第61話 不在
秋が来た。西明寺の槐が、日ごとに黄色を深くした。朝の床が、素足に冷たい。
空海は、問う側の席から答える側の席へ移っていた。
青龍寺の講堂では、下座の僧に講じる。西明寺の房へは、長安の学僧が問いを持って上がってくる。海の向こうから来た男が両部のまんなかへ二度花を落とし、第八の座を継いだ。噂は、都の寺という寺を巡り終えていた。
遍照金剛阿闍梨、と人は呼んだ。
去年の秋、浜の柵の中で、名乗る言葉さえ信じてもらえなかった男の、三つ目の名である。
*
九月のはじめ、大興善寺から白髪の学僧が来た。供も連れず、経巻の帙をひとつ抱えていた。敷居で一度、足がもつれた。年は七十を越えて見えた。
茶が出た。学僧は椀に手をつけなかった。
「阿闍梨は何年、この法を学ばれた」
「授かって、ひと夏です」
帙の紐にかかっていた指が、止まった。
「では、その前は」
「山に、おりました。七年」
「山で、何を」
庭で葉が一枚、落ちる音がした。
「黙を」
学僧はもう問わなかった。帙の紐は解かれなかった。深く礼をして、帰っていった。衣擦れが廊下の先へ遠ざかった。
答えたのは、三つの短い言葉である。それで届くものがあった。あの浜では、幾万の言葉が届かなかった。
衣擦れが聞こえなくなってから、空海は自分の茶に手を伸ばした。冷えていた。
答える席は、静かな席だった。谷が、声を受けてただ返したように。
同じ月のうちに、若い僧が三人続けて来た。ひとりは印の結び方だけを訊いて帰った。ひとりは何も訊かずに半刻座って帰った。三人目は、日本に仏法があるのかと訊いた。
「あります。二百五十年ほど」
「二百五十年」と若い僧は言った。「こちらは、七百年になります」
七百、と言うとき、声がわずかに張った。
「ですから、来ました」
若い僧は口を開きかけて、閉じた。
*
支度は、恵果の言いつけで始まった。
「持てるだけ、持って、帰るがよい」
輿の上からそう言った。歩く距離が、月ごとに短くなっていた。
「火は、移した。だが、火だけでは、保たぬ。囲む炉も、要る」
「冬の内に、揃えよ」
そのときまで、恵果は日を切ったことがなかった。六月に聞いた言葉が、日を持って戻ってきた。空海は指を折らなかった。折るまでもなかった。
宮廷に仕える絵師の李真ら十余人が、寺に通ってきた。両部の大曼荼羅を、十鋪。絹が張られ、膠が煮られ、房の空気に緑青の匂いが混じった。経生が二十余人、集められた。密蔵の経を写すのである。供奉の鋳博士、楊忠信が、壇の法具を十五事、新しく造った。五鈷、三鈷、独鈷、金剛盤。
西明寺の房は、日ごとに工房になった。昼を過ぎると、格子窓の日が描きかけの図の上をゆっくり渡っていった。
絹が張り終わったころ、空海は一鋪の前で足を止めた。胎蔵の中台八葉、その東北の一尊である。指の組み方が、原本と違っていた。
「こちらでは、こう描きます」と李真は言った。筆は止めなかった。「三代、こう描いております」
「原本のとおりに、お願いします」
筆が止まった。李真は絹から目を離さずに言った。
「阿闍梨。長安には、この図を直せる手が幾人もおります。直せる手のあるところでは、多少の違いは、あとで直ります」
「わたくしの国には、直せる手がありません」
李真が、初めて顔を上げた。
「阿闍梨の国には、これを描ける手がございますかな」
「……ありません」
絵師はしばらく空海を見ていた。それから筆を洗い、洗った筆を新しい膠に浸した。
「ならば、これは写しではございませんな。種だ」
膠の匂いが立った。
「種は写しより丁寧に描かねばならん。この一鋪から、そちらの国の百年の絵が生えるのだからな」
種、という言葉を空海は蔵った。写しは器だけを写す。世界の都に入った日に、そう思った。
絹に触れようとした手を、引いた。
その夜、弟子の房に遅くまで灯が点いていた。東北の一尊は、翌る日、原本の指に描き直されていた。
*
経生の写しは、一字ずつ検めた。二十余人が一斉に筆を運ぶ房は、雨の音に似ていた。一度読んだ経は、頭の帳面が持っている。突き合わせながら、空海はときどき指を止めた。止めたところに、違いがあった。
突き合わせの三日目に、経生の頭が訊いた。
「阿闍梨は、原本を開かずに、どこが違うかお分かりになるのですか」
「原本を、覚えております」
「百余巻を」
「はい」
頭は写しの束を持ち直した。以来、経生たちは空海の足音で背を伸ばした。
十一月に入ると、房の隅に火桶が置かれた。膠は火から下ろすとすぐ固まった。経生たちは半刻ごとに筆を置き、指を火にかざしてから、また持った。雨の音が、そのたびに途切れた。
恵果は時折、輿で検分に来た。輿を降りるとき、若い僧の肩を借りるようになっていた。講義は短くなった。だが図の前に立つと、目だけが昔の速さで動いた。
ある日は、輿の縁に手をかけたまま、しばらく降りなかった。若い僧が肩を差し出した。恵果の指がその肩を掴んだ。僧の衣に、皺はひとつも寄らなかった。
その日、一鋪を検分し終えて、恵果は言った。
「……そなたの目は、もう、わしの目じゃ。任せる」
返事は、しなかった。輿が上がるとき、担ぎ手の膝が鳴った。それは、聞こえた。
輿が西明寺へ来たのは、その日が最後になった。
青龍寺へ上がっても、和尚の房の前で戻る日が増えた。
「休んでおられます」と若い僧は言った。
*
荷は嵩を増した。房の隅の積みが、天井へ近づいていった。
目録が作られはじめた。経典何巻。曼荼羅何鋪。法具幾事。頼まれる前に、数える頭が諳んじていた。残された日は、目録の行数で測れるようになっていた。
筆を持つ手が、行の途中で止まった。穂先で墨が乾いた。
二十年である。
国を出るとき負ってきた約だった。国の資で渡った僧は、二十年学んで帰る。まだ二年目である。二十年ぶんの荷が、二年目のうちに揃っていく。
誰も、その勘定を口にしなかった。恵果も言わなかった。支度だけが、答えを先に置いていくように進んだ。
数える頭は、毎日それを突きつけてきた。受け取れば、決めねばならない。
十一月の末、経生の頭が写し終えた巻を抱えて来て、帰りぎわに訊いた。
「冬の内に、と伺っております。なにゆえ、冬の内に」
空海は答えなかった。
頭は待った。待たれて、なお答えられなかった。
「急ぎます」とだけ言った。
頭は礼をして帰った。廊下の途中で一度、振り返る足音がした。
*
夜、西明寺の房で、あの音が鳴った。
昼は聞こえない。満ちた日々の音に紛れる。床に就き、都の音が暮鼓とともに退いていくと、静けさの底から浮かんできた。梁の高みで家鳴りがひとつして、やんだ。
小さい。遠い。消えない。
聴き取れない音は、生涯なかった。潮の満ち干。谷の応え。船腹の下のうねり。凍る駅の朝に霜柱の育つ音まで、この耳は拾ってきた。その耳が、この音だけを掴めなかった。澄ませば遠のく。追えば消える。追うのをやめた夜更けに、また鳴っている。
灯の芯の鳴りかと思って、灯を消した。鳴った。
遠くの誰かの夜通しの経かと思った。夜半、都の経は絶える。それでも鳴った。
おのれの耳鳴りなら、耳を塞げば近くなるはずだった。塞いだ。遠くなった。
外の音なら、どちらから来るかがあるはずだった。右も左も、上も下もなかった。
耳の外にも、内にもない音だった。
起き上がって、格子を開けた。都は寝ていた。音は、増えも減りもしなかった。
*
霜の降りた朝、勤めを終えて市へ出た。日はもう高かった。路地の水たまりに、薄い氷が残っていた。踏むと、乾いた音で割れた。
湯餅のあの店である。福州の水夫の名を湯気の中へ呼んだ、あの路地の奥。
主は顔を覚えていた。だが、椀を出す手つきが変わっていた。奥の卓を空けようとした。
「そこで」と空海は土間の端を指した。
主は妙な顔をして、それでも土間の端に椀を置いた。噂は、路地の奥まで届いていた。
湯気が顔へ上がってきた。かじかんだ指が、椀の腹で熱を持ち直した。汁は、去年の暮れより薄い。湯気の熱さだけが、あの日と変わらなかった。
土間の隅に、老いた夫婦者がいた。
椀はひとつだった。匙がふたつあった。婆が匙を入れ、爺が匙を入れた。婆が葱を爺の側へ寄せ、爺は何も言わずにそれを食った。ふたりはほとんど口をきかなかった。市の隅の、どこにでもある昼である。
空海は目を逸らしていた。
逸らしてから、逸らしたことに気づいた。見てはならぬものは、何もない。老いたふたりが、ひとつの椀を分けている。
胸の奥で、何かが軋んだ。
その軋みが、夜のあの音と同じ高さをしていた。
帰りぎわ、爺が婆に何か言った。聞き取れなかった。婆が笑った。それだけである。
昼の市の雑踏の中で、あの音は鳴っていた。
*
朝の経は続いていた。息が白くなる季節に、入っていた。
室戸の名。船の名。浜の名。砦の名。福州の生きている名。名はもう幾百になっていた。死んだ者の名は迷わぬように。生きている者の名は届くように。毎朝、寺の隅で全部を呼んだ。呼ぶことは、務めというより身体の一部になっていた。
その帳面に、載せたことのない名がひとつある。
死んではいない。だから、死者の頁には載らない。生きている名は、呼べば届く。福州の名には、そうした。
幾百を呼び終えると、息がひとつぶん余った。
呼ばなかった。
一度もである。なぜ呼ばないのかを考えることさえ、どこかで避けてきた。
幾百の名を呼ぶ男が、ただひとつの名を呼ばずにいる。
不在、と字を思った。在らず、と書く。だが、あの音は違うことを言っていた。
*
月のない夜だった。風が格子の外を擦っていった。遠くで犬が二声鳴いて、あとは風だけになった。
空海は床の上に身を起こした。房の闇は深く、おのれの手も見えなかった。
追うことをやめた。かわりに、観法の座を組んだ。闇の中で、さらに目を閉じた。教わった深さで息を置いた。仏を観るために手渡された道を、その夜、空海はおのれの底へ下りるために遣った。
音のほうへ、下りた。
下りるにつれ、耳が役に立たなくなった。潮も谷も、拾うための耳である。ここには拾うものがない。息だけが道になった。
山で七年、黙を学んだと答えた。黙の聴き方を学んだつもりでいた。座って待てば、谷はいつか返す。返らないときは、こちらの座り方が悪い。七年、そう教わった。
いま下りている先に、その黙はなかった。
息が細くなった。細くなるほど、底が近い。底には壁がある。壁はなかった。
それは、音ではなかった。
膝の上で、手がひとりでに開いた。
沈黙だった。
鳴らないということが、鳴っていた。返されるはずだった返事の場所。そこだけが、世界の音の中で空いている。七年と二年になる。
いつの沈黙か。
問うまでもなかった。
おのれの沈黙である。あの夜――
そこで空海は目を開けた。
闇の中に、長安の房の天井があった。胸の上で汗が引いていた。心の臓が、行のあとのように鳴っていた。
その夜は眠らなかった。夜明けの経の刻限まで、闇の中に座っていた。足はとうに冷えきっていた。そのことに、気づかなかった。風は、夜半に止んだ。沈黙はもう隠れなかった。名指される日を待つものの静けさで、器の底に在った。
*
ここまで書いて、老いた男は筆を置いた。
次に書かねばならぬのは、この書が八十四たび回ってきた、その中心である。あの夜から、書かずにきた。
回りながら、ついに書かずに終わる。そう記した筆で、いま、書こうとしている。
墨を新しく磨った。灯の芯を切った。夜が更けた。筆は動かない。
明日、書く。




