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空海の青春 ― 消えた七年  作者: KAMUI
第7章 金蘭 ― 相見える二人
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第66話 最初の器

 荷の部屋の戸を開けるたび、荷が空海に問うた。


 いつ、と。


 経の箱がいくつも。曼荼羅と阿闍梨の影が十鋪。道具九種。師の付嘱の物、十三種。長安の壁の内から、海を越えて渡ってきた荷である。渡るために来た荷だった。それが筑紫の古寺の一室で、二度目の冬を越そうとしていた。


 戸を開けても、墨と香と潮の匂いは、もうしなかった。風を入れる日は、いまも三綱が立ち会った。空海は虫を払い、傷みを検分し、戸を閉めた。閉めるたび、背中で問われた。


  *


 観世音寺の日々は変わらなかった。


 朝の名の経。掃除。経蔵の手伝い。筑紫の冬は湿って緩く、雪よりも雨が多かった。山の冬とも大陸の冬とも違った。


 暮らしは組み上がっていた。


 春に経の傷みを繕い、秋に曝涼をし、折々に風を入れる。曝涼の縁には浄基が並んだ。今年もよう乾きますな、とだけ言って、あとは黙って干した。初めの年は二人だったのが、二年目には若い僧が三人混じった。寺の暦が、そのまま荷の暦になっていた。山の七年もこうだった。


 同じではなかった。


 山では満ちるのを待っていた。いまは注ぐのを待っている。


  *


 その二度目の冬、都から報せが来た。


 政変があったという。親王が謀反の疑いをかけられ、母君とともに寺に幽され、毒を仰いだという。疑いのまことのほどは、誰にも分からない。そのまま縁座が広がっていた。仕えていた者、教えていた者、出入りしていた者。


 伊予親王、と使いの僧が言った。都から下ってきたばかりで、草鞋の紐も解いていなかった。


 空海は椀を置いた。


「侍講は」


「そこまでは、聞いておりませぬ」


 叔父はその親王の侍講だった。縁座は、そういう人から順に及ぶ。どこまで及んでいるかは、筑紫からは見えなかった。


  *


 文は、帰り着いた日から書けずにいた。


 書く用は、山ほどあった。十年前の囲炉裏で、忠孝に背いておるぞと言った人がいる。あの夜は論で勝って、答えてはいなかった。答えのほうは、唐の師の口から来ている。帰ったら伝えねばならぬ人が、ひとり増えた。長安の、あの夜である。


 書けなかったのは、宛名のせいだった。


 闕期の罪の身が、親王の侍講に文を出す。都の目にはどう映るか。遠成の一巻に罪を極大に書いたのと、同じ勘定である。累は、こちらから伸ばすものではない。


 報せひとつで、勘定の重りが載せ替わった。


 いま黙っていることのほうが、はるかに重かった。


 空海は硯を出した。あの冬、水を落としたまま磨らずに終わった墨である。


 ご無事か、とだけ問う文を書いた。師の言葉は、書かなかった。書けば紙が長くなり、長い紙はよく読まれる。困るのは、こちらではない。


 幾日か置いて、都へ帰る使いの僧に託した。冬の街道を、文は二十七日かけて東へ上る。


 返事は来なかった。


 寒の緩むころ、同じ短さの文をもう一度出した。二度目も、同じだった。


 国は目録に黙っている。叔父は文に黙っている。


  *


 二度目の春が来た。


 数える頭が、夜ごと数えた。


 師がおのれに注いだ時は、どれほどだったか。五月に会って、十二月に逝った。半年と、ひと月あまりである。両部の全部を、余命幾ばくの人がひと夏で注ぎ切った。夏は短い、と言いながら。その声は、いまも耳の奥で乾いていない。


 注がれた時の何倍を、待つことに遣ったか。


 数えても、こちらの手からは、まだ一滴も出ていない。


 房の障子は湿ったままで、明け方には冷えた雨の匂いが板の間まで這い入った。灯を落とした暗がりで、荷の部屋の方角へ耳を向けた。軒の雫が夜通し同じ間で落ちていた。


 夏が来て、秋が来た。三年目の曝涼を終えた。


 三度目の冬が来た。


  *


 その冬の終わりのある朝、寺の門前に老僧が立っていた。


 浄基が取り次ぎに来た。


「在の坊さまが、お見えになりましたな。唐帰りの阿闍梨さまにお目にかかりたいと、宗像のほうから三日かけて歩いてこられたそうで」


「三日」


「峠を四つと言うておられました。若い足なら二日で歩けますでな。あの笠では、三日とも濡れどおしでしたろうな。お会いになりますか」


 顔のほうは、会わぬほうがと言っていた。


「会わない理由が、ひとつも見つかりません」


 浄基は少し黙って、それから頭を下げて出ていった。


  *


 継ぎの当たった衣に、笠と杖。足元は泥だらけである。笠の縁から滴が落ちる、雨上がりの朝だった。歳は七十を越えていた。


 老僧は板の間に固くなって座った。濡れた裾が板の上に細い水の跡を作り、土と草の匂いがそのまわりに低く残った。跡は話しているあいだじゅう乾かなかった。


 言い訳のように、老僧は言った。


「阿闍梨さま。わしは、字があまり読めん。経もいくらも諳んじられん。学問というものを、したことがないでの。こんな者が教えを乞うてよいものか、道々ずっと迷うたが」


「教えは、乞う人のものです。何なりと」


 老僧はうつむいた。しばらく、膝の上の節くれた手を見ていた。手の甲に、古い火傷のひきつれがあった。


 それから顔を上げて、問うた。


「死んだもんに、経は、届くんかの」


  *


 空海は息を止めた。


「わしはの、五十年、村の坊主での。五十年、死人を送ってきた。疫病の年は、ひと冬で村の三分が一を送った。同じ経ばっかり、五十年読んできた。そいでの、阿闍梨さま」


 膝の上の手が握られた。


「わしの経で、届いとるんか。あの世まで。それとも、わしは五十年、ただ声を出しとっただけか」


「ご老師」


「死ぬる前に、そこだけ聞いておきとうての」


 届くのか。


 室戸の浜で、あの漁師は問わなかった。届くかもしれん、と思うての、と言っただけだった。船の上の男たちも、凍る駅の庭で砦の名を託した老兵も、そこは訊かずに預けた。こちらは、生きている人に二度書いて、二度とも返らなかった。


 論で答える道はあった。


 経典の証文なら幾つも引ける。だが、それは火の絵だった。


「ご老師。あなたの村の、死んだ人の名を、教えてくださいませんか」


 老僧は目を見開いた。


「名を」


「覚えておられるだけ、全部」


「……それが、何になるんじゃ」


 初めて、老僧の声が硬くなった。


「わしは、経の話をしとる。名の話じゃない」


「同じ話です」


 老僧は口を開いて、閉じた。膝の上の手が、衣を掴んで放した。


  *


 それから、ぽつりぽつりと名を挙げはじめた。


 覚えていた。ほとんど全部である。石麻呂は六つで、飢えた年の春に死んだ。阿古女は双子を産んで、二日目に死んだ。島麻呂は時化の晩に出て、戻らなんだ。この男は、櫓の音で誰か分かったでの。


「若女は、疫病の冬でな。母親と同じ日に死んだ」


 空海はその全部を書き取った。日が傾き、浄基が黙って灯を運んできても、名はまだ続いた。名は五十を越え、百を越えた。途中で老僧の声が涸れ、水を勧めると、飲んでからまた続けた。


 帳面は、紙でできているとは限らないのだった。


  *


 翌る朝、二人で経を読んだ。


 名の経である。室戸の名。船の名。砦の名。師の名。そして、宗像の村の百幾つの名。空海が読み、老僧が和した。五十年同じ経を読んできた嗄れ声が、名をひとつずつ追った。追いつけない名では、少し遅れて重なった。


 軒先の凍った雫が溶けて、経の間に落ちた。


 読み終えたとき、老僧は泣いていた。


「分かるかの、阿闍梨さま。いま初めて、届いた気がしたわい。五十年で、初めて。……何が違うんじゃ。経は同じ経じゃに」


「あなたは五十年、村の名を呼んで送ってこられた。経は、その名を乗せるだけです」


「乗せるだけ」


「あなたの経は、とうに届いておりました。今朝、あなたの耳が、それに追いついたのです」


 老僧は顔を上げた。


「阿闍梨さまは、見なさったんか。届いたところを」


 板の間が、静かになった。


「見ておりません」


「そんなら、なぜ言い切りなさる」


「疑うのは、こちらでいたします」


 老僧は長いこと空海を見ていた。それから袖で顔を拭いた。拭いてから、また泣いた。


  *


 老僧は三日いた。浄基が、在の僧の宿として三綱に届けを出した。朝の勤めには、いちばん後ろに来て坐った。


 空海は多くを教えなかった。


 阿、という一音を教えた。口を開いて出す、いちばん初めの音である。字の読めない人が、一音ならまるごと持って帰れる。


「阿、での」


「阿、です。息の続くかぎり、深く。朝の経のいちばん初めに置いてください。あとは、これまでなさってきたことを、そのまま」


 老僧は口を開いた。嗄れた息が細く長く伸びて、途中で切れ、切れたところからまた継いだ。


「そのままで、ええんかの」


「そのままがいちばん難しいことを、あなたはもう五十年なさっています」


  *


 発つ朝、老僧は深々と頭を下げた。


「わしは、あんたさまの弟子かの」


「同行です。ひとつの帳面の名を読む者どうしです」


 老僧は笑った。それから、笠の紐を結びながら言った。


「ひとつ、頼みがあっての」


「わしが死んだら、その帳面に、名を」


 室戸の浜で、老いた漁師が言った。頼みが、ある。朝の経にの、名を乗せてくれんか。


 あのときは、他人の名だった。


「載せます」


 空海は言って、それから顔を上げた。


「ご老師。お名を、まだうかがっておりません」


「そういえば、名乗っとらんかったの。五十年、人の名ばかり呼んどってな。おのれのは、使う先がなかったわい」


 老僧は少し考えるふうをして、それから名乗った。空海は書かなかった。


 泥のとれた足で、老僧は在への道を帰っていった。懐には、阿の一音しか入っていなかった。村の百幾つの名は、こちらの帳面に移っていた。


  *


 空海は門前でその背を見送った。


 器がひとつ、来ていた。


 二百十六部四百六十一巻を抱えた男が、渡したのは一音である。


 火は、渡っていた。


 その日は、風を入れる日だった。戸を開け、いちばん奥の三箱に手をかけて、また戻した。この箱の口に合う器は、まだ来ていない。


 荷は、いつ、と問うた。急かす声ではなくなっていた。


  *


 次に風を入れた日、窓の外の梅は、もう散りかけていた。


 若葉の匂うころ、都から報せが届いた。沙汰ではない。


 帝が位を譲られたという。


 代替わりで動いた人の名が幾つも添えてあった。


 空海はその報せを二度読んだ。二度目は、叔父の名を探して読んだ。


 知らぬ名ばかりが載っていた。

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