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空海の青春 ― 消えた七年  作者: KAMUI
第7章 金蘭 ― 相見える二人
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第73話 灯の側から

 灯を点す。小さな火が灯心の先で立ち、昼の光に紛れて見えなくなる。


 それが汀の一日の真ん中にある。


 朝の勤めが終わり日が高くなる刻限に、汀は堂の奥の小さな灯明に火を入れる。夜の灯明は寺の勤めである。この昼の灯だけが、汀ひとりの勤めだった。誰に命じられたものでもなく、誰に気づかれるものでもない。昼の光の中の小さな火は、点いていることさえほとんど誰の目にも留まらない。それでよい灯だった。


 九年、一日も欠かしたことがない。数えて灯すのでは、もうない。朝が来れば手が先に動く。


 雨の日も、風の戸を鳴らす日も、欠かさなかった。油は、おのれの繕い物の手間賃から出している。安い油で、点すと青くさいにおいが薄く立つ。油差しの持ち手は、九年の手に馴れて飴色になった。皿の残りを見て、指の腹で縁を拭い、足す量を決める。多く注げば夕まで保つが、それでは寺の灯と同じになってしまう。寺の油を遣えば、それはもう寺の勤めである。これは、そうであってはならない灯だった。


 一度だけ、老いた尼に問われたことがある。


「そなたの昼の灯は、何の灯かの」


「日和乞いでございます」


 と汀は答えた。老尼は笑った。


「毎日灯すのかえ。毎日晴れとは、欲ばりよの」


「はい。欲ばりでございますから」


 それきり、誰も問わない。囲いの内の人々は、人の胸の内に深入りしない。針を持つ手は、その間も動いていた。運針の音だけがした。あの方の行かれる先が、どこであっても晴れているように。海の上も、山の上も。


  *


 秋である。囲いの内の桜が紅葉に変わるのを、汀は二十四度目に見ていた。


 鏡は、久しく見ない。見なくても、手の甲が歳月を教えてくれる。針を持つ指の節が少しずつ太くなった。髪に白いものが幾筋か混じりはじめた。老いた尼たちはまだ若い若いと笑うけれど、囲いの外の世の勘定で言えば女の三十八は、もう若くない。


 歳月は奪うものだと若い頃は思っていた。


 いまは違う。


 歳月は、濾すものでございますね。


 誰に言うでもなく、汀はときどき胸の内でそう呟く。若さも望みの形も待つ苦しさも、歳月の布に幾度も濾されて、澄んだものだけが残った。残ったものは、驚くほど少ない。灯がひとつ。掟がひとつ。それから耳がひとつ。指を折って数えれば、三本で足りる。胸は、どこも寒くならなかった。


  *


 噂は、門を越えて届く。


 囲いの内で暮らす者に世の音を運んでくるのは、参詣の人々と老いた尼たちの雑談である。汀は繕い物をしながら、聞くともなく聞く。縫い目を数えながら聞くと、話はよく残った。数えるのをやめると、残らなかった。それが囲いの内の世との、たったひとつの窓だった。


 唐帰りの阿闍梨さまはの、帝の御信も篤くての。


 高雄のお山の灌頂には、比叡のえらいお坊さままで受者にお並びになったそうな。


 比叡のお山から、お経を借りにお使いがたびたび通うそうな。返す文には、いつも添え書きがあるとか。


 汀は、糸を切る手を止めなかった。切って、次の糸を通した。


 あの方の名が、雑談の中で数を増した。初めのころは、名さえ付いていなかった。帰ってこられたらしい、という小さな噂。それが筑紫の噂になり、高雄の噂になり、灌頂の噂になり、いまでは、尼たちが集まればまずあの名が出る。


 名が、大きくなっていく。


 近ごろは門前で足を止めて堂を覗いていく参詣の人がある。この寺に何かがあると思って覗くのではない。名の大きくなった僧を、どこの門の内にも探してみたくなる目である。


 それで、よいのでございます。


 汀は針を進める。そう思えるまでに、幾年かかかった。


  *


 汀、と呼ぶ人はこの世にいない。


 あの名は、あの方の前でだけ名乗る名である。あの方は海を渡り、帰り、山に入られた。呼ぶ人のいない名は、しまわれたままの絹に似る。生まれたときの名は、世が伏せた。贈られた名は、呼ぶ人が遠い。囲いの内で、汀は名のない人として暮らしている。名のないことに、慣れた。慣れたけれど、ときどき胸の内で自分を呼んでみることはある。汀。波の寄せて返す際。消されても、また書きたくなる場所。胸の内の名は、いつもあの方の声で鳴る。


 あの方の名を、都の人々が呼ぶ。


 空海さま。空海阿闍梨。高雄の空海さま。


 その名は、帝の御前でも呼ばれているのだろう。呼ばれるたび、汀は針を持ったまま、耳を澄ませる。


 都の人は、知らない。


 その名の中に、何が入っているか。空と、海。わたくしが、見とうございますと申し上げたふたつのもの。顔を上げれば、塀と庇のあいだに空がある。汀に見える空は、そのぶんだけである。あの方は、答えてくださらなかった。答えの代わりに、名になさった。


 みな、その二字を山の名や役所の名と同じ調子で呼ぶ。呼び慣れれば、さまが落ち、阿闍梨が落ちる。しまいには、二字だけを呼び捨てにする。


  *


 四年前のあの日のことを、汀は覚えている。


 都に新しい帝が立ち、あの方が筑紫から上られたと噂の立った年である。もしや、と思う心は、噂を聞いた日のうちに畳んだ。畳んだはずのものが、その日ほどけた。


 秋の昼下がりだった。繕い物の手を止めたのは、足音のせいである。


 足音には、人が出る。


 急ぐ人の足音は前のめりで、疲れた人の足音は踵が重い。この囲いで、参詣の人々の足音を汀は幾千と聞き分けてきた。言われなかった言葉を聴く耳は、歳月の中で足音の言わないものまで聴くようになっていた。


 あの日の足音は、参道の入り口でもう分かった。


 五年の隔たりは、何の障りにもならなかった。分かる足音というものが、この世にはひとつだけある。踏み出しの深さ。息の継ぎ目。砂利の鳴らし方。何より、その足音が殺されていないこと。


 昔のあの方は、砂利を殺して歩いた。わたくしに聞かせぬための、お心遣いだった。殺したはずの足音が聞こえた夕がある。砂利の手前で止まり、そのまま戻っていった足音だった。聞こえたものを、わたくしは空耳ということにした。あの冬の夜は、違った。拾ってくれ、と鳴らしておいでになった足音である。足音が、いたしましたので、と申して、わたくしは出て行った。渡唐の前の朝は、それとも違った。呼びはなさらぬ。殺すのを、おやめになっただけの足音。あの日の足音は、その朝と同じだった。


 聞いてくれ、とはおっしゃらない。聞こえてしまうことを、お止めにならない。


 足音は、門の手前で止まった。長いこと、止まっていた。


 汀は繕い物を膝に置いたまま、動かなかった。立てば、格子の陰から参道が見える。見えるところまで、三歩である。その三歩を、歩かなかった。見れば、それは会うことになる。会えば、掟が破れる。言わなかったことに、いたします、と申し上げた。あの言葉は、見なかったことに、いたします、でもあるのだった。


 厨で誰かが水を使う音がした。それが聞こえるほど、静かだった。


 どれほどの間、止まっていたのか。


 繕い物の針を三度進める間か、経をひとつ読む間か。長さは、分からない。動いている足音より、止まった足音のほうが多くを鳴らした。


 やがて足音は去っていった。


 殺さない足音のままで、来た道を戻っていった。砂利の音が参道の入り口で消えるまで、汀は膝の繕い物を握っていた。


 それから立って灯明のところへ行き、灯をひとつ足した。


 いつもの昼の灯の隣に、その日だけもうひとつ。


 言わなかったことに、いたします、と申し上げました。守って、おりますでしょう。


 あれから、足音は来ない。


 それがあの方の変わらぬ返事だった。唐へ発つ前の春に一度だけ名を明かし、五年ののちに一度だけ来た。それきり音を絶つことで、守ってくださっている。汀も、灯を足さない。あの日の二つ目の灯は、あの日だけのもの。互いに、届いたかどうかは確かめない。確かめないことが、わたくしどもの、作法でございますから。


  *


 冬の入りである。朝のうちは指の先がかじかんで、糸の端がうまくつまめない。油は寒さで重く、灯心の吸いが鈍る。日が高くなってからでも、火が立つまでに間がある。


 尼たちの雑談に、参詣の人が新しい風聞を落としていった。


 比叡のえらいお坊さまと高雄の阿闍梨さまは、あれほどのお仲でございましたのに。近頃は少し風向きが違うと申しますよ。


 お弟子の行き来のことで、何やらあったとか、なかったとか。


 雑談は、すぐに別の話に移った。山と山のことは、囲いの外の話である。尼たちには、遠かった。


 汀の針だけが止まっていた。


 これまで、あの方の名は比叡のお坊さまと並んで運ばれてきた。灌頂も、経の貸し借りも、二つで一つの話だった。今日の風聞では、二つが離れた場所に置かれていた。


 汀は繕い物を膝から下ろして、灯明のほうへ立ちかけた。


 座り直した。


 昼の灯は、冬の淡い光の中で、火のかたちに見えていた。

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