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空海の青春 ― 消えた七年  作者: KAMUI
第6章 伝法
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第62話 消さねばならぬ

 朝が来た。


 身を清め、仏前に香を上げ、それから文机の前に座った。墨は昨夜のうちに磨ってある。灯は要らない。この話は、夜に書くものではない。


 戸は開けてある。庭の霜が、まだ白い。


 紙の白が、目に痛かった。


 四十年ちかく、書かずにきた。この書は八十四たび回る書であると、いつか記した。書かなかったひとつの言葉の周りを回り続ける書であると。私の回り道が、昨日、尽きた。


 筆を執った。


 指が、いつもの重さを覚えていなかった。軸が太くなったように思われた。


 経を書く手も、碑を書く手も、五十年この軸を握ってきた手である。その手が置き所を探していた。いちど、筆を置いた。


 書いてよいのか、という問いは、四十年のあいだに幾万度も通った道である。答えはいつも同じだった。あれは、あの人のものだ。あの人と、この耳だけのものだ。他人の目に晒してよいはずがない。


 その答えは、いまも変わらない。


 変わったのは、私のほうである。この筆で書けるうちに書かねば、あの言葉は、私の耳ごと灰になる。灰になってよいと、長く思ってきた。いまは、それでよいのかが分からない。


 分からないままで、書く。書いたものをどうするかは、書き終えてから決める。


  *


 あの夜のことである。


 都を出る前の夜だった。三巻の書を書き上げ、山へ行く、今度は戻らないと告げた。香染寺の回廊で、灯明をひとつ挟んで、私たちは座っていた。ここまでは書いた。


 その先を、書かなかった。


 告げたあと、間があった。あの人の手の中で数珠の鳴る音がしなかった。動かさずにいた。骨が白く浮いていた。私はそれを見た。見てしまった。


 囲いの内で、求めず待たずと生きてきた人が、生涯にただ一度、願いを言葉にした。


「真魚さま」


 あの人が、顔を上げた。


「――連れて行って、くださいまし」


 声は震えていなかった。低くもならなかった。長いこと胸の底で形になるのを待っていた言葉が、出てくるときの声だった。灯の焔が、その頬の輪郭を淡く縁取っていた。


「あなたの行かれる先の……空と、海とを。わたくしも、見とうございます」


 言い終えて、あの人は待った。


 焔が一度、大きく揺れた。回廊の外で松が鳴った。その音が遠のいた。あの人は目を伏せなかった。私の口の開くのをまっすぐに見ていた。求めた者が返事を待つ顔だった。この人にはそれまでなかったものである。


 幾つもの言葉が立っては消えた。


 息を吸った。その息は、言葉にならずに出ていった。


 私は答えなかった。


 答える言葉を持たなかったのではない。言葉ならあの頃の私がいちばん持っていた。詩も論も、人の恋文の代筆さえ書いた男である。持っていて、そのどれもが遣えなかった。


 はい、と言えば。


 あの人の身の上は政に絡んでいた。囲いの内にいることが、生きることの条件だった。連れて出れば追手がかかる。かからずとも、世のどこにも、あの人の立てる場所はない。はいという二文字は、あの人を生かして殺す言葉だった。


 いいえ、と言えば。


 嘘になる。連れて行きたい心に、嘘はつけなかった。空と海を、あの人の目に見せたい。その願いなら、私のほうが先に持っていた。


 いつか、と言えば。


 あの人は、待つ人になる。求めず待たずでおのれを保ってきた人の、その柱を抜くことになる。囲いの内で待つとは、明日が来ないことを毎朝知り直すことである。それを、私が毎朝あの人に課す。


 どの言葉も、あの人を損なう。


 いま書けば、理が通る。あの夜の私の中に、これほど筋の通ったものはなかった。喉が塞がっていた。


 何を選んでも何かが死ぬ。それだけが分かって、選べなかった。あの夜のことは、そう書いた。


 書かなかったのは、その先である。


 選べなかったのではない。選ばないことを、選んだのである。塞がった喉をそう呼ぶ。呼んだ以上は私のしたことである。生涯でいちばん言葉の要る夜に、言葉を捨てた。沈黙だけが、嘘のない答えだった。


 嘘がないということと、酷でないということとは、別である。


 灯明の油が、目に見えて減った。


 回廊の外では、冬枯れの松を夜風が渡っていた。その音だけが二人のあいだを流れていた。板の冷えが膝から腰へ上がってきていた。


 私の沈黙を、あの人は最後まで聴いた。言われなかった言葉を聴く人である。はいも、いいえも、その両方が遣えぬ理由も、全部聴き取ったのだと思う。そう思うことで、私はあの夜を四十年、生きてこられた。それが甘えでないとは、いまも言えぬ。


 手から力が抜けた。数珠が乾いた音をひとつ立てた。


「……いま、わたくしが申したことは」


 と、あの人は言った。


「言わなかったことに、いたします」


  *


 空と、海。


 囲いの外の話をするとき、私がいちばん多く語ったのがそれだった。讃岐の海の色。山の上から見た若葉の海。あの人が一度も見たことのないものばかりを、私は話した。


 あの夜の三年前、春の夕暮れの桜の散りぎわに、あの人が言いかけて止めた言葉があった。真魚さま、と呼んで、そこで唇が止まった。息を吸うかすかな音まで、この耳は聞いてしまった。その続きを、私は三年、知らずにいた。


 これが、全文だった。


 あの人は、止める人ではなかったのである。


 行くなと言いかけたのだと、私はどこかで思い込んでいた。求めない人が生涯に一度だけ求めるとすれば、それは引き止めることだろうと。あの人が唇まで運んだのは、外だった。


  *


 名を書く。


 その人のまことの名である。四十年、誰にも言わず、どの帳面にも載せず、声に出して呼ぶことさえしなかった名を、いま初めて書く。


 筆が止まった。書いたことのない一字である。


 望子、という。


 満ちる月の字である。その字を負って、囲いの内で、満ちることのない望みだけを抱いて生きた。


 汀という名は、私が贈った。


 まことの名が、表で呼べる名でなくなったからである。政の都合が、あの人の名を世から削っていた。呼べない名のかわりに、呼べる名を作った。波が寄せて返る際の名である。


 いつか、砂に書いた字を波が消す話をした。消されても、また書きたくなる場所でした、と私は言った。言ってしまってから、耳の先が熱くなった。


 あの人はしばらく黙っていた。それから笑った。初めて見る笑みだった。夕暮れの薄闇に、その顔だけがふっと明るんだ。


 あの人は、あなたの前でだけ、汀でおります、と言った。


 一度だけ、まことの名を呼びそうになったことがある。


 山の五年目、幻の声が谷に満ちた季節である。声が、あの人の声の形をして聞こえた。呼び返しそうになる口を、私は座で縛った。呼べば幻は、実の顔をして居座る。実のあの人は、都の囲いの内で、実の日々を生きている。幻に名を遣うことは、実のあの人への不実である。そう、おのれに言い聞かせた。


  *


 行が満ちて、ふた月が経っていた。浜で、名を問われた。考えて出したのではない。名のほうが、口を通っていった。


 空と、海。


 あの朝、洞の口から目に映ったものは、空と海のふたつきりだった。


 あの夜、答えなかった請いの言葉から、二つの字を取った。見とうございます、と言われた、その二つである。連れては行けなかった。だから、名が代わりに行く。私がこの名を名乗って生きるかぎり、あの人の望んだ空と海は、私の名の中にある。


 答えは要りませぬ、とあの人は言った。答えのないままで、あの言葉は、わたくしとあなたのあいだに、あり続けますから、と。


 要らぬと言われた答えを、私はこの名で言い続けた。名乗るたび、声には出さずに。


 七年ののち、あの門でこの名を告げた。あの人に向かって二字を口にするのは、それが初めてだった。音は、思っていたより短かった。


 あの人は口の中で、その二字を一字ずつ確かめた。確かめた口が、そのまま呼んだ。


 間があった。呼んだばかりの名の余韻に耳を澄ますような間だった。よい、お名前、と言った声が、わずかに揺れた。わたくしの見たことのないものが、ふたつとも、あなたの、お名前に、なりました、と。


 そのとき私は、あの人は知らないのだと思った。


 名の底に何が入っているかは、私だけが持っているものだと。それから今日まで、そう思ってきた。


 いまは、違うと思う。今日その声を紙に置いてみて、切れ方が初めて目に見えた。


 あのとき声が揺れた。ふたつとも、あなたの、お名前に、と言葉が切れた。知らぬ者の言い方ではない。


 気づいていたのだ。おのれの請うた言葉が名になっていることに。気づいたうえで、気づかぬ言葉を選んだのだろう。言えば終わる。言わなければ続く。二人で結んだ掟の内側で言える、ぎりぎりの受け取りが、あの切れ方だった。


 二人とも知っていて、言わなかった。


 その日、私は海を渡ることを告げた。二十年の律も告げた。もう一度だけ待っていただきたい。それは、七年を二十年にしてくれということである。


 待つ人にすまいと思って黙った夜から、七年が経っていた。その私が、待ってくれと言った。


 二十年、とあの人は低く繰り返した。名を聞いたときは揺れた声が、この数では揺れなかった。揺らさずに言うために要ったものが、私の耳には聞こえてしまった。


 あの人は、ひとつ息をした。


 今度は、待つとは、申しますまい、と答えた。あなたの帰り道に、わたくしが立ってしまいますから、と。


 そのときは赦されたのだと思った。


 七年、あの人がしていたのは待つことだけである。それをやめると言ったのだ。私が身ひとつで行けるように、おのれのしてきたことを畳んで見せた。私はそれを赦しとして受け取って、船に乗った。


 受け取ってよいものではなかった。


  *


 いずれ、国史の筆が、この御代まで伸びてくる。


 私の名も、どこかに一行、載るのだろう。だが二十四の歳から三十一の歳まで、あの男がどこで何をしていたかは、そこにない。


 消したのは、私である。


 あの歳月を語れば、道の途中にあの人がいる。言葉を貰った夜がある。名を贈った夕暮れがある。閉ざされた門と、開いた門がある。囲いの内に置かれ、世に在らぬことにされた人の在り処へ、私の来し方を辿る者の足が届いてしまう。


 だから伏せた。


 私を見た者はいる。だが誰も、切れ端しか見ていない。七年をひと続きに知るのは、私しかいない。繋げて書けば、それは道になる。道は、辿られる。この筆は、それをいちばんよく知っている筆である。


 史書が、七年を消すのではない。


 私が、消さねば、ならなかったのだ。


 ひとつだけ、消せなかった。


 日に幾度も、人がそれを呼ぶ。


 穂先の墨が、いつのまにか固くなりかけていた。硯にひたして、また下ろした。


  *


 書き終えて、筆を置いた。


 日が高くなっていた。庭の霜は解けて、土が黒く濡れていた。土の匂いが、開いた戸から薄く入ってきた。どこかで冬の鳥がひと声鳴いて、やんだ。


 四十年、回り続けてきた。その中心が、いま埋まった。書いてみれば、それだけのことである。そして、それだけのことを書くのに、ひとつの生涯が要った。回り道は、まだ二十あまり残っている。


 この一枚は、書に綴じない。


 道は辿られる、といましがた書いた。四十年、私はその道を消してきた。焼けば確かである。灰は辿られない。


 その確かさを、この一枚には遣わない。


 回りながら、ついに書かずに終わる。そう記した書は、記したとおりに終わる。あれは、あの人のものだ。その答えは、いまも変わらない。変わらないから、書いた。書いて、持って行く。


 あと幾年これを懐に入れて生きるのかは知らない。長くはあるまい。


 立つときに、いちど文机へ手をついた。


 筆を洗った。水が、墨を薄く曇らせた。


  *


 物語に戻らねばならない。


 長安は、冬である。


 冬の朝の経は、白い息になった。息は幾百の名を順に乗せて、凍った空へ出ていった。大路を行く人の襟が深くなった。堂の軒には氷柱が下がり、朝の光を細く返した。乗らない名がひとつあることも、変わらなかった。


 名を持たされたものは、暴れることをやめる。器の底で、それはただの静かな同居人になった。知っても癒えはしなかったが、争わずに置いておくことはできた。


 曼荼羅の彩色は仕上げに入っていた。硯の水に薄く氷が張り、指で押すと割れた。経巻の写しが積み上がり、荷を束ねる縄の鳴る音が、昼の房に規則正しく続いた。西明寺の窓の紙は、毎朝、霜の花で白く曇った。指で拭えば、外の光が水色に滲んだ。


 彩色の進み具合も、経巻の数も、恵果は床の上で聞くことが多くなっていた。


 十二月に入ってすぐだった。


 夜明け前、西明寺の門を誰かが叩いた。凍った闇の底でその音は思いのほか遠くまで響いた。青龍寺からの使いだった。夜の長安は、町ごとに門を閉ざす。病の使いだと告げて、ひとつずつ開けさせて来たのだろう。廊を走ってくる足音の乱れが、用向きの重さを先に告げていた。


 師の容態が、変わった。

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