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空海の青春 ― 消えた七年  作者: KAMUI
第7章 金蘭 ― 相見える二人
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第68話 金蘭

 堂には、まだ縄の匂いが残っていた。


 箱は納めたが、まだ全部は解いていない。三年、大宰府の戸の内で待った荷である。解く順を間違えると、どれがどの帙か分からなくなる。空海は朝の勤めのあと、一日に二つずつ縄を切った。切った縄は束ねて堂の隅に積んだ。束の高さが、この山の日数だった。


 谷川の音で目を覚まし、名の経を読み、それから縄を切る。都から山ひとつ隔てただけで、世の音は遠かった。


 文が、来た。


 縄の束が、まだ低いうちである。


 比叡から、と寺の僧が言った。使いは若かった。日に灼けた顔をして、脛に泥がついていた。京から川沿いの道を登ってきた足である。


「経珍と申します」


 と、その僧は名乗った。


「わが師の書状を、お持ちいたしました」


 差出の名を見て、空海は居住まいを正した。


 最澄。


 あの第二船の人である。嵐の夜に波間へ灯の消えた船に乗り、明州の湊に着き、天台の法を持ち帰って新しい宗を立てた人。いまは帝の内道場に侍る内供奉。年は七つ上で、位は比べるべくもない。


 四年前、その人はこの山に壇を築いている。帝の求めに応じ、この国で初めての灌頂を修したのが高雄山寺である。壇が据えられたのは、いま空海が起き伏ししているあたりだった。


 願いは、経の借覧だった。


  *


 書き並べられた経の名を、空海は二度読んだ。


 十二部である。真言の経がある。それは分かる。だが、それだけではなかった。


 梵字悉曇章。悉曇字記。悉曇釈。


 字の読み方の書が、三つ混じっていた。


 空海は書状を膝に置いた。


 唐から運んできた経は、要のところで字が変わる。真言の一句、陀羅尼の一行。そこだけは音をそのまま写した字である。漢字の読める者が、そこで必ず止まる。それを知っている者だけが、この三つを一緒に頼む。


 華厳の経も一部あった。四十巻。密の経ではない。だが密へ渡る橋のうち、いちばん広い橋である。


 目録を書いたのは自分である。ほかに、この国でそれを正しく測れる者はいないはずだった。その測りが、寸分も狂っていなかった。


 文は、はじめから終わりまで、請う文だった。


 書き出しが、謹んで借り請う、である。位の高い者が下の者に宛てる文に、借り請うとは書かない。


 結びに、損じることはいたしません、とあった。そのあとに、使いに立てた弟子の名を書き添えていた。いま名乗ったばかりの名だった。


 膝に置いた書状を、もう一度取り上げた。


 読まれていた。


 三年、霧に呑まれたと思っていた一巻は、少なくとも一人の目にまっすぐ届いていた。国は動かなかった。人が動いた。それも、いま都でいちばん名の高い僧が、いちばん低い姿勢で。


  *


 この床で壇を築いた人が、いま、字の読み方から習おうとしている。


 築いてみて、足りぬと分かったのである。それを紙に書ける人だった。


 空海は迷わなかった。


 その日の縄は、二本では済まなかった。十二部を箱に納め、その日のうちに縁へ出させた。


 経珍は箱を見た。それから空海を見た。


「……阿闍梨さま」


「はい」


「お確かめには、なりませぬので」


「何を」


「巻の数と、その、返る当てを」


 言ってから、経珍は膝の前で手を組み直した。


「わたくしが、預かって帰る身にございます」


「数えて渡す荷なら、三年、数えておりました」


 経珍は言葉を探している顔をした。


「惜しくは、ないのですか」


 空海は箱の蓋に手を置いた。


 経は火の絵である、と師は言った。絵からは火は点かない。だが絵は、在り処を指す。指された者の幾人かは、いつか火そのものを求めて山を登ってくる。


 口には出さなかった。渡すなら、この文を書いた人にである。


「蔵に積んだままの種は、もう種と呼べません」


 空海は蓋から手を離した。


「写し終えられましたら、次をお貸しします」


 経珍が顔を上げた。


「次、と仰せられましたか」


「はい」


 経珍は深く頭を下げた。箱は寺の僧が出てきて、経珍と二人がかりで担いだ。泥のついた脛が、また泥をつけて山を下りていった。


  *


 返礼が来て、それに返し、また文が来た。


 初めは季節にひとつだった文が、やがて月にひとつになった。借覧の礼にはじまった文は経の中身の問答になり、問答は唐で見た法の話に移った。唐へ渡るまでの海のことだけは、どちらも書かなかった。二度目に箱を取りに来たのも経珍で、そのときは脛に泥がなかった。


 最澄の字は端正だった。


 一点の崩れもなく、行の呼吸まで誠実で、飾りがどこにもない。書き手の像が、字の向こうに立った。


 だが、立ったのは像である。字は、書き手が律しているところしか見せない。律しているところがこれだけ深いなら、律していないところはどうなのか。それは、紙では測れなかった。


 いつからか、互いの文に金蘭という言葉が交じるようになった。


 断金の友である。ふたりの心を合わせれば金をも断ち、その言葉は蘭のように香るという古い書物の一節である。会ったこともない二人の間で、それは少しも大げさに響かなかった。


  *


 翌年の九月、都が割れかけた。


 位を退いた先の帝と、いまの帝である。旧い都へ遷ろうという動きが起こり、兵が動きかけ、都は幾日か息を詰めた。乱は短くおさまった。首謀とされた人々が退けられ、退位した帝は仏門に入った。政というものが、また人を幾人か、世から消した。


 高雄は、何もしなかった。


 誰も頼んでこなかったからである。


 その幾日か、空海は堂に座っていた。荷はもう全部解いてある。壇の作り方も、火の焚き方も、印も真言も、この山にある。三年、大宰府で問われなかった荷が、いまも問われずに置かれている。乞われているのは、書だけである。


 国は渇いている。渡す者は器を探さねばならない。師を送った夜に、そう思った。


 探していた。ずっと、向こうから来るのを待つ形で。


 堂の隅の縄の束は、もう膝の高さになっていた。


 十月の末、空海は紙を出した。


 国のために修法をしたい、と書いた。


 将来の経の中に、仁王経がある。守護国界主経がある。仏母明王経がある。仏が国の主のために説いた経である。七つの難を摧き、四つの時を調え、国を護り家を護る。その法を、修したい。


 来月の一日から始めたい、と書いた。弟子たちを率い、高雄山寺で、法が成るまで。


 そして最後に、一行を足した。


 そのあいだ、住処を出ません。


 その一行を、読み返した。


 願い出ながら、出ないと書いている。売り込みに来た男の書く文ではない。


 書き直さなかった。


 紙は都へ下っていった。


 返事の来るまでの幾日か、空海は堂の隅の束の前を、何度か通った。三年は待てた。この幾日が、長かった。


  *


 十一月の一日、壇を築いた。


 火の前に、弟子たちが並んだ。去年の秋、この山に上がったときには、ひとりもいなかった顔である。噂を辿って登ってきた者。目録を読んで登ってきた者。名は違うが、来た理由はどれも似ていた。


 火が上がった。


 息が白いのは、しばらくのあいだだけだった。


 室戸の洞で焚いた火は、自分ひとりを温めた。青龍寺の火は、法を渡した。この火は、顔も知らない幾万の人の上に焚かれている。


 煤が袖について落ちなかった。幾日かは、洗っても墨のような匂いが残った。


  *


 年が明けて二月、比叡から来た文の調子が変わった。


 経の名が並んでいなかった。習いたい、と書いてあった。長らくそう思ってきたが、折を得ぬまま歳月が過ぎた、と。


 足りぬと知ってから、六年目である。


 空海は返書に、支度には時が要ると書いた。それより先は、書かなかった。


 あの人はまだ、紙で頼んでいる。


 夏、空海は弟子の実恵を都へやった。


 唐で得た詩の書を、帝に献ずるためである。王昌齢の詩格が一巻。長安で、作者の周りにいた者から譲られたものだった。ほかに詩集がいくつか。飛白の書も一巻添えた。唐で目にして、試みに書いてみた体である。実恵は包みを結び直してから、もう一度解いて数を確かめた。


 返しが来た。


 帝は書の人だった。空海の字を見たいと言い、送れば、見事な字を返してきた。筆の話になると玉座が消えた。


 あるとき、山の秋を詠んだ詩を送った。返ってきた詩は、宮の秋を詠んでいた。同じ月をふたつの場所から見た二篇が、紙の上で並んだ。位を脱いだ言葉だけが差し出せる並び方だった。


  *


 その年の冬、空海は乙訓の寺を預かることになった。


 高雄のような山ではない。街道の脇の平地である。政の風も人の行き来も、山とは比べものにならない。朝は、荷車の音で目が覚めた。荷の一部を運び、堂を検分し、暮らしを移した。


 寺主の僧を願演といった。年かさで、目録より先に帳面の紙の値を言う人だった。庭に古い柑橘の木が数株あった。実は毎年、決まった数だけ都へ運ばれる。願演はその櫃の数を暗んじていた。


  *


 ふと可笑しくなる夜があった。


 灯りの下で、比叡への返書と、内裏への返書を、続けて書いた夜である。筆を置いて、気づいた。


 火は手から手へしか渡らない。そのことを骨まで知り尽くした男が、この国で結んだいちばん深い縁は、ふたつとも文字だけでできていた。


 文字はここまで来られるのだった。字は人を運び、器を測らせた。あの浜で信を得られなかった言葉が、この国では、山と山を、山と玉座を、確かに結んでいる。


 そして、この先に一線がある。絵は写せる。火は、写せない。


 灯りの下の男は、返書の墨を継ぎ足して、比叡の字の律儀な運びをもう一度なぞった。今夜のところは、それで足りていた。


  *


 次の年の秋、柑橘の実が色づきはじめた。


 枝が塀を越えて道の上まで張り出している。願演が下を通るたびに数を見ていた。


 比叡から文が来た。


 いつもの端正な字で、いつもの低い礼で、ひとつだけ、いつもと違うことが書いてあった。


 近く、そちらへ伺いたい、と。


 空海は文を手にしたまま、庭へ出た。塀を越えた枝の先で、色づいた実がいくつも夕日を吸っていた。実の色が深くなり、やがて葉の影に沈んでいくのを、日の落ちるまで見ていた。


 三年、文字だけで結ばれてきた金蘭が、会いに来る。字の向こうに立っていた像が、この庭のこちら側に、生身で立つのである。


 会うのは初めてだった。


 八年前、同じ嵐の海に、別々の船で浮かんでいた人と。

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