第63話 師の示寂
霜の道を走った。
十二月の初めである。まだ夜の明けきらぬうちの長安は凍っていた。坊の門が開くのを門の内で待ち、開くと同時に出た。息が白い塊になって、後ろへ飛んだ。轍の氷が、踏むたびに鳴った。使いは夜のうちに坊正の文牒を貰って走ったのだという。こちらには、その紙がない。
迎えの若い僧は幾度も咳をした。半分ほどで遅れた。西明寺から新昌坊まで、都を西から東へ、いつもの道である。いつもの半分の時で着いた。
青龍寺の門は開いていた。開けて、待っていたのである。
東塔院の奥の間に、弟子たちが集まっていた。
燈明がいつもより多かった。香が深く焚かれ、煙が梁の高みで薄くたなびいていた。堂の中でも息は白かった。肩で鳴るのを、柱の陰でひとつずつ落とした。落としきってから、板を踏む音を殺して入った。
床の上の痩せた顔が、そちらへ向いた。
「また、待っておったぞ」
声は細かった。細いのに、揺るがなかった。
初めて会った日と同じである。あの日は、来ることを待たれていた。今日は、間に合うことを待たれていた。枕辺の香炉から、細い煙がまっすぐに立っていた。
*
師は半身を起こさせた。
弟子が二人がかりで支えた。師はそれを受け、居住まいを正した。六月に壇の指図に立っていた身体の、もう幾分の一かの目方である。それでも座り方だけは、最後まで山だった。
まっすぐに、こちらを見た。
「授法は、已に、在り」
一句ずつ、置くように言った。
「経像の功も、畢った。そなたに渡すものは、渡し終えた。この上、この国に、留まるに、及ばぬ」
息をひとつ継いだ。
「早く、郷に、帰れ」
部屋の空気が変わった。
兄弟子たちが目を伏せた。伏せない者がひとりいた。空海は動けなかった。
床の上を、手が少し動いた。動かしたのは自分の手である。途中で止めた。
六月からこちらを引いてきた手は、八月のあの日から伸びてこない。伸びてこなくなった日から、渡されるものが変わったのだった。
二十年。
開かずにきた勘定である。受け取れば決めねばならぬと、荷の陰に置いてきた。数える頭は、毎日それを突きつけてきた。突きつけられて、なお開かなかった。
それを、師が開いた。
決めるのは、もうこちらではなくなった。胸のどこかが、それで軽くなった。軽くなった場所を、見ないことにした。
「国家に、奉ぜよ。天下に、流布して、蒼生の福を、増せ。それが、仏の恩に報い、師の徳に報いる、ということじゃ」
そこで少し笑んだ。
「国のためには、忠。家においては、孝じゃ」
忠。孝。
二字が、九年を貫いて届いた。
忠孝に背くぞ、と言った人がいる。都の家の囲炉裏の火を挟んで、老いた儒の師が五常の縄を投げた。親を捨て家を捨てる道が聖の道か、と。あの夜、若い男は論で勝った。勝って、答えてはいなかった。答えられなかったから書を書き、山に入り、海を渡ったのである。
いま、答えが来た。異国の師の、最後の声で。
帰ったら伝えねばならぬ人が、ひとり増えた。
「師よ」
と言った。あとが続かなかった。
問いたいことは山ほどあった。まだ受けていない細部。図の読みのその奥。護摩の火の加減。だがどの問いも、いま口にすれば残りの息を削る。削って得た答えを、こちらは持って帰ることになる。
師は、その全部を見透かして笑んだ。
「案ずるな」
少し間があった。
「分からぬことが、出てきたら、な。おのれの内に、問え。火は、もう、そなたの内に、ある。火に問えば、火が、答える。わしに問うのと、同じことじゃ」
それが、師から受けた最後の教えになった。
その夜は寺に留まった。坊の門は、もう閉まっていた。
*
幾日か通った。門は毎朝、開いていた。十日を過ぎたころから、西明寺へは戻らなくなった。
十二月の十五日である。
まだ暗いうちに、師は湯を使った。香を溶いた湯だった。付き添った若い僧が、袖を絞りながら廊下へ出てきて、誰にともなく、湯がまだ温かい、と言った。言ってから、口を押さえた。廊下に、湯の香がしばらく残った。
浄衣に改めさせ、師は毘盧遮那の法印を結んだ。
結んで、右脇を下にして横になった。
それきりだった。
空海は枕辺から三人めにいた。息の終わった時が、傍らの者たちにもしばらく分からなかった。結んだ指は、ほどけなかった。
六十年である。
空海は、瓶のことを思った。五十年担いできたと本人の言った瓶である。日ごとに軽うなる、よいものじゃ、と笑った瓶である。
空になっていた。
願いの成った顔で逝った。眉のあいだの皺が、ほどけていた。それが慰めだった。慰めであることが、いっそう応えた。
弟子たちの哭が堂に満ちた。燈明の炎が、声のたびに揺れた。香の煙は、哭の上を平らに流れていった。
空海は哭かなかった。
堪えて、経を誦した。第八の座を継いだ者の務めである。送る声が乱れれば、送られる人が振り返る。
誦す息が、燈明の前で白くなって出ていった。山にいたころ、声が形を持って出て行くのが見えると思ったことがある。同じものが、いま堂の中で見えていた。床の上の口からは、何も出なかった。
奥歯が鳴りそうになるのを、噛んで止めた。谷で鍛えた声は揺れなかった。噛んだところだけが、経のあいだじゅう痛んでいた。
*
その夜、道場に残って持念した。
燈明はひとつだけ点した。堂は冷えていた。息を底まで下ろす。教わったとおりの深さに置く。何刻が過ぎたのか分からなかった。
顔を上げると、師が前に立っていた。
病む前の、あの目の速さで立っていた。
「汝、未だ知らずや」
声は耳から来なかった。じかに胸へ来た。
「吾れと汝と、宿契の深きことを。多生の中に、相共に誓願して、密蔵を弘めてきた。彼此、代わる代わる師となり資となること、一両度のみには非ざるなり」
渡された側だと思ってきた。渡した側であったこともあるという。
「是の故に、汝が遠渉を勧めて、我が深法を授けた。受法は、これで畢った。吾が願も、足りた」
師は少し笑んだように見えた。
「汝は西土にして、我が足を接す」
六月の壇で頭に置かれた掌の熱が、そこで戻ってきた。あれは上から来た。いま師の言うのは、下から近づいた側の話である。
「吾れは東生して、汝が室に入らん。久しく遅留すること、莫れ。吾れ、前に在りて、去らん」
目の前が堂の暗がりに戻った。
燈明はまだ点いていた。膝が痺れていた。頬に乾いたあとがあった。いつ濡れたのかを、覚えていない。
早く帰れ、と昼の声が言った。同じことを、夜の声が言った。
*
年が明けた。
正月の十七日、師は城の北に葬られた。三代の帝の師である。
宮から弔いの使いが来た。緋の袍の官人が堂の前で式のとおりに読み上げ、読み終えると、書付を巻いて、それを持つ手を長いこと下ろさなかった。
葬列は長かった。長安の冬空の下を、幾百の僧の経が渡っていった。白い息が、朝の大路にひと筋の靄を作った。迎えに来たあの若い僧が、列の前のほうで咳をしていた。冬のあいだじゅう治らなかった咳である。道の両側では、商いの手を止めた者たちが黙って手を合わせていた。坊門の内から出てきた飴売りの老女が、道の端に膝をついていた。列が過ぎても、立たなかった。
空海は列の中で、名の帳面を懐に抱えていた。着くころには、足の指の数が分からなくなっていた。
逝った日の夜、その末尾に一行を足していた。筆を執って、字の形を決めるのに手間取った。位も号も書かなかった。名だけを書いた。
室戸の名。船の名。福州の浜の名。大陸の砦の名。あの浜で生きている名。そして、恵果。
同じ経に、同じ順で乗る。死者の国に国境がないのなら、位階もないのだった。
翌朝の経は、一行ぶん長くなっていた。
*
葬送が終わって、碑のことが起こった。
師の徳を石に刻む。誰がその文を撰し、誰がその字を書くか。兄弟子たちは幾日か談合した。学も位も年功も、みな空海の上である者ばかりだった。
総意は、しかし空海に来た。
「そなたが撰して、そなたが書け」
と、上座の僧が言った。
門の内で最初に異議を口にした人である。名を義明といった。宮の内道場に召される人でもある。空海はこの人の名を、この人の口から聞いたことがなかった。師が呼ばず、この人も名乗らなかったからである。
「お待ちください」と空海は言った。「来て半年の者にございます。まして、異国の」
「半年か」
義明は数えるように天井を見た。
「わしは、二十年からこっち、ここにおる。二十年おって、和尚があれほど笑われるのを見たことがない。この半年のことじゃ」
「異国の者が撰したと知れれば、碑ごと軽んじられます」
「軽んじる者は、誰が撰しても軽んじる」
義明は袖の内で手を組んだ。
「碑は千年、残る。千年、師の傍らに置く字は、師の喜ばれた字でなければなりませぬ」
組んでいた手をほどいて、そのまま立った。
空海は床に手をついて受けた。板の冷たさが、掌から静かに上ってきた。
*
西明寺の房へ戻った。荷は、積んだ日の高さで待っていた。
碑文の下書きは、幾夜もかけて成った。
房は冷えた。硯の墨が凍るたび、火桶にかざしては書き継いだ。温めなおすたび、炭が白くなっていった。凍っているあいだ、墨は匂わなかった。夜半には指の感覚がなくなった。感覚がなくても、字は書けた。筆の重さは、指ではなく腕が覚えている。かじかんだ手で書いた行と、温めなおしてから書いた行では、字の太さが違った。並べて見て、直さなかった。
筆が生涯の重さを負うのは、三度目である。一度目は福州の浜で、上陸を拒まれた船のために言葉の全部を注いだ。二度目は、おのれの名で道を願った。三度目のこれは、送る文だった。
天竺から唐へ、七つの手を渡ってきた火のこと。三代の帝が師と仰いだこと。両部を一身に束ねたこと。尊い者も卑しい者も、遠くからも近くからも、空の器で来て満ちて帰っていったこと。そしてその火を、海の向こうから来た者の手に移して逝ったこと。
書きながら、あの言葉が幾度も筆の先まで来た。
我れ、汝を待つこと、久し。来ること、何ぞ、遅き。
置かなかった。
あれは石に向かって言われた言葉ではない。門の内で、こちらの顔を見て言われた言葉である。筆を持ち替えるふりをして、幾度も先へ送った。
かわりに、あの夜の一句を置いた。師が、おのれに誓われたことである。
吾れは東生して、汝が室に入らん。
下書きを検めに来た義明が、そこで目を上げた。
「師が、そなたの弟子になると。それを、師の石に」
「はい」
「読む者は、思い上がりと読むぞ」
「読みましょう」と空海は言った。「それでも、師の言われたことです。わたくしが足した言葉ではありません」
義明はしばらく紙を見ていた。それから、紙の端を指で押さえて皺を伸ばし、何も言わずに返した。
*
石工が字を見に来た。
王という姓の、指の節の太い男だった。紙を広げ、日にかざすようにして端から端まで目を這わせた。字は読めぬという。読めぬが、彫りにくい字と彫りやすい字は見れば分かる、と言った。紙は石に伏せて朱に写してから彫るのだと、訊きもしないのに教えた。
「この四つを、深く」
入汝之室の四字である。
石工は四字のところへ爪の先を当て、石の目を測るように撫でた。
「浅くても千年もつ」
「深くしてください」
石工は撫でた指を離して、うなずいた。
「なら、鑿を替える」
清書ができたら取りに来る、と言って、紙を巻いた。行きかけて、廊下の途中で振り返った。
「去年の秋に、石を納めに来て、門のところで会うたことがある」
和尚のことである。
「輿の上から、こっちを見て、笑いなさった。こっちが誰かも知らんはずじゃ」
それだけ言って、帰った。
*
清書を書き終えたのは夜半だった。
最後の一字を置いた。筆を擱いた。墨の乾いていく音だけが房にあった。燈明の油が尽きかけて、炎が細く揺れていた。
その擱いた手が、震えはじめた。
この夜は炭を継いであった。火桶はまだ赤かった。寒さではなかった。堪えるべき理由が、ひとつずつ手の内から消えていった。最後のひとつが、いま消えた。
声が出た。
谷を相手に七年鍛えた声が、生涯で初めて、ただの泣き声になった。膝を抱えて哭いた。師よ、と呼んだ。
火に問え、と言われていた。いま問うているのは、火ではなかった。
言うことは、何もなかった。間違ったことが、ひとつも起きなかった。
谷は、必ず応えた。夏は広く、雪の朝は近く。房の壁は、何も返さなかった。
燈明が、そこで尽きた。油の切れた匂いが、暗がりに残った。暗がりで、まだ声が出ていた。
廊下を足音がひとつ来て、戸の前で止まり、しばらくして戻っていった。
待っていてくれた人がいなくなった世界の、最初の夜だった。
*
春の風が立ちはじめた。埃の中に、土の匂いがわずかに混じるようになった。
東の国から船が来るという報せが届いた。
国の使いの船が唐へ向かっている。用向きを終えれば、帰りの便がある。長安から越州へ下り、越州から海に出る。海の向こうに、あの国がある。大路の柳の芽が、いつのまにかほどけはじめていた。
荷の目録は揃っていた。経巻も曼荼羅も法具も、房の壁に沿って高く積まれている。二十年の勘定は、師の手で開かれ、師の手で答えを書き込まれた。閉じるのは、こちらの手である。
乗れば、約を破った僧として裁きが待つ。
乗らねば、火はこの身とともに大陸で朽ちる。
東生して、汝が室に入らん、と師は言った。
次は東の国で、弟子として。
それならこちらは、渡す側である。
渡す者は、器を探さねばならない。師が、そうしたように。
坊の外れの石場で、石を打つ音がしていた。鑿を替えた音である。




