↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
空海の青春 ― 消えた七年  作者: KAMUI
第6章 伝法
PR
60/71

第59話 灌頂

 花を買った。


 東の市である。湯餅の路地の幾筋か手前に、花だけを商う店が三軒並んでいた。六月の長安は蓮の季節で、どの店先にも桶が出ていて、白と紅の蕾が水から立っていた。水は替えられて間がないらしく、水面が路地の光を静かに返した。


 店の女は日に焼けた腕をしていた。桶から紅の一本を抜いて、こちらへ向けた。


「祝いなら、紅を」


 聞き取れたのは、そこまでだった。あとは語尾が縮んで飛んだ。市の言葉である。論の座でなら一句も落とさぬ耳が、この店先では半分しか拾えない。値を訊き、数を言い、銭を置く。それで足りた。


 空海は白い蕾のほうへ指を伸ばした。なぜ白か、とは訊かれなかった。訊かれても答えようがなかった。


 桶ひとつぶんをまとめて求め、運ぶのは寺の人足に頼んだ。蕾はまだ固く、水の張りが指先に伝わってきた。


 香花を弁ぜよと言われたとおりに、香を求め、花を求め、壇にかかる費えを整えた。使ったのは叔父の持たせてくれたあの留学の資である。学問の家の銭が学問の外へ行く男の路銀になる、と大足は言った。その路銀が、いま香に変わろうとしていた。沈香の値を聞いたときには、さすがに指が止まった。止まったが値切らなかった。ここで削った銭のぶんだけ壇の香が薄くなる。それで済む話だった。


 七年前、あの山に入った朝も、荷を結ぶ手つきはいつもの手つきだった。市の雑踏は、いつもと同じ濃さで鳴っている。人足が担ぎ棒を通すのを待つあいだ、買った桶の縁で、水滴がひとつ膨らんでは落ちた。


  *


 壇の支度は、この一月、新昌坊の青龍寺の東塔院で進んでいた。堂の内で土を突き固める音が、朝から夕まで境内まで響いた。職人が三人。二人が杵を落とし、一人が土を運ぶ。二つ突いて、一つ休む。その拍が読経の合間に入ってきて、境内はひと夏ぶんの音を持った。若い沙弥が桶で水を運び、突かれた土に打つ。木の枠を組んで内へ土を入れ、突き固めては枠を上げていく。側は土のまま残すのだという。土の匂いが、香の匂いの下からずっと立っていた。


 弟子たちの目は初め硬かった。二十年、三十年と師に仕えてきた者たちを差し置いて、海の向こうから来たばかりの男がいちばん奥の門へ通される。当然だった。


 いちばん硬かったのは上座の僧である。門の内で最初に異議を口にした人だった。あれからは何も言わなかった。廊下で行き合っても目を合わせなかった。


 空海は毎朝、寺の隅で名の経を読んだ。誰にも言わずに読んだ。日ごとに少しずつ長くなった。この寺で自分に量れるものが、それだけだった。


 それから廊下の端に桶を置いて水を汲み、板を拭いた。頼まれる前にした。来たときよりきれいに。山でずっとそうしてきた手つきがそのまま出た。桶はひとつで足りた。


 ある朝、拭いていると上座の僧が足を止めた。


「客に掃かせては、寺の名が落ちる」


 唐語だった。ゆっくり言ってくれた。厚意なのか嫌味なのか量りかねた。


「客では、ありません」


 と、空海は答えた。経の唐語ならいくらでも出た。この押し問答に継ぐ一句を、まだ持たなかった。


 上座の僧はしばらく桶の水を見ていた。それから行った。


 三日のちに、その人は壇の次第の名を問うてきた。用いる順である。言い出す前に一度、短く息を吸う人だった。その吸う音に、いつも小さな引っかかりがあった。試されているのだと分かった。分かったうえで、聞いたとおりに並べて答えた。途中で一度、順を違えた。違えたところで上座の僧が短く直した。空海は直された順をもう一度初めから言った。上座の僧はその順を自分の口でひととおり繰り返してから、去った。


 翌朝、廊下の端に桶が二つ置いてあった。前の日まで一つだった。二つめには、もう水が張ってあった。


 恵果は支度の間も日ごとに痩せた。咳が増えた。咳のあとに必ず短い間があった。息を継ぐための間である。座している時が長くなり、衣の肩がひとまわり薄くなって見えた。湯を飲む手が、椀の重さに一度負けた。負けたのを見せまいとして両手にした。


 だが壇の指図になると声が立った。痩せた喉から出ているとは、聞いていて思えない声だった。壇の寸法を言うあいだ、息の継ぎ目が消えた。急かす言葉はひとつも出なかった。かわりに、ぽつりと言った。


「夏は、短い」


  *


 六月の上旬。胎蔵の学法灌頂の日が来た。


 前の夜から寺に籠った。夜明け前に沐浴した。水はぬるく、それでも肌に残った昨日の暑気を一枚だけ剥がした。堂の外は明けきらぬ青い闇である。浄衣をまとった。真新しい布の糊の匂いがした。遠くで一番鶏が鳴いた。


 花は境内の桶にあった。買ってから三日が経つ。井戸端の日陰に置かせ、日ごとに水を替えさせていた。それでも大半は開ききって、白い縁が茶に焦げはじめている。まだ固いのは数えるほどしか残っていなかった。開ききったものは堂の口の浅い盤に浮かべさせた。桶に残った固い蕾から、一本を抜いた。茎は、掌のうちに納まるほどに切ってあった。抜いたあとの桶へ、沙弥が新しい水を注ぎ足した。細い水が水面を打ち、残った蕾が一つ、ゆっくり向きを変えた。堂の口まで運ぶのは、その子の役だった。抜いた一本を預けた。


 堂の奥は幕で仕切ってあった。その内が壇の間である。その外で作法の子細を教えられた。教える役の僧は年かさで、語尾をひとつずつ置くように言った。まず、内で授かる印と真言を外へ漏らさぬ誓いを立てさせられた。


「花を投じていただきます。落ちた先の御仏が、生涯の御仏になりまする」


 僧はそこで一度、口を閉じた。


「終いに頂へ水を注ぎます」


「狙っては、なりませんか」


「狙えませぬ。目を覆いますゆえに」


 どの御仏がよいのか、知りたかった。知らないまま、生涯の御仏が決まる。


 靴を脱いだ。足の裏が、板から瓦へ移った。そして最後に、目を覆う一枚の布が渡された。


 仏の世界にまみえる前に俗の目を閉じる。そういう作法だと聞いた。空海は布を受けた。掌に置くと、思ったより厚みと重みがあった。自分で目に当てた。織り目がまつ毛に触れ、まばたきのたびに、それを挟んだ。後ろで結ばれた。結び目が締まると、目の上に布の重さが乗った。乾いた指が二度、剃った頭の地肌に触れた。


 世界が消えると思った。


 逆だった。


 世界が、立ち上がった。


 香は三つの高さに分かれていた。足元を這うのは沈香である。指の止まったあの値の匂いが、いま自分の足首のあたりを重く流れている。胸の高さには甘いものが漂い、天井の闇へは細い一筋が立ちのぼっていく。供えの水の匂いが、香の下にひと刷け冷たい。そのもっと下に、蓮の匂いがあった。前からではない。背中のほう、堂の口の浅い盤からである。開ききったものが匂う。固いまま奥へ運ばれた一本は、匂わない。どちらも、自分の求めた花である。


 読経の声が方角を持っていた。右は四人か五人。そのうちの一人は息が浅い。左はそれより多い。左の声は一度壁に当たってから戻ってきて、そのぶん堂の広さが知れた。唱えを起こす僧の声だけが、やや高い段の上から降ってくる。燈明の芯がはぜた。あちらでひとつ、間を置いてまたひとつ。待つうちに、はぜた場所が数になった。あちらに三つ。こちらに五つ。布の下は、左右の低いところがぼんやりと赤い。正面は、暗いままだった。


 耳が、堂を見た。


 すでに熱の溜まった堂だった。こめかみを汗が一筋下りた。布に触れそうで、拭えなかった。冷たいのは素足の裏である。それが踵から上がってきて、爪先の下に継ぎ目が一本走っていた。そこだけ途切れている。


 手が来た。導く手だった。乾いて、熱かった。病んだ人の熱ではあった。だが、握りは揺るがない。指の腹の、筆を持つところだけが硬い。剃った頭に触れたのと同じ指だった。この手に引かれて幕の内へ入る。空海はその手に手を預けた。


 一歩ごとに、手はこちらの歩幅を聴いていた。引くというより、道の形を手のひらで伝えてくるのである。段がある。右へ曲がる。止まる。


 教えの前に、まず手が渡された。


  *


 壇の間は、香がいちだんと深かった。息を吸うたびに、香が胸の奥まで下りてくる。


 止められた。手を取られて前へ導かれ、左の指が腰のあたりの高さで、壇の縁に触れた。木の縁が冷たく、そのすぐ内側から布になった。厚みがあり、織りが細かく、指を置くと下の土の固さが返ってきた。皺ひとつなく敷いてある。その上に何かが描かれている。指の下に、布の目より高い細い盛り上がりがひとすじあった。線である。それ以上は、手が止められた。


 左の指を縁に残したまま、右の掌を上へ向けさせられた。そこへ花が載せられた。指の間に茎の細さがある。蕾はまだ固く閉じていた。水の湿りが、まだ茎に残っていた。花びらの先が指の腹にかすかに触れている。


「投ぜよ」


 手の主の声だった。声の前に、短い間があった。


 声のあとで、読経が止んだ。


 どこへ、とは言われなかった。手から離れたものの行方を、決められたことなど一度もなかった。


 砂に書いた字は波が消した。置き文は、読まれる顔を見られなかった。三巻の書は手を離れて勝手に歩き、海を越え、莚の前まで人を連れてきた。嵐の夜、風は繋げなかった。


 掌に、さっきの手の熱がまだ残っていた。あの手も渡した先の行方までは決められまい。渡す先を長く探していた人である。


 それでいい、と思えた。


 左の指が、縁を離れた。水の湿りは、いつのまにか自分の汗に替わっていた。大きくは振らなかった。胸の高さから前へ、放った。親指、人差し指、中指の順に離れた。花が、手を離れた。


 目の上の布が、内側から生ぬるく湿ってきた。拭う手がなかった。


 花が宙にある間があった。耳には、何も聞こえなかった。手放したものだけが闇の中を落ちていった。


 微かな音がした。前で落ちた、と分かった。そこに何が描かれているかを、知らなかった。


 右のほうで、誰かが短く息を吸った。あの引っかかりがあった。言いかけて、呑んだ。


 読経は止んだままで、誰も動かない。老師の声が、震えを隠さずに言った。


「――不可思議なり」


 それからもう一度、今度は誰に言うでもなく、低く。


「不可思議なり」


  *


 布が解かれた。


 色だった。


 朱が、視野の端から端まで張っていた。目の芯を刺す朱である。そのすぐ隣に、葉の裏のような緑があった。緑の向こうは群青で、夜の水の色をしていた。三つは混ざりもせずに隣り合い、その隙間という隙間を金が縫っていた。燈明が揺れるたび、金泥の線だけが起き上がっては伏せた。


 涙が出た。まぶしかった。拭いても、また滲んだ。


 輪郭は遅れた。色の中から顔が浮いた。顔はひとつではなかった。


 壇の上に大きな図が敷かれていた。中心にひとつの仏。その仏を囲んで仏たちが環をなしている。環の外は四角い囲みで、囲みの外にまた囲みが、幾重にも内から外へ広がっていく。外の果ての怒りに歪んだ顔から、中心の静かな顔まで、すべてが繋がってひとつの図になっていた。大悲胎蔵生の曼荼羅である、とあとで名を教えられた。


 外の顔から内へ、目が勝手に辿った。辿り終えたとき、息が止まっていた。


 金泥の明滅は、どう聴いても拍にならなかった。耳では蔵えない。目というものに、降参した。


 窪みが鳴った。長安に来て、いちばん高い音だった。


 額の中のふたつが世界の全部になったあの朝の景色も、百万の営みがまるごと鳴っていた音の海も、海で死んだ者と砂漠で死んだ者が隣り合った名の帳面のあの頁も、この一枚の上にあった。


 世界の見取り図だった。


 そして、その中心の仏の胸の上に白い蓮が一輪載っていた。図じゅうで、そこだけが色を持たなかった。手を置いた縁から、三尺ばかり内である。


「中台、毘盧遮那。八葉の、まんなかじゃ」


 老師の声だった。毘盧遮那と八葉のあいだで、一度息を継いだ。


 弟子たちがざわめいた。その中で、ひとつだけ短く息を吸う音がした。


「まんなかに落ちた者を、わたくしは存じませぬ」


 意味は少しあとから届いた。


 中台の白は、今朝この手で桶から抜いた一本である。指が、まだ茎の細さを覚えていた。


 手から離れたものが、どこへ落ちたのか。それを見せられたのは生涯で初めてだった。


  *


 あの手がもう一度来た。壇の前、縁からひと足下がったところで跪かされた。膝の下に敷き瓦の固さがあった。


 瓶が運ばれてきた。若い僧が腹を両手で支え、老師はその口に手を添えた。重さは若い僧の腕にあり、老師の手にあるのは傾きだけである。


 顎を軽く引くほどに、頭を垂れさせられた。


 注ぐ前に必ず、あの熱い手がいちど頭の頂に置かれた。掌の熱が先に届いた。手が離れ、そのあとから水が来た。


 冷たさは頂のうしろに落ちて、うなじへ筋になって下りた。汗の乾いたあとを、水が通っていく。二つめは耳のうしろを通った。三つめは剃り跡のざらつきに散って、筋が二手になった。四つめでは襟の中まで入り、浄衣の肩が吸って、布が肌に貼りついた。その途中で、水の筋が一度細って、また戻った。傾きを保ちきれなかった手である。垂れた頭を、動かさなかった。保ちきれぬまま、注ぎきった。


 五つめは、朝に汗が下りたのと同じ道をこめかみから辿って、頬からあごへ落ちた。唇の端をかすめた水に、かすかな苦みがあった。壇の香が溶けている。それきり、手は頭の頂に戻らなかった。


 数えたのは、鳴りのほうだった。瓶が替わるのは目の端に見えている。注ぐうちに少しずつ低いところへ下りていき、瓶が替わるたび、また高いところへ戻る。その下りが、五たび。数えている自分に、途中で気づいた。


 肩を伝った水は膝の前へ落ち、敷き瓦の継ぎ目を伝って、壇の裾の土に吸われた。幾日も沙弥が水を打ち、職人が突き固めた土である。


 今朝、細い水が水面を打っていた。あの水を受けなかった一本が、いま中台にある。水は、こちらの頂に来た。


  *


 堂を出るとき、一度振り返った。幕は上げられていて、壇の上の白は、まだそこにあった。掌には何も残っていない。


 入るときは、影というものがどこにもなかった。いま、庇の影が足元まで短く落ちている。空は乳色に霞んでいて、影の縁までぼやけていた。夜明け前に入って、日はもう真上を過ぎている。


 廊下で行き合うと、深く頭を下げる者があった。風には、壇の香の名残がまだ流れていた。


 上座の僧が、廊下の端で足を止めた。


「花は、どこで求めた」


「東の市で」


「はじめから、白か」


「白です」


「祝いには、紅を勧められたであろう」


「勧められました」


 上座の僧はそれきり何も訊かずに頷いて、行った。


 日が傾いてから、老師の前に呼ばれた。


 恵果は座ったまま、しばらく息を継いでいた。継ぎ終わってから目を上げた。継ぐ間が、壇で聞いた声より一つぶん長かった。


「明日から、伝授に、入る」


 と、老師は言った。


「瓶の水を、瓶に移す。……一滴も、こぼさずに、な。胎蔵が済めば、金剛じゃ」


 移す、の一語だけ、間が入らなかった。


 金剛。今日の壇は明日崩し、同じ土で突きなおすのだという。またあの音が境内に響く。二つ突いて、一つ休む。


 老師は窓のほうへ目をやった。外で蝉が鳴いていた。こちらが今年の声を聞くのは、これが初めてだった。


「夏は、短い」


 日暮れの光が、房の床に長く伸びている。長安の蝉は、日本の蝉と声が違った。その違いごと耳に蔵って、空海は頭を下げた。


 堂のほうから、瓶を片づける音がした。その瓶に、また水が満たされる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。