていった。膝の脇で紙が嵩を持ち、崩れて、また積んだ。硯は最初に磨った墨を使い切っていた。磨り直した墨は、前より濃く出た。捨てたのはその先を書きかけた紙だけである。友情の数行を書いた一枚だけは手元に残してあった。
どの断り方も、正しくて、届かない。正しい言葉なら、もう幾つも書いた。あの人に届くのは、あの人自身より深い場所から来る言葉だけである。そんな言葉が、この世にあるか。
灯が細くなった。芯を切ろうとして、指が火に近づいた。近づいた分だけ、熱かった。
その熱さのところに、師の声が来た。
案ずるな。
分からぬことが、出てきたら、な。おのれの内に、問え。火は、もう、そなたの内に、ある。火に問えば、火が、答える。わしに問うのと、同じことじゃ。
死の床の師が、最後にくれた教えである。あのとき師は、書物を遺さなかった。問いの答えも遺さなかった。かわりに、問う先をこちらの内側へ指し直してくれた。
断りの最深形は、拒絶ではない。
指し直しである。
*
筆が、走りはじめた。
出てきたのは、否の一字ではなかった。
封を開いて、理趣の釈をお求めと承った。しかしながら、理趣は端が多い。あなたの求める理趣とは、どの名を指しておられるのか。
問い返したのである。
断りの文の第一の要が、問いになった。書きながら空海は、この形を一度どこかで覚えていると思った。恵果は、欲とは何かと三度問うた。答えを与えず、問いを返す。師がしてくれたのは、それだった。
そして、問いを返しながら答えを渡す。
理趣の道も釈経の文も、天が覆いきれず、地が載せきれない。世の墨と川と海の水を尽くしても、その一句一偈を書き切ることはできない。だから、どの理趣かと問う。
聞くことのできる理趣を求めるなら、それはあなたの口から出る言葉である。他人の口の中に求めることはない。見ることのできる理趣を求めるなら、それはあなたの身である。他人の身のあたりに探すことはない。念ずることのできる理趣を求めるなら、あなたの一念の心の中に、もとから具わっている。他人の心の中に索めることはない。
他人の、と三度書いた。書いてから、その他人がおのれであることに気づいた。筆が、紙の上でひと呼吸止まった。
文字の理趣を求めるなら、文字は声の上の曲がりにすぎない。紙と墨が合わさって生まれるものである。それなら、筆と紙と、字を写す博士のところにでも探されるがよい。
文字を求めば、則ち非なり。
その一行を書いたとき、声を出さずに笑った。
比叡の写経の坊は、この四年、休みなく動いてきた。その坊の主に、字がほしいなら字の博士のところへ行けと書いている。無礼である。無礼を承知で、書いた。無礼にならぬように書けば、届かないからである。
書きながら、分かっていた。師が死の床でしてくれたことを、この筆はいまあの人にしている。巻物は、渡さない。あなたの内に、と書く。火はもう、あの人の中に点いている。
*
そして、いちばん重い数行に来た。
秘蔵の奥旨は、文を得ることを貴しとしない。ただ、心をもって心に伝えるのみ。文は、これ、糟粕である。文は、これ、瓦礫である。
書く手が、重くなった。指はとうに冷えているのに、掌だけが熱かった。
文字は、糟粕。酒を搾ったあとの糟。家の崩れたあとの瓦礫。生涯、文字と共に生きてきた。その文字で、文字にそう告げている。詩で人を唸らせ、代筆で人を生かした手である。
文字を疑ったことなら、ある。疑ったうえで、この筆は動いてきた。その筆が、いま、限界の側を公けに書く。
師の顔が、浮かんだ。青龍寺で理趣の釈を開いてくれた夜の顔である。あの問いと三日の行を挟んで、師は渡し方ごと渡してくれた。その全部が、いまこの断りの中に入っている。断ることが、あの夜の受け方のこちら側の務めだった。
この数行だけは、生涯でいちばん美しい字で書かねばならなかった。
筆を置いて、袖の内で指を温めた。息を吐き、吸い直してから穂先を下ろした。
下手な字で書けば、負け惜しみに見える。文字を極められなかった者の僻みに見える。糟粕と書くその字に一分の隙もないとき、読む者はその字と、その字の言うこととの間で立ち止まる。立ち止まったその場所が文字の限界の際である。際まで、連れて行く。
福州の浜と、同じ理だった。
あのとき書いたのは、賊には書けるはずのない書だった。いま書いているのは、文字にすがる者には書けるはずのない、文字を手放せという書である。
*
書き終えたのは、夜明けだった。灯はいつ消えたか覚えがない。障子のほうが明るくなっていた。
読み返しは、一度で済んだ。直すところは、なかった。
直すところのないことが、今度は痛かった。福州の夜も碑文の夜も、直すところのなさは成ったという証だった。今夜のそれは、もう後戻りが利かないという音がした。この文は、このまま比叡へ行く。行って、あの端正な人の手で開かれる。開いた人の顔を想像することを、やめた。
かわりに、文のいちばん最後に一行を書き添えた。
山を空けられる日が来たら、この山で共に壇に上がりましょう。
断りの文の末尾に、招きを置いた。伝わるかどうかは、こちらの仕事ではなかった。
朝の勤めのあと、文を持って縁に出た。経珍が待っていた。五日目である。経蔵から出してあった包みを、実恵が縁へ運び、そこで手を止めて空海を見た。うなずくと、実恵は包みを経珍の前に置いた。文に並んでいた経のうち、朱の帙の一巻だけが経蔵の棚に残った。
包みと文とを、経珍は同じ丁寧さで受け取った。文を懐に納め、包みを抱え直したとき、片手が余った。直に持ち帰れと言いつかった一巻は、この包みとは別に、その手へ渡されるはずだった。渡されないことを、その手が先に知った。
経珍は空海を見なかった。
「たしかに、預かって参ります」
包みを、いったん縁に下ろした。紐を結び直す手は、いつもの速さに戻っていた。
*
使いが山門を出るとき、堂の脇に泰範が立っていた。
あの文が何であるかを、泰範は問わなかった。比叡へ下る背を、言い切れない男は身じろぎもせずに見送っていた。姿が坂で見えなくなっても、まだそちらを向いていた。その横顔に掛ける言葉を、空海も持たなかった。
雪は、その日の昼に本降りになった。
*
冬が、深くなった。
高雄の谷は雪をかぶり、朝の名の経は白い息になった。降る音のしない夜が、この冬は増えた。泰範の読経だけが、いつもの刻限に堂から聞こえてきた。その声を数えるようにして、夜を過ごす日が続いた。
返事は、来なかった。
読んだはずである。あの人は、届いた文をその日のうちに読む人である。読んで、写しの坊を止めたか。学生たちに何と告げたか。想像は幾らでも動き、確かめる道はどこにもなかった。ただ、ひとつだけ思った。あの誠実な人は、五十に近い齢まで、断られたことがなかったのではないか。
ひと月が、過ぎた。文の途絶えた月は、四年で初めてだった。文机の上の、いつも次の文を置いていた場所が空いたままになった。空いた場所に、埃がたまった。指で拭いて、何も置かずに離れた。
山の使いにも、比叡から来た泰範にも、あちらの様子は問わなかった。問えば、答えが来る。答えの中身を聞く支度のほうが、まだ遅れていた。谷の雪は積もっては消えた。山の使いは都へ下り、戻った。戻る手にあるのは、都の紙ばかりだった。
雪の朝、空海は筆を執りかけて手を止めた。宛先のない筆だった。書く相手を、筆が覚えたまま忘れられずにいる。
文字は、糟粕である。
そう書いた手の内に、糟粕だけが残っていた。




